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今日も雨だ。
そういう時期だから仕方がない。だからといって出かける気にもならないし、ぼくの家をたずねる誰かもいないから、やはり今日もまた誰とも会わない。
本を読む。目と頭がよくはたらく。体は椅子に固定されている。
ヒロインが死ぬ。一貫して共感のできないヒロインだった。主人公が好きなのに主人公とは話さず、最後主人公に告白してひっそりと死んでいった。
そういう人は世の中によくいるように思える。
他人と関わりたい。けど怖い。距離を置く。壁を作る。
たぶんそういう人は肝心なときにしか動けないのだ。このヒロインも。そして肝心なときにはいつも手遅れになっている。
もしかしたら、チャオも人と同じなのかもしれない。
ぼくのチャオは、いつも遠くからぼくを見てじっとしている。
ぼくは自分のチャオとも会っていない。
同じ場所にいるだけだった。
インターホンが鳴る。
ぼくは専用の受話器を取ったが、故障しているようだった。しばらくの間、対応すべきかそうでないか迷って、やや緊張しながら玄関に向かった。
ドアはぼくが玄関に着くと同時に開いた。赤いチャオが立っていた。
チャオが開けたのか。そういえばドアにチャオ用のノブがついているのをすっかり忘れていた。『チャオでも開けられるくらいの軽さ』をセールスされたことを思い出す。
「隣の部屋に引っ越してきました」
細い声。チャオの後ろに女の子。
「これ、つまらないものですが」
丁寧に包装された箱。
少し間が空いた。
「どうも」
また間が空く。
「じゃあ、すいません」
ぼくの声は遠く感じた。
こてん。音がする。ぼくの後ろでチャオが転げている。
「チャオ、飼ってるんですね」
それが彼女とのファーストコンタクトだった。
あたたかそうな桃色のシャツ。白いロングスカート。赤いチャオ。
何度か顔を合わせるうちに、ぼくの中での彼女の印象はそれになっていた。
引越しの挨拶以降、彼女は頻繁にぼくと話している。
やってくる時間はきまって夕方だった。
わたし、引っ越してきたばかりだからまわりに知り合いがいないんですよ。
わたし、目をあわせてしゃべるのが苦手で。
わたし、ほんとは男の人と話すの苦手なんですけど。
彼女はずっと自分の話をしていた。だけどぼくがよくおぼえているのは、いつも赤いチャオだった。
赤いチャオは笑わず、しゃべらず、ぼくから常に距離を置いている。まるでぼくのチャオのようだと思った。
毎日、玄関での会話、十分。
彼女は何か明確な目的をもって話をしているように感じた。
会話ではなかった。一方的にぼくが話を聞いているだけだ。非常につまらないものであるはずだった。
しかし彼女は飽きずに毎日やってきた。
わたし、父親の都合で引っ越してきたんです。
わたし、チャオが好きなんですよ。
わたし、実は自傷癖があって。
ぼくは淡々と相槌をうち続けた。
さしずめ彼女の話を聞くためのロボットだ。
そうなのかもしれない。
彼女はぼくを使って話す練習をしているのか。
そんなふうに彼女が自分の話をするだけの日々が続いて、しばらく経ったある日。
彼女の話が変わった。
「わたし、学校でも友達がいなくて」
彼女は最初のころの細い声がうそのようにはきはきと喋っていた。
「何を話したらいいかわからないんです」
話の流れが変わったことに、ぼくはすぐ気がつけなかった。
「どうしたらいいと思いますか?」
気軽に返答はできなかった。内容が内容であったし、ぼくも話が上手な方ではなかったからだ。
「よくわからない」
正直な答えだった。
ぼくは彼女の後ろ姿を黙って見つづけた。
彼女もまた、あのヒロインと、ぼくたちのチャオと同じだった。
そしてそれはぼくも同じだ。
これだけ話されていながら、ぼくは彼女の心に踏み入れないでいる。他人と関わりたいと思っていながら恐怖が勝っている。
その恐怖を乗り越えるのは『肝心なとき』になるのか。
恐怖を乗り越えた先にあるものは何か。
よくわからなかった。
翌日から彼女は姿を見せなくなった。
ぼくは彼女の話を聞いている中で、他人と関わりたいと思っている自分を自覚した。
しかし恐怖を乗り越えるものが、もうひとつ足りないのだ。
ぼくのチャオは未だにぼくから離れている。
互いに同じ場所を共有しながら、一緒にいない。
それでいいのか、と思う。
壁を作るのが癖になっている。人と壁越しでしか関係できない。彼女は自分を変えようとしていた。それではぼくは?
変えるべきなのか、そうでないのか。いや、そうではない。
変えたいと思っているのか。
ぼくのチャオがじっとぼくを見つめていた。
夕方になった。
ぼくは玄関へ向かう。しばらく歩いていなかったような感覚。
ぼくはドアを開けた。
赤いチャオが立っている。
赤いチャオはぼくを一べつして隣の部屋へ向かって行った。
彼女の部屋だ。
ぼくの中で湧き上がるこれは緊張か、恐怖か。しかし今はそれがぼくに力を与えてくれているように感じた。
インターホンを押す。
応答はない。
赤いチャオはドアの横でじっと立ってぼくを見ていた。
もう一度インターホンを押す。
応答はない。
赤いチャオがぼくをじっと見る。
この時間帯に彼女がいないのはおかしい、と思ったが、勝手に開けるのは気が引けた。
でも、あえて開けてみるのもおもしろいかもしれない。
いつものぼくなら開けないだろう。
赤いチャオはぼくを見ている。
ぼくはドアノブに手をかけた。
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