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>「わかるか。なくなるんだ」
>「わかるさ。何も残らない」
この「なくなる」はチャオのことを示している、と考えました。(チャオ小説なので)
そのあとの文章で中年は俺に「わかっていない」と言っているので、「なくなる」と「何も残らない」には違いがあるのだと考えました。
「なくなる」は失ったもの。失ったものはどこか(自分の記憶、心とか)に残っている。チャオの消滅にこだわる自分を表現しているのではないか?
「何も残らない」は文字通り失って消えたもの。死んだものはすでにないものと変わらない。だから自分はチャオの消滅と関係がない。チャオの消滅は自分に何の影響も与えていない。チャオの記憶はあってもなくても変わらない。
グレープジュースは「何も残らない」と言って飲み込んでいるので、俺が「チャオの死」を受け入れたことではないか、と考えました。
そうすると俺と中年は対比されているので、俺は受け入れているが中年は受け入れていない、と考えることができます。
>「お前は何もわかっていない」
> 中年の男は自らの腕を切り落とした。
>「こういうことだ」
チャオの死を受け入れることのできない中年はいつまでもチャオの死にこだわり続ける。
反対に俺はチャオの死を受け入れている。次の、
>「お前はまだ何もわかっていないようだ」
という文章があるが、俺は何も喋っていない。つまりどこかで俺の内面を示す表現がある。それは>中年の男の腕は床の上に横たわっている。だと思いました。(一人称なので)
そう考えると、俺はチャオの死を「チャオが死んだ」事実としてとらえているが、中年は自身の痛みとしてとらえている、ということが分かります。
> 俺のチャオが灰色の繭に包まれた瞬間が思い出される。
この一文によっても「腕を切り落とす」と「チャオの死」が関連していることが強調されていますね。
>「こういうことではない」
> 俺の口に入っているグレープジュースの味がなくなった。
あくまで感覚にこだわる中年。グレープジュースの味がなくなる=チャオの死から味がなくなる。「グレープジュース」というと物体を想像しますが、味は感覚。
チャオの死は「チャオの死」という事実ではなく、自分が「チャオを死んだ」と思うこと。その感覚。これが中年の主張ではないかと思いました。
>「そういうことだ」
> 俺はグレープジュースを飲み込み、首を上げて中年の男の顔を見る。
俺はチャオの死を事実としてとらえ続ける。
>「お前は何もわかっていない」
> 俺の言葉に、中年の男の顔は紅潮した。
>「実は取れたんだ」
「実」はグレープと関連があるので、ぶどうの実と考えました。
ぶどうは記憶の繋がりを示していると考えました。実が取れたということは、チャオは自分の記憶から取り除かれた。取り除かれて、グレープジュース=チャオの死という事実と化した。そう推測しました。
>「死ね」
> 中年の男の言葉の後、俺はなくなった。
自分の死さえも事実としてとらえる俺。
総じてチャオの死を事実としてとらえ続ける俺を、あくまで感覚を重要視する中年と対比することで、感覚の大切さを強調した作品であると感じました。
とらえ方が多く、いろいろな解釈ができる作品であります。短いながらに面白い小説ができあがったなあと素直に感動しました。
せっかくの良い作品でありますが、メッセージ性が弱いのが気になりました。こういう路線ならメッセージ性が強い方がなお良いと思います。
しかし読み物として非常に楽しめたので個人的には(鍛錬室で)一番の出来でした。
中年=俺に気づけず、中年を経験の象徴として気づけなかったのは痛かったです。あと細かな読み違いが目立ちました。でも唯一解のある作品ではないので、そこは問題ないのでしょう。
解説と比較することで面白みができますが、やはり解説は不要であるとも思いましたね。そういう作品ではないので。
最初の「なくなる」「グレープジュース」などをどう解釈するかによってこのお話は大きく違ったものになるでしょう。できればいろいろな人の解釈を読んでみたいですね。
グレープジュースのような味わいのある小説でした。楽しかったです。
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