●週刊チャオ サークル掲示板
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☆★☆週刊チャオ チャオ20周年記念号☆★☆ ホップスター 18/12/23(日) 0:00

ライカ記念日 チャピル 18/12/23(日) 0:02
1. 半月 優花 18/12/23(日) 0:03
2. 夜の鳴き声 莉音 18/12/23(日) 0:04
3. 呼名 優花 18/12/23(日) 0:04
4. 君影草 優花 18/12/23(日) 0:05
5. カピバラと一木 莉音 18/12/23(日) 0:06
6. 蜻蛉 優花 18/12/23(日) 0:07
7. 祈祷 優花 18/12/23(日) 0:07
8. 罪が見ている 莉音 18/12/23(日) 0:07
9. どおん 優花 18/12/23(日) 0:08
10. 希望を求めて 莉音 18/12/23(日) 0:09
11. これからどうする? 莉音 18/12/23(日) 0:09
12. 鏡像 [no name] 18/12/23(日) 0:10
13. 私の大切な人 莉音 18/12/23(日) 0:10

ライカ記念日
 チャピル WEB  - 18/12/23(日) 0:02 -
  
『変わらんのがよかね』と君が言ったから、四月十日はライカ記念日
引用なし
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1. 半月
 優花 WEB  - 18/12/23(日) 0:03 -
  
 チャピルの身体を掴んで、ゆっくりと水槽の中に沈めます。口からぷかぷかと気泡がのぼります。チャオという生き物はのんきなもので、こうして水につけておけば、いくらでもゆったりと楽しんでいられるようです。
 不意に、チャピルの顔が苦しそうに歪みました。それと同時に、お尻から細長く茶色い塊が出てきます。塊がころんと水底に落ちると、チャピルはほっとしたような表情を浮かべました。
 初めてチャオのウンコを見た人は「イメージと違う」とか「アイドルはそんなことしない」とか、めちゃくちゃなことを私に言ってきます。でも、しかたないじゃないですか。生き物なんですから、そりゃするでしょう、ウンコ。
「しっとーと? ライトカオスってウンコせんらしい」
 リビングのソファに寝転がっていた一木が、胡散臭いことを言い出しました。
「どこで聞いたの?」
「蜻蛉さん」
「ホントかなあ」
 水槽に落ちたウンコを拾いながら、私は考えます。やっぱり、この世に排泄をしない動物がいるなんて、そう簡単に信じられません。
「よかろ? ウンコせんかったら、いちいち片付けをすることも、堆肥を切り返すこともないけん」
「その話題いつまで続けるの?」
「俺はお前の片付けが楽になりゃあよかねと思っていっとるとよ?」
「あれ、そうなの?」
 少し、意外でした。一木は牛には興味あっても、チャオのことはこれまでずっとほったらかしだったからです。そんな一木が今更ながら、私が楽できる方法を考えてくれていたなんて……私は水槽を見ながらほくそ笑みました。
「あれ、もしかして優花、もっとウンコ拾いたかったと?」
「そんなわけないでしょ……」
 こうして私たちは蜻蛉さんにライトカオスの育て方を聞きにいくことにしたのでした。

 ここで、話を簡単にするために、一木と蜻蛉さんについて不正確な紹介をさせてください。
 桐山一木は私と同居している高校三年生で、私の兄にあたります。私も高校三年だから、兄というより親しい同級生のような感じがします。
 蜻蛉さんは、私の父にあたる人で、いまは地元のホームセンターに務めています。
 蜻蛉さんの専門はペットコーナーです。なので、チャオのことに関しては、蜻蛉さんに聞けば大体教えてくれるのです。

 積み上げられたケージの中から、子犬や子猫がこちらを見ています。隣にあるサービスカウンターや、熱帯魚のコーナーにも蜻蛉さんの姿は見当たりません。どこにいるのだろうと思ったら、雑然と並んだペットフードの棚に、新たな飼料を詰もうとしている人影を見つけました。私はその背中をつつきました。
「また来たのか……」
「暇なんじゃないの?」
「そりゃそうだが……お前とは月一しか会わない約束なんだからな」
 言われて、私も周囲を見回します。休日のホームセンターには暇をもてあました老人が多く来ています。この誰がどこで知り合いと繋がっているかわかりません。田舎のコミュニティというのは狭いものなのです。私は声を潜めました。
「ねえ、ライトカオスの育て方って知ってる?」
「どうしたんだ、急に?」
「蜻蛉さんなら知ってるって一木が言うから」
「そりゃあ、俺だって昔はライトカオスに憧れたさ」
 手を動かし続けながら、蜻蛉さんは答えました。普段はやる気のない蜻蛉さんが、ライトカオスを育てようとしたことがあったなんて、なんだか意外でした。
「まあその時の経験から言うとだな、世の中に売ってるライトカオス育成本、あれは参考にならんぞ」
「そうなの?」
「ああ、自由な環境で育てた方がいいとか、いろんな木の実を食べさせるといいとか、いろいろ書いてある。全部試したが、それでも俺のチャオはライトカオスにはならなかった。ま、おかげでいろんなチャオの育て方はわかったけどな」
「今はライトカオスを育ててないの?」
「無理だ。俺には心がなかった」
 一木が横から口を挟みます。
「こないだテレビでライトカオスを何度も育てとる人を見たとよ。ありゃあどうしとっと?」
 その番組は、私もリビングで一緒に見ていました。その人はチャオ育成の専門家ではなく、ただの専業主婦なのですが、なぜかその人の育てるチャオは頻繁にライトカオスに成長するのです。
「俺が思うに、ライトカオスが育つのに必要なのは、いい環境だけじゃない」
 蜻蛉さんは言い切りました。
「チャオは心の動物だ。だから、飼い主が考えていることが、なんとなくチャオに反映されるんだ」
「心がきれいかどうかってこと?」
「いや、そんな単純なもんじゃない。とにかく俺には心がなかった」
 蜻蛉さんがそれを「心」と呼ぶ理由はよくわかりませんでした。だけどテレビで見たことを踏まえると、個人によって差があるということは、あながち間違ってなさそうでした。
「私も別に、心がきれいなわけじゃないよね」
「いや、お前らにはまだ可能性がある。お前は本当に良い子に育ってるよ、優花」
 蜻蛉さんは私の頭をくしゃくしゃと撫でました。単なるお世辞だとしても、私はその言葉に勇気づけられました。

 ホームセンターを出た後、一木は思い出したように口を開きました。
「やっぱライトカオスってよかね」
「どうしたの、急に」
「だって永遠に生きとるとよ」
 どこまでも続く田園風景の中を、私たちは歩いて行きます。色とりどりの屋根がぽつぽつと畑の中に建っています。
「永遠の命なんてないよ」
「まあ、実際はな。大概の人間よりも長生きで、過酷な状況を堪えられるっちゅうだけたい」
 それは、否定できません。ライトカオスの寿命は、200年とも300年とも言われています。
「そっで十分たい」
「どうして?」
「将来なんかあったとき、ライトカオスを見りゃあそっときの気持ちば取り戻せる。変わらんのがよかね」

 本当はすぐに帰りたかったのですが、田舎にはそんな都合のいい交通手段はありません。一木はバス停横のベンチに腰掛けました。私は近くの自販機でジュースを買って、口をつけて飲みました。
「一木も飲む?」
「んにゃ、大丈夫」
 一木は後ろの山をあおり見ました。
「もっぺん大観峰に登りたかね」
 なんの気なしにいいますが、一時間に一本しかないバスで家の逆方向に向かうのは正気ではありません。
「それ、ほんとにやりたいの?」
「最後の機会かも知れんけん」
「ふうん」
 私はかばんからおにぎりを二つ取り出しました。一木と散歩してて寄り道するのはこれが初めてではありません。だから、出かける前に作っておいたのでした。
「食べる?」
「ありがと」
 一木がもしゃもしゃとおにぎりをかじるその横顔を、私は目に焼き付けました

 ――三ヶ月ほど前のことだったでしょうか。一木が急に「大学に進学したい」と言い始めたのは。
 私たちの家は牧場を経営しています。だからずっと一木は家業を継ぐつもりだと、そういう風に思い込んでいました。けれども彼には違う目的があるようでした。
「いっぺん別の視点から酪農というものを見てみたか。だけん、俺に時間をくれんか」
 一木のその言葉が、リビングの空気を揺らがせました。私はこっそりとテレビの音量を下げました。
「お前の言うとる大学っちゅうんは、どこんこっば言っとると?」
 ヒツジさん、というのは一木のお父さんのことですが、一木の言葉に興味を持った様子でした。一木は中の上くらいの大学の名前を挙げました。
「あたしはいいと思うけど」
 私の母も口を挟みました。
「なんていうかねえ、あたしも一応短大を出たんだけど、まあ学校での勉強なんて大して意味は無いのよ。でも大学受験に一度全力で取り組むっていうのは、悪くないと思うんよねえ。自分に自信がつくっていうか、自分はこんなに頑張れるんだっていうことを証明できるっていうか」
「わら、勉強したことあったと?」
 ヒツジさんが一木に尋ねると、一木はまっすぐヒツジさんの目を見返しました。
「わからんけど、頑張るけん」
「わに勉強なんぞしきらんだろうが」
 そんな風にうそぶきつつも、ヒツジさんはなにかの希望を一木に抱いているようでした。

 バスは田んぼの合間を抜けて、山道を上り始めます。私たちのよく知る街並みが、ミニチュアのように小さくなっていきます。それに伴って、街の背景に溶け込むように存在していた黒く大きな塊が、ゆっくりとその全貌を現します。
 阿蘇山――
 その雄大な岩山は東西に連なり、阿蘇のカルデラを分断しています。こちら側は阿蘇市、向こう側は高森町と南阿蘇村です。山頂には大きな火口湖があって、今も水蒸気がかすかに噴出しています。
 田んぼや畑が、阿蘇山を取り囲むように広がっています。私たちの通う高校も、その中に紛れているはずでしたが、小さすぎて見つけることができません。
 街の外側には、外輪山と呼ばれるカルデラの淵が、深緑の壁となってそそり立っています。私たちのバスは、その斜面をぐんぐん登っていきました。バスの隣で、数匹の牛が草を食んでいます。まもなく到着のようです。

 私たちはバスから降りて、草原に立ちました。ここから見下ろすと、阿蘇市の全貌はいびつな半月のように見えます。
 なぜ古代の人たちはこの半月の中に暮らそうと思ったのでしょうか。なぜ私たちはこんな壁に囲まれた場所で暮らしているのでしょうか。ここに来るたびに、いつもそんな疑問が沸いてきます。
「本当に阿蘇から出て行くの?」
 一木は黙ってうなずきました。
「引き留めたって、聞かないよね」
 私には彼を引き留めることはできません。だって一木は私にとって、本当は兄ではありません。血縁でもありません。恋人でもありません。私は一体、彼のなんだっていうんでしょうか。
 それに私だってわかっていました。誰だって本当はこんな田舎に住みたくない。両親がこの街に来なければ、絶対にこんなところで暮らそうとは思わなかったでしょう。
 でも、私は残ることを決めました。一木がいなくなっても、私さえ残っていれば、きっといつか戻ってきてくれる。そんな気がしました。
「じゃあ、行く前に、ライトカオスだけは二人で育てようね」
 私はただ思い出が欲しかったのです。ライトカオスさえいれば、きっと私たちの関係は永遠になる。それなのに
「やっぱ、俺はライカを手伝えれん」
 一木の目には、私とは違う形でこの街が映っていました。
「答えのない問題を解いとれるほど、暇じゃあなか。俺の成績は、志望校には全然足りんけえな」
 ずっと一緒に過ごしてきたはずの彼が、私の知らない一面を見せ始めていました。
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2. 夜の鳴き声
 莉音 WEB  - 18/12/23(日) 0:04 -
  
 間違ってスマホの撮影ボタンを長押ししてしまったときのように、記憶はときどき断片的で不明瞭なゴミを残す。それは大きな背中だった。ワイシャツの背中を掴んで、短い髪の毛をよじ登って、顔を上げたときの世界が広がる感覚。ただそれだけが記憶の底にこびりついている。
 あとになって、それは私の父だったと知った。私は五歳の頃まで、時々父親と遊んでもらっていたのだ。
 父との思い出は、具体的な形を伴って私の部屋に残されていた。ずっと引き出しの奥に眠っている、秘密の思い出。

> りおんへ

> おとうさんは、らいげつから とおいところに ひっこすことに なります。
> くまもとけんの あそ というところです。
> もうあえないかも しれませんが、りおんとあそべて たのしかったよ。
> こんごは とおくから りおんのしあわせを ねがっているね。

> おとうさんより

 だから、母が横浜から阿蘇への引っ越しについて話し始めたときも、私はこの手紙のことを思い出していた。
「いいよ、ついてく」
 母は目を丸くした。
「ほんとに? ド田舎よ、あそこ」
「うん、別にいい」
 母が集めてきた寮の資料をゴミ箱に突っ込んだ。もちろん、友達と会えなくなるのは嫌だったし、新しい学校に溶け込むのは苦労するだろう。だけど、それ以上に、私をここまで育ててくれた母に、高校卒業までは寄り添ってあげたかった。それに、私は自分のルーツが辿れるチャンスが巡ってきたことに、わくわくしていた。

 今日一日で、本当にいろんな言葉を覚えた。クラスメイト達に話しかけられても言ってる意味がよくわからなくて、何度も聞き返してしまった。ぎゃんかわ、とか、あーね、とか、ばってんばってん、放課後になって、多くの生徒が部活でいなくなってくれて、ようやくほっと一息つけた。
 まあ、それなりにうまくやれたんじゃない?
 薄暗い田んぼが見渡す限り続いている。あぜ道を一人で歩いていると、小バエが私の腕に止まるので、振り払う。太陽はすでに西の山に隠れている。人も、街も、車もない。マジでなにもない。ヤバイ。
 アパートの戸を開けてかばんを降ろす。私の部屋には、未開封のダンボールがまだたくさん残っている。それらを隅に寄せて寝転がると、ひんやりとした畳の感触が私の背中を冷ました。引っ越し前はあんなにも膨らんでいた期待が、嘘のようにしぼんでいった。
 本当にここで良かった? まだわからない。

 テーブルの上に、500円玉が一つだけ置かれている。
 母はホテルに勤務しているので、夜遅くなることが多い。そんなときには、いつもこの500円で、私はコンビニのパンやおにぎりを買って食べた。冷たい母だと思われるかもしれないが、そうじゃない。料理、仕事、家事、全部を一人に求めるなんてどうかしてる。だから、私の方から、夜はコンビニで済ますことを提案したのだ。
 とはいえここは横浜じゃない。スマホの地図でコンビニを検索すると、かなり遠くの方に一つだけピンが立った。ショルダーバッグに筆記用具と財布を移して、外へ出る。しばらく歩くと、進むべき道も黄昏に溶けてなにも見えなくなる。スマホの灯りだけがアスファルトを照らす。
 キイキイという奇妙な音が、どこからともなく聞こえてくる。手の中の明かりがふらつく。本当にこんなところにコンビニがあるのだろうか。
 横浜の街でも、夜一人で歩くときは変質者に注意するように言われてきた。だけど、阿蘇の夜にはそれとは別種の怖さがあった。妖怪や物の怪の類が……いや、私はそんなこと信じないけど、ちょっと出てもおかしくないっていうか、なにか私の知らないものがこの闇に潜んでいてもおかしくないっていうか……そう思うと、私は自然と早足になった。
 しばらく歩き続けると大通りに出て、街灯が道を照らすようになった。横断歩道を渡った先にコンビニを見つける。店の周りを羽虫が飛び交っていたが、気にしてはいられなかった。

 パンとミルクティー、コンビニで買って、ふう、と一息つく。次の目的地は塾だ。昼間受付に行ったときはなんともなかったのに、夜は未知を恐怖に変える。意を決して、大通りへと出る。
 塾は交差点を通過した先の、雑居ビルの二階にあった。私が来たときにはニ、三人の生徒が着席していて、みな黙々と自習に励んでいた。私は隅の方に腰掛けて、さっき買ったパンを食べた。
 学校ではあんなにいろんな人に話しかけられたのに、塾生たちは不思議なくらい私に無関心だった。しばらくすると、部活帰りの生徒達が次々に入ってきて、私の隣にも二人の男子生徒がかばんを降ろした。どうやら席を詰めた方が良さそうだ。
 先生がホワイトボードの前に立つと、すぐに講義が始まった。生徒達のシャープペンシルがカリカリと音を立て始めた。

 ――これは後から聞いた話だが、阿蘇市から大学に進学するためには、まず下宿を取って熊本市内の高校に通うのが普通らしい。だから、この塾に通っているような人はみな下宿を取れない事情を抱えていて、勉強にも手を抜くことが許されない。
 なにも知らないこの時の私は、急にそんなガチめの空間に放り込まれていた。そして二時間の講義が終わる頃には、げっそりと疲れ果てていた。ほっぺたを机にひっつけて安らかに目を閉じた。

 ……ふと、視線に気が付く。隣の席の男子生徒が、じっと私を見つめている。
「なに?」
「お前ライオンじゃなかと?」
 パコンと音がして、その男の頭上に丸めたノートが落とされた。同じ制服を着た、眼鏡の男子生徒が側に立っていた。
「まずお前が名乗れや」
「はい」
 その男は一木と名乗った。眼鏡の方はカピバラというらしい。二人とも同じ高校の普通科に通っているらしい。私は福祉科だから、接点がないのは当然だった。
「カピバラって本名?」
「いや、本名は片原」
「カピバラでよかと。みんなそう呼んどるけん」
 一木が答える。カピバラは忌々しげに一木を横目で見る、その様子から察するに、事実だからなにも言い返せないらしい。
「そっで君はライオンだけん」
「なんで?」
 私の本名は莉音だ。なんとなく音は似ている気がするけど、それ以上の意味があるのか?
「こいつに名前のことを言っても無駄だぞ」
 まあなんでもいいか。カピバラよりはマシだし。
「マシってなんだよ」
 しまった、つい口が滑った。

「おーい、電気切るぞー」
 先生の声が教室に響いて、私たちは追い出されるように教室を出た。階段を降りたところでもう一度夜道を見据えると、息を大きく吸い込んだ。
「なんばしよると?」
 後から降りてきた一木が、私のことを不思議そうに見た。
「心の準備」
 一木はきょとんとした。
「夜道を歩くのに勇気が要るから」
「へえ、ライオンにも勇気が?」
 一木は目を見開いて大げさに驚いた。
「ライオンって、あんたが勝手に呼んでるだけだから」
「この近くに住んどると?」
「十分くらい歩く」
「一緒に行ったろうかい?」
「はあ?」
「んにゃ、俺らバス来るまで暇だけん」
 悪気はないらしいが、ちょっと警戒してしまう。とはいえ一人で行くのもそれはそれで怖い。
「いいけど」
 私はしぶしぶ了承した。

 薄暗い農道を縦一列に並んで歩く。やはりまた、甲高い鳴き声が聞こえてくる。
 ほら、闇の中に、得体の知れない生物がいる。そいつは私のことをじっと見ていて、私を脅かせようとしてる。
 この懸念を伝えると、一木はぶっと吹き出した。
「こりゃけりたい」
 一木は私からスマホを受け取って、周囲の田んぼを照らした。あぜ道を見つけるとずかずかと入っていく。
「勝手に入っていいの?」
「どうせばれんけん」
 一木は電灯を田んぼの中央に向けた。こんもりとした茶色い塊が水田の中に浮かんでいる。小枝を積み重ねて作られた巣の上に、鴨のような鳥が座り込んでいる。鳥は私たちを見て立ち上がる。奇妙なくらい長い脚だ。
「美脚の鴨か」
「だけん、けりだって言いよるのに」
「熊本にしかいない鳥?」
「全国にいると思うけどなあ」
 カピバラが苦笑しながら、けりに向かって石を投げる。けりはもう一度激しく鳴いて私たちを威嚇した。

 なぜだろう。私は父と遊んだ記憶を思い出していた。
 父も動物が好きだった。公園で犬を見かける度に、私の手を引いて近づいていった。
「おい、ポチ」
 父が犬に手を伸ばす。ポチと呼ばれた犬は、たぶんポチという名前じゃない。噛みつきそうな勢いで父に向かって吠えるその犬が怖くて、私は父の脚の裏側に隠れた。
「恐がりだなあ、莉音は」
 父は私を抱え上げた。そうすると、急にポチは足元の小さな生き物になって、私は安心した。

 暗闇から聞こえてくるキイキイ声も、正体がわかってしまえばどうということはない。
 この日以来、私は臆せずに塾に行けるようになった。そしてこの二人の男子生徒の隣の席に座るようになった。
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3. 呼名
 優花 WEB  - 18/12/23(日) 0:04 -
  
「もうすぐ出るばい!」
 ヒツジさんの呼ぶ声がして、私は糞尿を掃除する腕を止めました。出る、というのはウンコのことではありません。子牛が産まれそうなのです。
 本来三日前が出産予定日のはずでしたが、なかなか産まれなくてやきもきしていました。でも、今朝になってようやく産気づいて、ついにその時が来たようです。

 分娩房の中は奇妙な熱気で満たされていました。母牛が地面に横たわっています。そのお尻から、液体がぽたぽたとこぼれ落ちています。膣口から子牛の小さな蹄が見えています。
「自力で出られそう?」
「まだわからんばい」
 ヒツジさんは母牛のお腹をぽんぽんと叩いて、牛を励ましました。
「濃厚飼料をバケツ一杯持って来んか」
 牛舎を出てすぐ横に巨大な漏斗形のタンクが設置されています。私はその下にバケツを置いて、飼料をたっぷりと注ぎました。
 子牛の出産は、月に一度くらいの頻度でやってくる、よくある出来事です。私たちが牛を強制的に出産させているというと、抵抗を覚える人もいるかもしれません。でも、乳牛である以上は必要なことです。母牛は出産しないと母乳を出すようにはならないのです。
 子牛の後ろ足がずるりと産道を抜けて、胴体が吐き出されるように地面に転がりました。ぬるぬるとした羊水に覆われた、できたてほやほやの命です。
 子牛は懸命に立ち上がろうとして、すぐに転んでしまいます。そんな子牛の身体を母牛はぺろぺろと舐めました。子牛はまた立ち上がろうとして、転びます。母牛は子牛を舐める行動を何度も繰り返しました。
 ヒツジさんが母牛の側に飼料を置きます。やっぱりお腹がすいていたのでしょう。母牛は思い出したかのように、がつがつとエサを食べ始めました。

 この子牛の父親は、誰なのかわかりません。精液だけ買ってきて、人工授精で繁殖させているからです。
 だけど、ヒツジさんは――血のつながりを無視していえば――この子の父親と言えるのではないでしょうか。
 それは私にとっても同じでした。

 ……私の母、テンさんは私が七歳の時に蜻蛉さんと離婚し、十歳の時に再婚しました。再婚と言っても、婚姻届を出していない結婚……いわゆる事実婚です。事実婚すれば、名字を変える必要がない代わりに、デメリットもいくつかあるらしいですが、難しいことはよくわかりません。
 ヒツジさんはそんな母の再婚相手です。今更お父さんと呼ぶのもなんとなく違和感があって、私はいつもヒツジさんと呼んでいます。そしてそのヒツジさんの息子が一木です。
 そんなわけで、私たち二つの家族は同じ家に住んでいるのに、私は松風優花で、あいつは桐山一木なのです。

 リビングに戻ると、いつの間にか一木が帰ってきていました。机に向かって参考書を広げています。
 おかしな時代になったものです。あんなにいたずらっ子だった一木が、大人しく受験勉強しているなんて、まるで勉強好きな宇宙人に洗脳されたみたいでした。
 私は集中している人を邪魔しないように、そろりそろりと歩きました。

 チャピルの水槽を横から軽く叩きます。チャピルは賢いので、この合図だけで水面から上がってくれます。マットレスの上に着地して、とんとんとジャンプして水を切ります。
 私はチャピルの水槽に手をかけ、そのまま持ち上げようとしました。
「ちょっと待たんか」
「なあに、邪魔だった?」
「そぎゃん意味じゃなかと」
 一木は手をかざして私を制しました。
「あー、お前がライトカオスのことで怒りよるなら、俺が悪かったけん。すまんばい」
「え? 別に怒ってないよ?」
「そうっと?」
 私たちは顔を見合わせました。
「弁当にブロッコリーが五つも入っとったけん、てっきり、俺を殺す気かと思ったばい」
 私は単にブロッコリーを消費したかっただけなのですが、なにかとんでもない勘違いをさせてしまったようです。

「優花、ちょっとこっち来んか?」
「うん」
 私は一木の隣に座りました。
「言い方が悪かったばってん、ライトカオスを育てること自体はよかことと思っとるんよ」
 私にとってはほんの小さなすれ違いでも、一木はたいてい正直に謝りました。
「俺のせいで、優花を不安にさせてしまっとったもんな」
 一木は私の頭を撫でました。

 がちゃりと渡り廊下の扉が開きました。テンさんが私たちの方を見て、口元を手で覆いました。
「あらあ、お邪魔だったかしら」
「お母さんは引っ込んでて!」
「はあい」
 テンさんは扉を閉めました。一木は私の頭から手を離しながら、忌まわしそうに扉を見ました。
「変な邪魔が入ったけどな」
「うん」
「二人で名前を決めた日も、こぎゃんふうに座ったよな」
 頭の中でミンミンゼミがけたたましい声で鳴いていました。夏の日差しが地面を焼いて、暖められた空気のせいで遠くの景色が歪んでいました。
「あっつい」
 私が靴箱の前で嫌そうに立ち往生していると、一木が私の手を引きました。
「よかとこがあるばい」
 一木は私を校舎の裏に連れて行きました。そこは別に特別な場所ではありませんでした。ただ、ブロック塀の上からブナの葉が地面に向かって張りだして、気持ちよさそうな木陰を作っていました。私たちはその塀によじ登って座りました。
「なんか、今更新しいお父さんとか、変な感じせんと?」
 私はうなずきました。
「だけん、新しい名前をつけたか」
 一木は近くに落ちていた枝を拾って、砂の上に両親の名前を書きました。
「俺げのお父さんはヒツジさん、優花のお母さんはテンさん、よかとね?」
 たしかに、捻って読めば、そう読めなくもありません。それに、お母さんがテンと呼ばれることが、なんとなく腑に落ちている自分がいました。
「おもしろいね。私にも名前つけてよ」
「えー、優花は優花ばい。なんの動物にも似てなか」
「そうかなあ?」

 ――太ももから伝わるチャピルの冷たさが、私の意識を戻します。
「俺はあんとき、お前に名前をつけんかった。俺と優花の関係だけは、ちゃんと言葉にせんといけんと思っとった」
 そう。一木は誰かに私を説明するとき、絶対に一言では説明しませんでした。恋人とか、友達とか、兄妹とか、そう割り切ってくれたら楽だったのに……だけど、私にとっても、それらの言葉はどこか足らなくて、私の気持ちを完全には置き換えてくれないのでした。
「俺たちは不完全な家族だけん、自分らの関係を説明する言葉は、自分で作らんといけん」
「自分で作る?」
「それが特別ってことたい」
 特別な言葉……一木のような相手を表す言葉があるのでしょうか。こんなに近くにいるのに、手も握らないし、キスもしない。だけど大切な時には必ず側にいてくれる。
 私にはわかりません。都合のいいものを求めすぎているような気もします。

 チャピルは私たちのことを、不思議そうに見つめていました。
「相変わらずこいつはなに考えとるか、さっぱりわからんばい」
「そう?」
「頭の上にはてなとかぐるぐるとか、出してくれりゃいいぽよ」
「なにその語尾」
 私は笑いました。
「そういう球があったら便利ぽよ。人の気持ちだって、牛の気持ちだってわかるぽよ」
 一体どこでそんな言い回しを覚えてきたんでしょうか。
「ま、たしかに便利だけどね、さすがに現実味がないよ」
 現実を超えたところに、その言葉はあるのかもしれません。
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4. 君影草
 優花 WEB  - 18/12/23(日) 0:05 -
  
 毎年五月頃になると、山のふもとでスズランが小さな花を咲かせます。一面に広がった緑の上に、白い斑点がぽつぽつと浮かび上がります。スズランは牛に食べられることがないので、この花ばかりが生き残り、結果として牧場の名物となっているのでした。

 その日、私はいつものように斜面を登って、学校から帰っていました。坂道の途中、おばあさんが一人でいるのを見つけました。サファリハットを深く被って、ボンヤリとした様子でスズラン畑の中に立ちすくんでいます。
 私はなんとなく不安に思って、おばあさんに声をかけてみることにしました。
「どうかされましたか?」
 おばあさんの顔がこちらを向きました。サングラスをかけているため表情はよくわかりません。
「もしかして、優花ちゃん? 大きくなりましたねえ」
 はて、私はこの人に面識があるんでしょうか? 記憶を辿っても、こんな知り合いは思いつきません。
「私スズランを見たくて山を登ってきたんだけど、ちょっと疲れちゃって、どこか一休みできるとこない?」
「このあたりにはないですね。地べたに座るしか」
「そうですか、じゃあもう下りましょうかねえ」
 おばあさんは畑の中から出ようとしました。その時、強い風が吹いて、おばあさんが杖をつきました。
「アイタタタタ」
「大丈夫ですか?」
 私はあわてて駆け寄って、おばあさんの手を取りました。おばあさんはにっこりと微笑みました。
「最近腰が悪くなってしまってねえ、ここまで登ってくるのも一苦労だったんですよ」
「大変ですね」
 私はおばあさんの手を引いて、道路まで連れていきました。といっても、このあたりは牧草地の真ん中なので、めぼしい道しるべは見当たりません。
「ここまで来たらもう大丈夫」
 おばあさんはそう主張しましたが、私の心配は拭いきれませんでした。
「おうちはどこですか?」
 おばあさんはここからそう遠くない集落の名前を挙げました。そこなら、普通に歩いていけそうです。
 結局、私は集落まで手を繋いで歩くことにしました。おばあさんの家は立派な一軒家で、もしかしてこの人は地元の有名な人なのかな、と想像しました。

 帰り際、おばあさんは私に小さな紙きれをくれました。見れば、それは俳句でした。

> 子の顔に君影草のかほりたつ

「これをあんたのお母さんに預けといてね。ほんに、今日はありがとうね」
 おばあさんは私にしっかりと頭を下げて、家の中へ去っていきました。

 帰ってからテンさんに、その老婆のことを話しました。
「あんた、それ赤星先生じゃないの?」
「赤星先生?」
「そうそう。あんたが小学校四年生だったとき教頭だった人」
「そんな人、よく覚えてるね」
 自分の担任ならともかく、教頭の名前なんてそんなにはっきりと思い出せるものではありません。けれどもテンさんはうんうんとうなずいて
「優花は覚えとらんかもしれんけど、私はPTAでお世話になったんよ」
と言いました。ははーん、と、私は思いました。
「じゃあ、その人がテンさんとヒツジさんを引き合わせたの?」
「いや、それは全然」
「じゃあなんで?」
「うーん、なんて言ったらいいのかなあ……」
 テンさんは夕ご飯を作る手を止めて、思い出を語り始めました。それはこういう話でした。

 むかーしむかし、といっても八年前のことですが、ヒツジさんとテンさんは同じ家で暮らすことを決めました。長年雇っていたヘルパーが辞めることになって人手に困っていたヒツジさんと、ちょうど離婚が成立して自由を手に入れたテンさん、二人の利害が一致したことが決め手となりました。
 同居を始めても、二人はしばらくそのことを誰にも言ってはいませんでした。でも、PTAで同じ委員をやっていた佐々木さんという人は、二人の関係性の変化にめざとく気付いたみたいです。
「松風さん、最近桐山さんとなにかあったの?」
 そんな質問があったので、テンさんは彼女に、ヒツジさんと同居し始めたことを教えました。変な話ですが、テンさんはそれまで親族以外にそのことを教えてなかったらしいのです。
「だって、結婚って言っても、事実婚でしょう? だから名字も変わらないし、別に言わなくてもいいかなーって」
「なんか、ゆるいね……」
 佐々木さんに教えた後、噂はいつの間にかほかの保護者の間で広まって、やがて二人が事実婚していることは周知の事実となったそうです。
「まあ、最初の頃はそれでもいいかと思っとったんよ」
 テンさんはあっけらかんと言いました。

 でも、しばらくして、テンさんはこの判断が誤りだったことに気付きました。事実婚という言葉をよく知らない人たちが、噂に尾ひれを付け始めたからです。テンさんはヒツジさんの愛人なんじゃないか、あるいは、やましい過去があるから再婚できないんじゃないか。そんな噂が、保護者の間では広がっていたようです。他の保護者からこっそり事実を確認されたりしたことで、テンさんもうすうす事態に気付き始めました。
「で、噂の出所を辿ってみると、どうも最初に言ってた佐々木さんって人が、そういうことを言ってるらしいってことがわかったの。まー、キレちゃったよね」
 テンさんはPTAの全体会議で、名指しで佐々木さんを非難したそうです。すると、佐々木さんも「隠そうとする方が悪い」「あんたら夫婦がいると子供の教育に悪い」などと逆ギレして、会議を退室してしまいました。会議は一時中断となりました。佐々木さんはそれ以降、親子共々学校に来なくなってしまいました。
「そのときは私もプンプンしてたけど、あとになって、やっぱり佐々木さんをみんなの前で責めたのはよくなかったなあって思ったの。でも、仲直りしようにも本人が来ないからどうしようもなかったの。そんな時に、私たちを助けてくれたのが、赤星先生だったのよ」

 話を聞きながら、私は小学生の時のことを思い出していました。佐々木瞬という同級生が、たしかにいました。私たちのクラスには生徒が十人しかいなかったのですが、佐々木君はその中では一番小柄で、すばしっこく、運動神経がいいという評判の生徒でした。
 そんな彼が一度だけ、熱を出して休んだことがあります。
 ――蒸し暑い夏日でした。私は突然先生に呼び出されて
「佐々木君の家にプリントを持っていって欲しい」
とお願いされました。
「はい、先生」
とその時は素直に答えたものの、正直言ってあまり行きたくはありませんでした。ただでさえ暑いのに、自分の家から反対方向に向かわないといけなくて、うんざりしながら学校を出発しました。

 田んぼの向こうに背の高いススキの草むらが広がっていて、それを抜けた先に佐々木君の家はありました。
「ごめんください」
 私がチャイムを鳴らすと、品の良さそうな感じのおばさんが出てきました。
 そのとき、玄関の奥の部屋に奇妙な水槽があることに私は気付きました。中には青い生き物が泳いでいて、足拭きマットが敷いてありました。
「あ、チャオだ」
 青いチャオは私を一瞥し、ゆらゆらと漂いました。
「チャオを飼ってるんですか?」
と、私は聞きました。おばさんは困ったような表情をしながら、
「ええ、そう」
と答えました。
「あなたもチャオに興味があるの?」
「卵がうちにありますけど、どう育てたらいいかわからなくて」
 それはチャピルの卵のことでした。離婚のときに餞別として、蜻蛉さんが私にくれたものでした。
「しばらく見ていってもいいですか?」
 私のセリフに、佐々木君のお母さんは当惑した表情を見せました。だけど、私に帰る気が全然なかったので、断るのも面倒と思ったのでしょう。
「そんなにチャオが見たいなら、上がりなさい」
 そう言って私を部屋に上げてくれました。

 佐々木君のチャオは目の覚めるような青色で、頭には三本のトゲが生えていました。私がチャオを見ていると、佐々木君もいつの間にか部屋から出てきて、私にチャオのことをいろいろ教えてくれました。
「知ってる? チャオって両生類なんだぜ」
「両生類ってなに?」
「カエルとかと同じ仲間ってこと」
「へー、そんなこと知ってるなんて、すごいね!」
 私は空気の読める子供だったので、とりあえず佐々木君を褒めました。佐々木君は白い歯をニカッと出して笑いました。

 彼と話していて、私はうすうす気付いてきました。佐々木君の病気は、実は大したことがないらしいということに。でも、私はそのことを追求しませんでした。なぜなら、私にとっては、成体のチャオを見ることの方が、嘘を暴くことよりもずっと大切だったからです。
 私はプリントを受け取ると、連日ススキの草むらを抜けて佐々木君の家に行きました。そんな日々が一週間くらい続きました。

「それが、赤星先生の作戦だったんだ」
 テンさんは私の話に我が意を得たりといった表情でした。
「親というのは、結局の所、子供同士が仲良くされたら付き合わざるをえない。優花が佐々木君と友達になったから、向こうもみすみす無視できなくなったんでしょ?」
「そうなの?」
「そんなもんよ。それに子供がどういう振る舞いをするかによって、親の教育が行き届いているかどうかわかるもの。優花は、佐々木さんに認められたんだ」
「ふうん」
 親の心子知らず、とはよく言ったもので、子供の頃の私はそんないざこざに全く気付いておらず、ただチャオに夢中になっていました。まあ、それでことがうまく運んだなら、きっと赤星先生のやったことは正しかったのでしょう。
 佐々木君とは、その後中学校で別々のクラスになり、あまり連絡を取らなくなりました。今は一体どうしているのか、噂もほとんど聞きません。

 ガチャリ、と裏口の扉が開いて、ヒツジさんが汗を拭きながらリビングに戻ってきました。
「さあて、夕ご飯にしないとね」
 テンさんはもう一度腕まくりして、まな板に向かいます。動きを忘れかけていた時計の針が、また回り始めたようでした。
 テーブルに残されたメモに、ヒツジさんが足を止めます。
「これ、誰の句だ?」
「赤星先生」
 テンさんが答えます。
「そうか」
 ヒツジさんはそのメモを何度か読み返しました。それから、胸ポケットのボールペンを出し、メモの後ろに一言書き足しました。

>> 過ぎる風炎 私たちの師

「たしか、卒業文集に住所も書いてあったよな」
「大丈夫、さっき家までの道のりを確認しておいたから」
 私は胸を張って答えました。
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5. カピバラと一木
 莉音 WEB  - 18/12/23(日) 0:06 -
  
 田舎の人間は都会の人間よりも大人びているのかもしれない。そう思い始めたのは、とある学校でのやりとりがきっかけだった。
 横浜ではあんなに群れ合うのが好きだった女子達も、ここではそこまでベタベタしない。というか、一人一人が自立している感じがする。
 群れるほど人がいないからか? 自然の中で育ってきているからか?

「お前んとこの牛舎、もう古くなってきてるだろ」
「まあな」
 塾に来ると、一木とカピバラはしばしば牧場の話をした。
「そろそろ建て増したいんじゃないのか?」
「そばってん、量を増やせば売れるっちゅう時代じゃないけん」
「じゃあどうするんだ? 高級路線か?」
「まだわからんばい」
 普段はアホっぽい二人だけど、実家の仕事のことになると真面目に考えているらしい。私はそれについていけないけど、適当に口を挟むことはできる。
「牛乳のおいしさって、育て方でそんな変わる?」
「変わるわ!」
「全然違う!」
 きびしいツッコミが飛んできた。
「うちの牛の方が健康的だからな、一木のとこよりもうまい」
「んにゃ、俺げの方がうまか」
 一木は露骨に嫌そうな顔をした。男達はそんなことで張り合うんだ。ふふんと笑ってしまった。
「あ、鼻で笑ったな」
「いいだろう。本物のミルクのうまさというものを思い知らせてやる」
 あれ? 一瞬でも大人びていると思ったことが、急に嘘くさくなってくる。こいつらただのガキなんじゃないのか?
「おいしさの指標ってなんかないの?」
「ねえな」
「うん、どうやったらこいつにミルクの違いを教えられるんだろうな」
「やっぱ実際に飲んでもらっきゃなかとね?」
「そうだな。そうすれば我が農場の素晴らしさがわかってもらえるだろう」
「俺げの方が、絶対に、うまか」
 ……くだらない張り合いの果てに、どちらのミルクがおいしいかを私がジャッジすることになってしまった。土曜日の午後にカピバラの家に行き、それから一木の家に行く。そういう段取りに、なぜかなってしまった。

 歩いても歩いても新しい草が押し寄せてくる。私は長い坂道を登っていた。入道雲が私をあざ笑うかのようにそびえ立っている。カピバラは自転車を押しながら、私の隣を歩いていた。
 カピバラは男子の中でも背が高い方で、私の頭はちょうど彼の胸あたりにあった。私は彼の顔を見上げた。
「カピバラの家族ってどんな感じ?」
 カピバラは腕を組んで、少し考える様子を見せた。
「うちは家族で牧場をやってるわけじゃないぞ」
「そうなの?」
 これまでの話から、私はてっきりカピバラは牧場の跡継ぎなのかと思っていた。
「うちは元々家族経営でやってた三つの家が合体して、一つの牧場になったんだ。だから俺の父は役員の一人であって、社長じゃない。創業者の名前の頭文字を取って、TKG牧場と呼ばれている」
「卵かけご飯牧場?」
「田中・片原・郷原牧場の略だよ!」
「狙ってつけたんじゃないの?」
「時代を先取りしちゃったんだなあ、これが」
 そんな話をしていると、草原の向こうから小さな銀色の屋根が見えてくる。牧場の風、としか形容できない、独特の臭いが鼻をつく。
「あれがTKGの牛舎のうちの一つだ」
と、カピバラは説明した。
「もしかして、もうこの辺にも牛がいるの?」
 私は周囲の牧草を見回した。いきなり牛に近寄ってこられたらびっくりしてしまうだろう。
「いや、昔は放牧もやってたんだが、今はみんな牛舎飼いだな。あの中を歩くだけで、牛にとっては十分な運動になるんだ」
「マジか」
 私はてっきり、牧場といえば牛が外で草を食べている場所かと思っていた。そのイメージは早々に覆された。
「中を覗いてみるか?」
「いいの?」
「少しだけらな」
 カピバラは自慢げに眼鏡をかけ直した。

 牛舎の中は体育館くらいの広さだった。土の上で数十匹の牛たちが思い思いの場所で寝そべっている。自由に歩き回っている牛や、餌を食べている牛もいる。
 建物の中心に一本、人間の通る通路が設けられている。柵が牛たちのいる場所と通路を隔てている。カピバラはその一画を開けた。
「来いよ」
 私はおそるおそる牛の区画に入った。
 自由気ままに生きているかに見えた牛たちだったが、共通しているところもあった。すべての牛には、頭の部分に縄がくくりつけてある。カピバラは歩いている一頭の牛に目を付けて、その縄を引いた。牛は嫌がるそぶりも見せずそれに従った。
 大きくて力があるのに、人間の意志に従順な生き物。それが長い年月をかけて家畜化された、牛という生き物の本能なのだった。

 さて、問題は牛そのものよりもミルクの味である。カピバラのお母さんが、私にパンケーキを焼いてくれた。
「いただきます」
 取れたてのミルクをふんだんに使ったパンケーキ。私がフォークの側面で切ろうとしても、フワフワの生地にずぶずぶと埋もれていってしまう。
 なんとか切り取って口に含むと、ミルクの香りがいっぱいに広がった。おいしい! 舌触りは滑らかで、口の中でとろけるように消えてゆく。甘すぎず、ヘルシーな感じさえするのに、しっかりとミルク感が伝わってくる! これなら無限に食べられそう!
 私がべた褒めしていると、カピバラのお母さんはとても喜んだ。喜び極まって、私におみやげをたくさん包んでくれた。パンケーキの他に、クリームチーズ、ミルクプリン、ムースもあるらしい。
 うちは二人暮らしなんだけど、断り切れなかった。なんてったって、無限に食べられるからな。

 私はカピバラの家を出発した。紙袋の紐が関節に食い込んで痛い。
 一木の家はここから、さらに十分程登ったところにあるらしい。近所って言ってたくせに、全然近くないじゃん。文句をたれながらも、脚を動かし続ける。
「よお」
 坂道を下って、一木が迎えに来てくれた。
「遠くない?」
「荷物持ったろうか?」
 私は黙って紙袋を一木に突き出した。一木はそれを引き取った。
「なあ、ライオン」
 歩きながら、一木は思い出したように口を開いた。
「今から優花に会うことになるけん、先に言っとくけど、優花は俺の彼女じゃあないけん」
「誰、優花って?」
「あれ、言わんかったと?」
「なるほど! その子が一木の彼女なのか!」
「違うって言いよるのに……」
 一木は私に、二人が付き合っているという噂があることを教えてくれた。
「通学はもちろん一緒だし、弁当も一緒に食べとるけん、誤解されるんもしょんなか。そばってん、ほんとはそぎゃんことなか」
 一木はなにが言いたいんだろう? 恋人扱いされることに照れてるのか? それとも変になじられるのが嫌なのか?
「じゃあ、聞かせてよ。どういう関係なのか」
 そう聞くと、一木は立ち止まって、荷物をさぐり始めた。
「小学四年の時たい。優花が俺げの隣に引っ越してきたんは」
 長財布から一枚の写真を取りだして、私に見せてくれる。女の子が大きな卵を抱えている。
「これ、自分で撮ったの?」
 一木はうなずいた。
「最初は引っ込み思案な子だと思っとった。そばってん、しばらくして、牧場の仕事がしたいと言いいだした。だけん、俺はそん言葉に応えて、いろんな仕事をそいつに教えた」
 一木は写真を長財布の中に戻す。
「優花は吸い込むように俺の仕事を吸収していきよった。で、俺は受験勉強をきっかけに、家の仕事をなんもせんくなった」
「ダメじゃん!」
「いやあ、そういうわけでもなかとよ」
 一木は後頭部を掻いた。
「優花は俺の能力を受け継ぐもんだけん。例えるなら、うーん、弟子みたいなもんたい」
「ほんとに弟子と思ってる?」
 私が一木の顔をのぞき込むと、彼は照れくさそうに視線を逸らした。
「あー、いや、少し違う」
 なんやねん、それ。

 しばらくして、草原の中にぽつりと白い二軒の家が現れる。大きい建物と小さい建物が、渡り廊下で繋がっている。一木によると、大きい方が桐山家で、小さい方が松風家らしい。

 家に上がると、最初に出迎えてくれたのが優花だった。なるほど、なんとなく先ほどの写真の面影を残している。愛嬌のある丸っこい顔。二重のぱっちりとした瞳。セミロングの髪を特に飾るわけでもなくまっすぐに伸ばしている。
「あら、おかえり」
 優花もまた、私のことを興味深そうに見つめた。
「はじめまして。小川莉音です」
「ライオン、だよね。話は聞いてるよ」
 どうやらそのあだ名はすでに広まっているようだ。まあとっくに学校でも使われてるから、気にしたってしょうがないけど。
 靴を脱いでリビングに上がる。さっそく、私はリビングの端に置かれている水槽に目を引かれた。中にタマネギみたいな形をした、水色の生き物が浮かんでいた。
「これなに?」
「チャオだよ」
 これがチャオ……名前は聞いたことがあったけど、実物を見るのは初めてだ。
「触ってみなよ」
 優花は屈託ない表情で私に勧めてくる。
「噛んだりしない?」
「大丈夫、チャピルは大人しいけん」
 一木もそう言うので、目を閉じて、指先を水槽の中に突っ込んだ。指の先端がチャピルに触れた。
「うわ、なにこれヤバイ!」
「手をぎゅっと握ってみて」
 指先でチャオの丸っこい手を探す。握ってみると、実は中にちゃんとした骨があることに気付く。丸い手は太い指と、その間についた水かきがまとまって、そういう風に見えているだけだ。ぷるぷる感がクセになりそうだ。
 急に、チャピルがバタつき始めたので、びっくりして手を離す。チャピルは水槽の淵を掴んでよじ登った。足拭きマットの上に立って、よたよたと歩いた。私は思わず後ずさりした。
「出てるけど、いいの?」
「いつもんことたい」
 チャピルはマットの上にボンヤリと座り込んだ。皮膚を潤していた液体が急に白みがかって、チャピルの全身を覆い尽くす。粘液は厚みを増しながらふくらんで、表面が少しずつ乾いていった。なにかとんでもないことが起きているのが、素人目にもわかった。
 優花が私の肩越しにつぶやいた。
「繭だ」
 実際、それはカイコなどの繭によく似ていた。
「なに? チョウチョになるとか?」
「そんなに劇的には変わんないけど、ちょっと変わる」
 優花は何度か見たことがあるのだろうか、あわてる様子もない。淡々とチャピルを見守っている。
「チャオの変態は二時間くらいかかるけど、このまま見ていく?」
「変態?」
 優花の口からそんな言葉が出たことに、思わず笑みが漏れてしまった。その笑いは優花にも伝染した。
「そう、チャピルは変態する」
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6. 蜻蛉
 優花 WEB  - 18/12/23(日) 0:07 -
  
 変態とは、動物が成長する過程で体の形を変えることです。決して変な意味ではありません。
 例えばオタマジャクシがカエルになるとか、ヤゴがトンボになるとか、多くの生き物が水中から陸上に適した形に姿を変えていきます。
 チャオもその例に漏れず、変態することでより長い時間を陸上で生活できるようになります。ただし、長いと言ってもあくまで両生類ですから、ずっと水を与えないと死んでしまいます。
 本当に陸上で長時間生き続けるには、ライトカオスにするしかないのです。

 チャピルの変態にはまだ時間がかかりそうでした。私たちは先に牛舎の見学に向かうことにしました。
 お風呂場の脱衣所で作務衣に着替えます。私はライオンの容姿をまじまじと観察しました。軽くウェーブがかかった明るい髪に、鮮やかな桃色の唇。普段化粧なんてする機会のない私にとって、ライオンのファッションはすごく若者っぽく見えました。作務衣だけが野暮ったいのでなんだかちぐはぐでした。

 私がライオンを牛舎に招き入れると、すぐ、ライオンはなにかに気付いたようです。
「カピバラの所とはずいぶん違うんだね」
 私たちの牛舎はつなぎ飼い方式、すべての牛が柵で区切られているタイプです。TKG牧場のような大規模かつハイテクな牛舎を見た後だと、私たちの牧場はいかにも普通と思われるかもしれません。
「こっちの方が日本ではメジャーなんだよ。一頭一頭をちゃんと管理できるっていうメリットがあるんだよ」
「ふうん」
 私は必死でつなぎ飼いのいいところを説明しているのですが、この努力が伝わっているのでしょうか。

 次に、私たちは分娩房へと向かいました。昨日生まれたばかりの子牛が、いつの間にか自力で歩けるようになっていました。子牛は母牛の周りをぐるぐると回りました。
「かわいいじゃん」
 ライオンは子牛に興味を持ったようでした。
「触ってもいいよ」
 ライオンの人差し指が子牛の頭にちょこんと触れました。
「よし、お前は真っ黒だからダークだ」
「勝手に名前を付けないでよ」
 私は注意します。これから母牛と引き離さないといけないのに、不要な情が沸いてしまうじゃないですか。
 でも、ライオンはそんな注意は意に介さずといった感じで、
「ダークはこれからいいおっぱいをたくさん出すんだぞ」
と言いながら、子牛の鼻筋を何度も撫でました。子牛もそれに答えるように、ライオンの指先をぺろぺろと舐めました。

 リビングに戻ると、テンさんが降りてきていました。
「あら、あなたがライオンちゃん? かわいいわねえ。どこから引っ越してきたの?」
「横浜です」
「あらそうなの。懐かしい〜! 私の大学もそこらへんにあったから、私、一時期横浜に住んでいたのよ。今はもうこんなおばさんになってしまったけど、あの頃は私も若くてぴちぴちだったのよ。ねえねえ、横浜のどのあたりなの?」
「栄です」
「栄、じゃあ結構反対側ね。あたしは青葉区だったから。でもいきなりこんな田舎に引っ越してきて、牛だらけでびっくりしたでしょ? ねえ、どうしてこっちに引っ越してくることになったの?」
「母の仕事で」
「お母さんはなにやってる方なの?」
 ライオンはテンさんの質問の多さに、しばらく圧倒されていました。助け船を出そうにも、人の話に割り込むのは正直言って苦手です。私は一木の姿を探しました。でも、彼は二階に上がってしまったのでしょうか、どこにも見当たりません。
 テンさんはひとしきりライオンのプライベートを聞きまくったあと、「そろそろご飯にしようかしら」と言って台所に立ちました。ライオンは緊張がとけたのか、はあ、と足を投げ出しました。

「いいね、優花は」
「え、どうして」
「なんか、家族って感じがするじゃん」
「私たちは本物の家族じゃないよ」
「本物じゃなくても、寄り集まってちゃんと家族らしくなってる。それがいい」
 私にはライオンの感覚がよくわかりませんでした。
「ねえ、ライオンの家ってどんな感じ?」
「私の家? つまんないよ」
「どんな感じ?」
「1LDKに私と母が二人だけ。お父さんは昔近所に住んでたけど、不倫だったみたい」
 ライオンは感情を込めることなく説明しました。
「お父さん、今は阿蘇に住んでるかもしれない」
「どうしてわかるの?」
「引っ越したって手紙をもらった」
「会いたくないの?」
「まあ、会えたらでいいよ」
 ライオンはどこか遠くを見ながら答えました。その言い方はなんというか――あまり期待値を上げないようにしているみたいだったので、私は不安になりました。だって、私には二人もお父さんがいて、いつでも好きなときに会いに行けます。それと比べると、ライオンの境遇はあまりにも寂しくて、想像するだけで胸が痛くなります。

「できたわよ〜!」
 キッチンからテンさんの呼ぶ声がします。テーブルの上にはホットプレートが置かれていて、その上に肉と、たくさんの野菜が盛られていました。
「ミルクじゃないじゃん!」
「まあ細かいことは気にしないで! 食べて食べて!」
 テンさんはあっけらかんと言い放ちます。
「準備はいい?」
 私たちは箸を握りました。テンさんのトングが肉をがっしりと掴んで、鉄板の上に肉をぶちまけました。肉から脂がこぼれて、鉄板の上でジュワッとはじけ、香ばしい煙がリビングの中に充満します。
 テンさんはトングで大胆に肉と野菜を掴み取ると、ざっくばらんにライオンの皿に盛りました。続いて私の皿にも。この肉に塩だれをかけて食べるのが、桐山・松風家の作法です。ライオンは控えめに肉を一切れだけつまみ上げて、それからぱくりと口に含みました。
「おいしいかい?」
「ふふぁい」
 ライオンは本物の肉食獣になったかのように、ただひたすらに肉を食い続けました。私も負けじと食べました。あれだけ牛を見た後なのに、私たちが大切に育てている牛なのに、とても残念な事実があります。肉がうまい。
 香りに誘われたのでしょうか。一木も二階から降りてきました。私たちが無心で肉を喰らい続けているのを見て、すぐに自分の皿と箸を取り出しました。
 しかし、この戦場に情けはありません。一木の取ろうとした肉をライオンが次々にかっさらっていきます。
「ああ……」
 一木は野菜をむしゃむしゃと食べました。

 その間もチャピルはずっと繭に包まれたままでした。普通なら二時間が経過した頃から徐々に繭が薄くなっていって、成体になったチャピルが現れるはずです。だけど今回は、私たちがご飯を食べて、食器を洗い終わってもなお、同じ姿を維持し続けていました。
 ライオンが来てからゆうに三時間以上が経っていました。私は繭の表面に触れてみましたが、ざらざらした不気味な触感が指先に残っただけでした。
「まだ変態してる」
 ライオンもチャピルの様子を心配そうにのぞき込みました。
「変態、終わりそうにないね」
 これを見てからライオンを帰そうと思っていたのですが、どうしましょうか。
 窓の外を見ると、山の端に太陽が沈みかけていました。六月になって日が長くなったといえ、この盆地では太陽はすぐ隠れてしまうのです。
「泊まってく?」
「いや、明日学校あるし」
 ライオンは立ち上がりました。
「早いけど帰ろう」
 私はチャピルを見やりました。やっぱり、あまりにも長すぎる。こんな状態が長く続くなんて、なにかがおかしいとしか思えませんでした。
「私もついていく」
「わざわざいいって」
 ライオンはびっくりした様子で、私を引き留めました。
「気にしないで。ついでにチャピルをホームセンターに連れて行くから」
 私は繭を抱えたまま、玄関へ向かいました。

 街を目指して斜面を下っていきます。後ろの空は真っ赤なのに、前の空は群青色だから、まるで夜に向かって進んでいるみたいです。私たちの影は先が見えないくらいに長くなって、進行方向を針のように指していました。私たちは自分の影が指す先を追いかけました。
 ホームセンターの方がライオンの家より近かったので、先に寄っていくことにしました。
「ここに来るのは初めて?」
「うん」
 ライオンは特に迷うこともなく、一直線にペットコーナーに向かいました。客はまばらで、蜻蛉さんだけがレジの中で頬杖をついて暇そうにしていました。
 ライオンは蜻蛉さんを前にして足を止めました。
「えっと……」
 ライオンが私をうながしましたが、それより前に蜻蛉さんが立ち上がりました。
「待て。お前、莉音だろ」
 ライオンは、こっくりとうなずきました。
「どうしてここまで来た」
「こっちに引っ越したから」
「そうか」
 蜻蛉さんは天井に視線を移しました。
「仕事中だから手短に説明するけどな。なるべく話しかけないでくれないか。俺には今、別の家庭がある。昔のように遊んでやったり、食事に連れてってやることはできないんだ」
「なんで」
「お前も大きくなったからわかるだろう。妻子持ちのおっさんが女子高生と飯を食ってたら、どういう目で見られるか」
「でも」
「お前のことは、今の家族に説明してない。まさか会えるとは思ってなかったからな」
「どうして私だけが許されないの?」
 ライオンの手が、わなわなと震えていました。私はどう声をかけたらいいかわからなくて、繭を強く抱えました。
「莉音のせいじゃない。全部俺のせいだ。俺は二度も過ちを繰り返してきた。だからこそ、今度はちゃんと父親を全うしたいんだ。そのために、お前には俺と会わなかったことにして欲しい」
 蜻蛉さんは、深々と頭を下げました。
「すまん」
 ライオンはその頭を、見下すように眺めました。
「むかつく」
 ライオンは唇を真一文字に結びました。眼光が、蜻蛉さんを見透かすように鋭くなりました。
「あんただけがのうのうと幸せになろうとしてるのが、私には許せない。手紙に書いたことは全部嘘だったんだね」
「すまない」
 ライオンは怒りを抑えるかのように、大きく深呼吸しました。
「いいよ、もう金輪際この店には来ないし、私はあんたのことを恨み続ける」
 ライオンは蜻蛉さんに背中を向けると、足早に通路を引き返しました。私はどうするべきか、一瞬躊躇してしまいました。
「お前もだぞ、優花」
「え?」
「お前だって、今の家族からすれば疎ましく思われてるんだ。すまないが、これからは店員と客の関係だ」
 そんなこと急に言われたって、私にも、どうしたらいいかわかりません。振り返ると、去りゆくライオンの背中が見えました。
 少し悩んでから、私はライオンの方を追いかけました。その背中にまだ可能性が残っていると信じて。

 お店を出ると、あたりはすっかり暗くなっていました。かすかな太陽の残光が、山の端を刃のように浮かび上がらせていました。
「信じらんない」
 ライオンは私の方をちらりと一瞥しました。
「今日は、一人で帰りたい」
「ダメ」
 私はライオンの腕を掴みました。そうしないと、私とライオンとの関係が閉ざされてしまうような、そんな気がしたからでした。
「ねえ、良いように考えようよ。私たち、同じお父さんから生まれたんだよ」
「そうだね。私がお姉ちゃんで、優花は妹」
 莉音は苦々しげに答えました。
「じゃあ、私たちは家族だよね」
「ごめん。今はそんな気分になれない。すくなくともあの男の中では、優花だけが家族で、私は家族じゃない」
「それは……」
 言いかけたところで、莉音は私の手を振りほどきました。その拍子に、私の抱えていた繭がするりと落ちて、道路の淵で弾みました。繭はぽちゃんと水田に落ちました。野生のけりがキイキイとうるさく鳴きました。
 けりの巣の中に小さな卵が四つ並んでいます。あれを守るために、けりは夫婦で交替しながら卵を温めているのでしょう。ひるがえって、私たちはどうなのでしょうか。卵のように、共通して守らなければならないものがあるのでしょうか。
 繭を救出した頃には、莉音はどこかに行ってしまっていました。私は繭の表面についた泥を落とすため、軽く擦りました。繭は私になにも語ってはくれませんでした。

 家に帰ったら、繭を持ったまま布団に入りました。ライオンと蜻蛉さん、二人の姿が夢の中に浮かび上がります。二人とも、私から離れていって欲しくない。だけど、私が話しかけようと近づけば近づくほど、二人の顔は憎しみに染まりました。
 どうして、裏目に出てしまうのでしょうか。そこに大きな誤解があることはあまりにも明らかでした。だけど、私がそれを解こうともがけばもがくほど、ほつれはより激しく絡まっていきます。気がつくと、私は真っ黒な生糸でがんじがらめにされていました。手も足もでないまま、私は二人が去って行くのを見ていることしかできませんでした。
 私の胸の中で、チャオの繭だけがほのかに光を発していました。私にとって、唯一側にいてくれるのがこの繭でした。いいえ、チャオには決してそんなつもりはないでしょう。ただ私の方が、この行き場のない気持ちをぶつける対象を探していて、繭はそこから逃げも隠れもしないだけでした。
 私は繭を強く抱えました。繭は黒い糸と結びついて、カイコのように一体となりました。そして糸を飲み込みながら、次第に大きくなっていきます。私の意識は、次第に朦朧としてきました。
 気がつくと、繭の糸はもうほとんど残ってはいませんでした。糸のすき間から、神々しい光が漏れ出していました。その光はまるで灯籠のように、不思議な文様を私の部屋に浮かび上がらせました。繭はどんどん薄くなっていきました。それと共に、光も次第に強さを増して、私は思わず目を細めました。
 光の中に、ライトカオスがいました。テレビでしか見たことのないその生き物が、私の目の前にいました。
 透き通るように白い体と、青い瞳、頭上で輝く光。この世の物とは思えない美しい姿。私はライトカオスに手を伸ばしました。肌に触れるとぬくもりが指先から流れ込んできました。あらゆる悩みは私の頭から抜け落ちて、温かい水が私の心を満たしました。
 天井に浮かび上がる波模様を目にしながら、私は眠りへと落ちていきました。
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7. 祈祷
 優花 WEB  - 18/12/23(日) 0:07 -
  
 朝起きても、ライトカオスは私の部屋にいました。昨日ほどのまぶしさは感じられず、蛍火くらいの明るさになっています。その奇妙な存在を私はじっくりと観察しました。
 蜻蛉さんはチャオを心の動物と呼びました。もしそうなら、私の気持ちに呼応して、このチャオはライトカオスに育ったということになります。ライオンのこと、蜻蛉さんのこと、昨日はそんなことばかり考えていた気がします。
 だけど、本当にそれが理由なのでしょうか。それとも、潮の満ち引きのような、なにかもっと大きな流れがライトカオスを生み出したのでしょうか。
「なんなのかなあ、君は」
 私はライトカオスの頬をぷにぷにとつつきました。ライトカオスになっても、相変わらずこいつは一言も発することはなく、私に答えを教えてはくれないのでした。

 私はライトカオスをリビングに連れて行きました。リビングでは一木がテレビを見ていましたが、私が抱いたライトカオスを見るなり、驚いて近寄ってきました。
「すげえ。どぎゃんしたと?」
 一木はライトカオスの光を掴み取ろうとしました。光る球はすっと血潮を透かして、一木の手を赤く染めました。
「わかんない。それより、もっと大事なニュースがある」
「何?」
「ライオンが私のおねえちゃんになった」
「は?」
 私は昨日からの出来事を、事細かに一木に説明しました。ひとしきり聞き終わった後、一木はしばらく黙りました。
「どう思う?」
「突然言われたけんびっくりしとる。そばってん、ライオンも俺たちの家族なんじゃなかと? お前も俺の家族だろ?」
 突然聞かれて、私は戸惑いました。家族、という言葉は私に安心感を与えてくれると同時に、少し手垢の付いた感触もあります。だけど、そう、私たちは家族。その大筋には違いがないはずです。私はうなずきました。
「じゃあライオンも家族ばい。優花と家族になれたんだけん、ライオンとだって、家族になれんはずはなか」
「でも蜻蛉さんが……」
「そりゃあ向こうの都合たい。俺らが気にすることじゃなか」
 一木はきっぱりと言い切りました。一木にとっては蜻蛉さんなんて血のつながりのない他人だから、そういう風に割り切れるのかもしれません。だけど、今回に限っては、それが頼もしく思えました。
「俺の方から話してみりゃん。ライオンは俺たちの家族ばいっちゅうて」

 その日の夜、一木は塾に行っていたから、そこでライオンと会ったはずです。ライオンと一木との間でどういうやりとりがあったのか、詳しくは知りません。
 翌朝になっても一木は起きてきませんでした。私は一木のドアを何度か叩きました。反応がなくて諦めようかと思い始めた矢先に、ぼさぼさの髪をした一木が出てきました。
「もう、遅刻するよ」
 一木は大きなあくびをして、顔をしかめました。
「風邪っちゅうことにしとけ」
 堂々とずる休みを宣言しました。そんなことでいいのか、と思ったものの、一木はあまりにも眠そうだし、これ以上交渉していると私がバスに乗り遅れてしまいます。
 私はさっき作った弁当を一木に押しつけました。
「これ、お昼」
「ありがと」
 一木はそそくさと自分の部屋に引っ込みました。

 学校が終わった後も、なんとなくそのまま帰る気になれませんでした。私の足は牧場とは反対側の小道へと向かっていきました。そこには小さな石造りの鳥居があって、飛び石が森の中へと延びていました。不揃いな岩の上には苔がむしていて、お世辞にもきれいとは言えません。鳥居をくぐると、木の葉が風に揺れる音や、虫の鳴き声や、鳥のさえずりが一斉に私を取り囲みました。
 少し歩いたところに、ボロボロの本堂がありました。鈴緒を掴んで強く振ると、カランカランと乾いた音が鳴りました。
 お辞儀をし、手を叩いて目を閉じます。ここに来て、私はお願い事をなにも考えていなかったことに気付きました。少し悩んでから、私は心の中で唱えました。
「ライトカオスが未来永劫生き長らえますように」
 目を開けて一礼すると、木漏れ日が先ほどまでよりも強く降り注いでいるような気がしました。このお願いに意味があったのかは、私自身にもわかりませんでした。

 ライトカオスは単に寿命の長いだけのチャオです。しかし、ライトカオスをゆっくりと乾燥させると、乾眠と呼ばれる極めて防御力の高い状態になります。乾眠中のライトカオスは、水を与えると元のように活動を再開します。ライトカオスは無限の寿命を持つ、などと言われるのはこのためです。
 私は知りたかったのかもしれません。神というものがいるとして、どうして私の元にライトカオスを届けたのか。その目的を教えて欲しかった。
 私には、自分がどうやってライトカオスを育てたのかわかりませんでした。ライオンに家族になって欲しいという強い思いが、そうさせたのでしょうか。あるいは、自分ではどうしようもできないという悔しさや、やるせなさが、繭になんらかの影響を与えたのでしょうか。
 ライトカオス。それはあまりも自分の手に余る存在でした。この世界には、もっとライトカオスを受け取るのがふさわしい人がいるんじゃないだろうか。そんな風にも思えました。
 参道を抜けて家に帰ろうとしたとき、近くの建物から太鼓の音が聞こえてきました。この地区の小学生は、毎年夏になると太鼓の練習をして、それを花火大会の日に発表するのです。そのどこか原始的なリズムは、私を懐かしい気持ちにさせました。

 家に帰ると、一木とライオンがリビングでテレビを見ていました。
「ただいま」
 私がどう声をかけたものか迷っていると、先にライオンが立ち上がって頭を下げました。
「一昨日は、ごめん」
「ううん、気にしてないよ」
 そう言っても、ライオンは頭を下げたままでした。彼女はぽつりぽつりと、言葉を紡ぎました。
「蜻蛉のことは、私にはまだ許せてない。だけど、優花を傷つけたのは、八つ当たりだった」
「気にしてないから、顔を上げて」
 ライオンの顔が、ゆっくりとこちらを向きました。眉がなにかを堪えるように歪んでいました。
「一木に言われて、やっと気付いた。私は本物の家族も傷つけようとしてた」
「そんなことない」
「ううん。私は一つの悪い感情に流されて、優花のことが見えてなかった」
 ライオンの瞳は、私だけを見つめていました。
「だけど、それは昨日までの私。今日からの私は、不公平とか公平とかじゃない。明日の私がどうなるべきかでやることを決める。だから、そのことを優花に最初に伝えたかった」
「昨日の夜からずっと話しとったとよ。家族になるっちゅうんはどぎゃんことなんか」
 一木も立ち上がって、優しくライオンの肩を抱きました。
「俺は思った。家族っちゅうんは、見捨てんっちゅうことじゃなか? 俺は約束した。絶対にライオンを見捨てんって」
 私は笑いました。
「なにカッコつけてるの、一木のくせに」
 私もライオンの肩に手を伸ばします。ライオンのまつげと私のまつげが触れ合うくらいに、顔を近づけます。
「私も最初からそのつもりだよ」

 その日から、一木の行動はさらに変わっていきました。学校での昼休みに、私たちのグループではなく、どこか別のところで食べることが多くなりました。誰と食べているかはうすうす気付いていましたが、私は追求しませんでした。
引用なし
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8. 罪が見ている
 莉音 WEB  - 18/12/23(日) 0:07 -
  
 私は光を求めていた。
 一度は起きようと思ったけど、朝の日差しはあまりにも儚いうえに、氷のように冷たい空気の中で私は衣一つ身に纏っていなかった。細い腕を伸ばして布団をかき集めると、陽に照らされた一木の背中が見えた。彼も寒くなって飛び起きるんだろうな、と思いつつも、布団をえい、と引っ張って、自分の体に巻き付けた。そうして再びまどろみの中へと落ちていった。
 まぶたの裏に焼き付いた光は暖かかった。でも、私がそれに手を伸ばすと、瞬く間に世界は暗闇に包まれた。私は怖くなった。

 不意に、赤い光の粒が、夜空に弾けた。
 花火が、ぼんやりとした残像を夜空に滲ませながら消えてゆく。
 続いて、二発、三発。色とりどりの打ち上げ花火が窓の外を埋め尽くす。
 隣には一木が座っていた。彼の顔が数え切れない光で照らされる。雑居ビルの二階と三階の間にある踊り場は、私たちだけが知る特等席。
「俺は、莉音のことが好きだ」
 血流は恐ろしい速さで私の身体の中を巡った。喜びと、困惑と、恥ずかしさが、数秒のうちにあぶくのように弾けて消えた。いつかは言われるだろう、という予感はあったのに、私はなんの答えも用意していなかった。
 あの日見つめ合った優花のまつげ。その感触をかろうじて思い出す。彼女の顔が、急に悲しみで歪むところを想像して、私はぞっとした。ああ、私のやっていることは父となにも変わらない。私の中の血がそうさせているのか、どうして他人のものを奪ってしまうのか。
 私はどうするべきかわからなくなって、しゃがみこんだ。私の口に、いつの間に流れ出ていたのだろう、涙の味が広がった。私は一木に釈明しようとしたけど、うってかわって出てきたのはしゃっくりだった。
 一木は私の肩をぽんぽんと叩いた。
「すぐに答えんでもいいけん」
 一木が許してくれたことが、今の私にとってはありがたかった。
「一人で帰らせて」
「危なくなかと?」
 私は黙って首を横に振った。これ以上、一木と言葉を交わしたくなかった。そんなことをしたら、本音が漏れ出してしまう気がした。一木の手を振り払って、雑居ビルを抜け出して、街道沿いを一人で歩いた。
 夜風が吹いて、涙が少し乾いたら、私の気持ちも固まっていた。
 アイツはバカだ。バカだから直球しか投げることしかできない。だから、私も全力で打ち返す。そうするのが唯一、バカに対する礼儀なのだ。
 私は二人にメールを送った。優花には「今すぐ会える?」と。一木には「ごめん、明日まで待って」と。

 優花は花火大会に行っていなかったから、私は再びあの長い坂道を登って桐山牧場に向かった。
 チャイムを鳴らすと、優花が玄関の戸を開けてくれる。エアコンの涼しい空気が流れ出る。私の酷い顔をみて、なにかを察してくれたんだろう、
「私の部屋に、来る?」
と尋ねた。私はうなずいた。
 優花は私の手を引いて隣の棟まで歩いた。そこはフローリングと白い壁紙に囲まれた、小さな部屋だった。私の部屋よりずっと整っている。整理整頓されているというよりも、そもそも必要なものしか置かれていないという感じだ。
 入り口の横には水槽に入ったライトカオスがいて、それだけが異様な存在感を放っていた。まるで自然のものではないみたいに美しい生き物だった。
「リビングにあるとピカピカしてうっとうしいから」
 優花はそんなふうにライトカオスを説明した。

「ねえ、優花はどうやってライトカオスを育てたの?」
「わかんない。気付いたら勝手になってたの」
 私たちは水槽の周りにしゃがみこむ。ライトカオスの光が、私たちの顔を明るく照らす。
 私は昔、お母さんが読んでくれた絵本のことを思い出していた。その中の最後のセリフが唇の先端からこぼれ落ちた。
「ライトカオスは、永遠の愛を願った人だけが手に入れられる」
「永遠の愛?」
「そう。そんな存在するかどうかわからないものを望んでしまった人の所にだけ、このチャオは現れる」
 それはどこまで本当かわからない話だった。でも、そんなファンタジーが本物だと思えるくらいに、ライトカオスは私の想像をはるかに超えていた。生命力があふれ出ているのに、どこか幻想的だった。
「ねえ、優花はさ、本当は一木のことが好きなんでしょ?」
「そんなことないよ」
 優花は首を横に振った。そのしぐさは妙にこなれているから、きっといつもその返答を繰り返してきたんだろう。そのうちに優花の本音も隠れてしまって、嘘から出た真なのか、真から出た嘘なのか、わかりにくくなってしまったんだろう。私はその建前を剥ぎ取りたかった。
「ねえ、もっと自分に正直になってよ。私、優花の気持ちを踏みにじりしたくないんだよ」
 優花はうつむいて、目線を泳がせた。
「私、さっき、一木に告白された」
 優花が顔を上げる。そのときの表情を、私は読み取ることができなかった。ライトカオスの光が風前の炎のように激しく揺らいで、優花の顔色を隠したからだ。
「私はずるい女。いつからか、一木のことが好きになっていた。なんでだろう。優花のことを傷つけたくはないはずなのに」
「別に、私は一木のことなんか好きじゃないよ。一木は私の隣に住んでる同級生。それ以上でも以下でもない」
「じゃあ、このライトカオスはなんなの?」
「私にもわかんないよ」
 優花は弱々しくつぶやいた。

「たぶん、ライトカオスって、そんなにいいものじゃないよ」
 優花はライトカオスを抱き上げる。白い身体は淡く光って、彼女を内側から照らしだす。
「私は知りたかったの。私と一木の関係を表す言葉を、ずっと探してた。テンさんとヒツジさんは、自分たちの関係を事実婚っていう形で周りに認めさせた。だから、私たちの関係も普通じゃなくていい。もっと、特別な言葉で語られるべきだと思った。周りのみんなは私が一木のことを好きだって言う。でも、それも私の本当の気持ちとは違っていた。なにが好きで、なにが愛なのかわからなかった」
 優花はライトカオスを目の前に掲げた。
「ライトカオスを育てられたら、それが私たちの関係を象徴してくれる。昔はそう信じてた。でも、本物のライトカオスを手に入れてみたら、それだけじゃなんにもならないってわかった。四つ葉のクローバーを探している人は、いずれ必ず四つ葉のクローバーを手にする。それと同じように、私は言葉を必要としてたから、ライトカオスを手に入れたんだ。だけど、ライオンは違うでしょ?」
 優花の視線が私を射る。
「私は知りたい。ライオンはどうして自分が一木を好きだって気付いたの?」
 氷のように、なにかひんやりとしたものに触れた心地がした。
 優花は、表向きは優しく、おおらかで、母性にあふれた女性に見える。だけど、本当は違うのかもしれない。人は誰しもどこかに足りない物を抱えている。優花の場合、それはある種の感情に対してのセンサーなのかもしれない。
 わからない。私の中の優花が湾曲して、急に遠のいていくように感じられた。それはライトカオスの無表情な外見と混じり合って、人間ではない生き物へと姿を変えていった。
「じゃあ、私が一木と付き合っても、いいの?」
「いいよ」
「本当?」
「……応援する。だって一木もライオンもお似合いだから」
 三角関係という言葉がある。ドラマとかでよくある、絶対に誰か一人が幸せを諦める関係だと、そう思い込んでいた。でも、その中の一人が壊れていたら、それは三角関係ではない。
 私はずるい女だ。

 一木と一つになったのは、それから結構経ってからのことだった。私は別に気にしなかったのに、彼が「受験が終わるまでは我慢する」と言い張ったからだ。
 三月、私たちは塾に集まって、二人で合否を確かめ合った。同じ大学に受かっていた。
 私たちは手を取り合って喜んだけど、周りの人たちの目もあったから、ちょっとだけ恥ずかしかった。先生に軽く報告して、すぐに私の家に向かった。開放的な気分だった。
 それから、彼と私はお互いに強く抱きしめあって、キスをした。私と彼の唇が触れ合うと、二人の温度が同じになる。
 彼は初めて「していい?」と尋ねた。
 私はうなずいた。そうして、彼の筋肉質な両手が、私の制服のボタンをぎこちなく外す様子を見守った。
「逆だと、難しいたい」
 顔をしかめる彼に「全然いい。むしろゆっくり外して」とねだる。
 彼は苦笑しながら、自分のシャツをゆっくりと脱いだ。そして、ズボンとパンツも。
 身体がベッドに倒される。私と彼の四肢がじかに触れる。彼のすべてが見える。首筋の血管や、そこに張り付いた髪の毛や、産毛の一つ一つまではっきりと感じられる。
 彼は私の全身を探るように撫でた。最初は男の人が好きそうなところから始まって、くすぐったいところ、あまり見られたくないところ、そうして最後にあそこへと辿り着いた。彼は私をためらい気味に刺激した。
 そのとき、私はあのライトカオスの青い目を目撃した。それはほんの数秒のことだった。びっくりして、私は思わず後ずさりした。
「痛かったと?」
「いや、そういうんじゃないけど……」
 私はあたりを見回したが、ライトカオスの姿はどこにもなかった。幻覚? 白昼夢? 一瞬頭を巡ったいろんな考えは、彼との行為を続けたいという欲によってかき消された。
「ごめん。もっと続けて」
 二回目は、なにも見えなかった。私は誰にも邪魔されることなく、彼のイニシエーションを堪能した。

 私たちの身体はどうしようもない欠陥だらけだ。私の身体は彼を受け入れる器ではあったけれど、どこか窮屈で、動物的だった。
 一木は、私の背中を抱きながら、私のことを初めて「莉音」と呼んだ。その変化に私はどきりとした。
 言葉は自由。だから、どんな関係だって定義できる。そこには必ず彼の意志が反映されている。たかが名前だけど、一木が私を呼ぶ、その音が私を人間だと教えてくれる。

 何度も交わったのは最初の一ヶ月くらいだった。新学期に入ってからは大学に溶け込むために慌ただしくしており、なかなかそんな余裕がなかった。
 私たちは別々のアパートに引っ越した。だけど週末は毎回会った。
 最初のうちはぎこちなかった彼のリードも、次第に手慣れたものへと変わっていった。そのたびにライトカオスが現れたが、私はそれを無視し続けた。

 私は光を求めていた。
 性的快感によって得られるそれは、ライトカオスの光とはなにかが異なるようだった。それでも私は、それを求め続けた。
 私は忘れようとしていたのかもしれない。時間が経つほど、優花に対する罪悪感は小さくなっていった。しかし、それは決して薄まることはなく、むしろ種子のように凝縮されていった。
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9. どおん
 優花 WEB  - 18/12/23(日) 0:08 -
  
 私たちの小学校は、今年の三月に廃校となりました。もともと子供の数が少なかったからしかたがありません。でも、今後私たちの後輩が出てくることがないと思うと、なんとなく寂しい気持ちになります。
 校舎と体育館は取り壊されないまま残っているし、桜の木もそのままなので、一見すると以前と何も変わらないように見えます。でも、子供たちの声が聞こえてこない。停まっている車もない。そんな小さな違いを見つけるたびに、思い出の場所が失われてしまった実感が沸いてきます。

 だから、葉桜の側に人影を見つけたとき、私は自分の目を疑いました。スーツを着た男性が、私に向かって大きく手を振っていました。誰だかすぐにはわかりませんでした。
「ひさしぶり!」
「ああ、佐々木君」
 男友達の成長には、ときどきびっくりさせられることがあります。あの佐々木君がこんな好青年になるなんて。
 彼はニカッと白い歯を見せて笑いました。その顔だけは以前からなにも変わっていませんでした。
「今日はどうしたの?」
「いや、仕事で近くまで来ることになったから、寄ってみたんだ。廃校になったんだってな」
「仕事?」
「ああ、春から福岡県庁に勤めてんだ」
 佐々木君が仕事を始めていたことを、私はこのとき始めて知りました。そういえば成人式の時も、佐々木君の顔は見ていませんでした。
 彼が公務員になるなんて誰が想像したでしょうか。成長を感じられて嬉しい反面、私の中で彼について知らないことがあまりにも多くなっていて、なんだか別人に会っているみたいです。
「松風はどうしてるんだ?」
「私はまだここにいるよ。牧場の手伝いをしてる」
 こんな風に小学校の同級生と再会すること自体、すごく珍しいことでした。同じ地区で育ったはずなのに、まだ阿蘇に残っているのは私とカピバラくらいのものです。
「じゃあ、一木は?」
「一木は春から熊本市内の会社に勤めてるよ」
 私は有名な食品加工会社の名前を挙げました。
「へー、すげえな。じゃあさ、あのチャオ、チャピルだっけ? あいつは元気にしてるか?」
「ライトカオスになったよ」
「まじで?」
 佐々木君は目を丸くしました。私は数日前に、ライトカオスの写真を撮っていました。カメラロールからそれを探して、佐々木君に見せました。
「……やべえ」
 それはライトカオスを見た人が時々見せる反応でした。この様子を見ると、私は自分自身とのギャップをいつも感じて、なんとなく話題を逸らそうとしてしまいます。
「佐々木君のチャオはどうなった?」
「俺も中二くらいの頃にライカに育てようとした。でもうまくいかなかった」
 今回だけは、話題を逸らすことができませんでした。
「あるとき気付いたんだ。ライカを目指すのが絶対じゃないって。頑張って、試行錯誤しても、どうしてもうまくいかなくって、それで俺はチャオを育てることが全然楽しくなくなってたんだ。チャオなんて適当に可愛がっとくのが、俺にとっては本来の育て方なのかもしれないって、そう思ったとき、やっと俺はライカから解放されたんだ」
 私にはよくわからない感覚でした。私はライトカオスを育てるために、特別な努力をなにもしなかったから……もちろん育て方を調べたりはしましたが、結局よくわからなくて、それなのにいつの間にかチャピルはライトカオスになってしまったのです。
「優花はチャピルを可愛がっているか?」
「そのつもりだけど……」
「じゃあ、大事にしてやれよ」
 佐々木君の頬骨が影を落としました。
「大人になったら、もうライカに全力を出せる時間なんてないからな。だから、俺の分も頑張って欲しい」
 そう言い終えたところで、佐々木君はあわてて「あ、いや、松風が大人になってないっていう意味じゃないぞ」と付け足しました。
「わかってるよ」
 私は苦笑しました。佐々木君はスマホをちらりと見ました。
「そろそろ電車の時間だ」
「また来てね」
「ああ、いつになるかわかんないけどな」
 佐々木君が背中を向けます。葉桜が風に吹かれてざわめきました。不意に、私は彼ともう二度と会えなくなるんじゃないか、そんな不安に駆られました。
「ちょっと待って」
 呼び止めましたが、よく考えれば、佐々木君がここに残る理由はなにもありません。たった一人の私のために、たまにしか来ない電車を見逃す理由も。
「……ごめん。行っていいよ」
「あ、そうそう、てかLINE交換しようぜ」
 佐々木君はスマホを私に差し出します。
「今はさ、ネットとかあるんだから、別にどこに住んででも一緒じゃね?」
 本当にそうでしょうか? スマホをみんなが持つようになってから、私はむしろ人との距離がより遠くなったと感じることがあります。友達との写真とか、誰に宛てたかわからないつぶやきとか、必要じゃない情報まで目に入ってきて、そのたびに私の知り合いは、私じゃない誰かに染められているのです。
 だからこそ、こうして人と出会うということが本当に特別な意味を持っている。そのことに気付いているはずなのに、私は
「じゃあ、またね」
と手を振って、いつ会えるかもわからない人の連絡先を握りしめていました。

”『変わらんのがよかね』と君が言ったから、四月十日はライカ記念日”

 五年前、私はその日に名前を付けました。別に特別なことをするわけじゃありません。ただ、ライトカオスの写真を撮って、LINEで一木に送りつけてやるだけです。
 そこから毎年なにかしらのやりとりが生まれるのですが、今年はまだ、返事を受け取ってはいませんでした。

 その夜、牛舎の方から、牛たちの鳴き声が聞こえてきました。続いて蹄が地面を蹴る音も、まるでなにかに怯えているかのようでした。
 私はリビングのソファで、ヒツジさんはダイニングでテレビを見ていました。ちょうど夕ご飯の片付けを終えたテンさんが「私が見てくる」と言ってキッチンを出て行ったので、二人だけが部屋に取り残されました。

 それから五分ほど経った頃でしょうか。地面からどおんと轟音が聞こえて、私の身体は激しく左右に揺さぶられました。続いてなにかが割れるような音、瞬断する電気の音、スマホから鳴るけたたましいアラーム音、いくつかのことが同時に起きました。私は目の前のテーブルをしっかりと両手で掴みました。足元はぐわんぐわんと揺れました。私はテーブルの中に頭を入れるようにしてうずくまりました。とてもじゃないけど、それ以上のことはできませんでした。しばらくして、揺れは収まりました。私はゆっくりとテーブルから頭を出しました。
 ヒッと声をだしたのは自分でした。ダイニングでは、ヒツジさんが背中を押さえてうずくまっていました。食器棚の周囲に割れた皿が飛び散っています。近づいてみると、ヒツジさんの背中から、たらたらと血が流れ出ていました。破片の一つがヒツジさんに突き刺さっていました。
 たしか、リビングの棚に救急箱が入っていたはずです。あわてて包帯や絆創膏を取り出しました。ヒツジさんの側に近づいて、背中から慎重に食器の欠片を抜き取ります。シャツをまくり上げてみると、背中の傷は皮膚を突き破って奥深くに達していました。血はどんどん出てきました。どうすればいいかよくわからなくて、私はとにかく包帯をぐるぐると巻き付けました。
 また、地面が揺れました。先ほどに比べると小さな揺れですが、食器棚ががちゃがちゃと不穏な音を立てました。私は急に自分の身が心配になって、食器棚の扉を閉めました。ガムテープを持ってきて、棚の扉を固定しました。ひとまず、これで大丈夫でしょうか。

 ようやくあたりを見回す余裕が出てきました。食器棚以外にも、干してあったおたまや菜箸、冷蔵庫に貼り付けていたホワイトボード、エアコンのリモコンが落下しています。そして、また、緩やかな揺れ。テレビの画面にはいつの間にか大きなL字型のテロップが出ており、熊本県で震度七、そんな文字が目に飛び込んできました。
「ヒツジさん、大丈夫?」
「ああ」
 包帯を大量にぐるぐる巻きにしたおかげでしょうか、血液の染みはごく一部だけに留まっていて、特に広がっていく様子は見られません。ヒツジさんは背中を押さえたままダイニングテーブルの下に潜りました。ひとまず、そこにいれば安心できます。私の動転した心も、徐々に落ち着いてきていました。
 牛舎に行ったテンさんのことを思い出します。無事なのでしょうか。
「私ちょっと、牛舎の方を見てくる」

 先ほどまではあんなに騒がしかった牛たちが、不思議と静かになっていました。私はスマホの明かりを頼りに裏口を出ました。そしてはっと息を飲みました。
 牛舎の外でテンさんがうつぶせに倒れています。側には鉄パイプが転がっています。テンさんの頭のひしゃげた部分と、落ちた鉄パイプに残った血痕が同じ形でした。私はテンさんの脈をさぐりましたが、すでに息はありませんでした。
 どおん、とまた地鳴りがして、スマホがアラームを発しました。子供の頃からずっと過ごしてきた大地が、急に牙をむくのを感じました。どうしてこんなことに。
 私はテンさんを運ぼうとしましたが、私一人の力では無理そうでした。諦めて一人、桐山家へと引き返しました。ダイニングテーブルの下から、ヒツジさんがじろりと顔を覗かせました。
「テンさんはどぎゃんしたと?」
「死んでる」
 ヒツジさんはそれきり、言葉を失いました。

 私はどうしたらいいのでしょうか。母は死に、ヒツジさんは一応歩けるものの、怪我を負っています。私だけが無事だけど、それゆえに無力でした。また、地面が揺れました。私の日常というものが、もうほとんど壊れかかっていました。
 生き延びなければなりません。今、なにが使えるのか、一つずつ確認します。母屋の電気はひとまず付いているようです。水道は? 蛇口を捻ってみると、最初は透明だった水が、途中から鉄さびのような色へと変わりました。どうやら飲み水としては使えなさそうです。ガスは? 点きません。
 スマホの電波は? インターネットにはちゃんと繋がりました。ネットニュースのコメント欄で、みんな地震がすごかったというようなことを言っています。こんな風に投稿できるということは、逆に言うと、その人自身は無事なのかもしれません。私はとてもじゃないけれど、なにか投稿しようという気持ちになれませんでした。無事です、と言ったら嘘になるし、じゃあ不安を煽りたいかといったらそうでもないし……
 一木は? 無事なんでしょうか? 震源の位置からすると、一木も被災していたとして不思議ではありません。私は一木に電話しようとして、災害時の電話は御法度だったことを思い出し、LINEのメッセージに切り替えました。
> 大丈夫?
 数秒後、返事はすぐに来ました。
>> 大丈夫。そっちは?
> 私は無事、ヒツジさんは上半身に怪我、テンさんは死んだ
 今度は、返事がなかなか来ませんでした。一木の当惑が、目の前にいるように想像できました。
>> わかった。すぐ戻る
> あわてないで
>> こっちは無事だけん、自分の身の回りを心配せえ。なんか必要なものはあると?
 私はあたりを見回しました。取り急ぎ対処が必要そうなのはヒツジさんですが、一木に任せるよりも救急に送った方がよさそうです。となると、私にできることはなんでしょうか。
> 水が欲しい
 メッセージを打つ指先は乾いていました。
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10. 希望を求めて
 莉音 WEB  - 18/12/23(日) 0:09 -
  
 一木は今すぐにでも阿蘇に向けて出発したそうだったけど、私は反対した。
「だって、まだ余震が続いてる」
 私は3.11を思い出していた。揺れが収まって数時間後に津波がやってきて、私たちを恐怖のどん底に叩き落とした。だから、すぐに動いたってどうにもならないこともある。まずは情報を集めようよ。
 私の説得を受けて、一木はいったん落ち着いたようだった。腰を降ろして、しばらく無言でテレビを見続けた。
 熊本市内の状況をレポーターが懸命に状況を伝えていた。棚の倒れた商店、崩落した塀や看板、避難する人々。益城町の方が特に深刻らしく、複数の家屋が倒壊し、火災も発生している。九州電力は川内原発に異常なしと発表。だが、阿蘇市が画面に映ることはなかった。
「明日には行くばい。あそこにおるんは優花だけじゃないけん。ヒツジさんも、牛も、チャオもおる。全部を優花一人に任せられん」
 こういうまっすぐな目をしているときの一木は、決して止められないことを私は知っている。だから、うなずくしかなかった。
 私は職場に「明日は行けません」という旨のメールを送った。また、足元が少し揺れた。この余震が続く中、とても営業しているとは思えなかったが、念のためだ。一木も同じようなメールを送っていた。

 まだ太陽も昇りきらないころ、私たちはトランクにミネラルウォーターを積みこんだ。春とはいえ、朝は凍えるくらいに寒かった。一木がハンドルを握り、私は助手席のシートベルトを締めた。中古で買った黒塗りのSUV。車はアパートを出発した。
 市内から阿蘇へ向かうには俵峠を越えるのが一番の近道なのだが、万が一を考えトンネルを通るルートは避けることにした。そうなると外輪山の北側、県道三三九号を通るルートを行くしかない。
 車は緩やかな上り坂に入る。景色から次第に家が減り、電柱が減り、草原と空だけになる。大地の所々に、黒い筋のような亀裂が走っている。そのことが地震の大きさを物語っていた。
 バラバラというヘリの音。どこから聞こえるのだろうと空を見上げたけれど、薄膜のような雲が日光をぼんやりさせるばかりだった。車は赤信号で一時停止した。一木は車のハンドルをトントンと指先で叩いた。いらだちが私にも伝ってきた。
 再発進、車は山の中へと入っていく。道路は右へ左へ、激しく体が揺さぶられる。一木はアクセルを緩めない。私は窓際に強い力で押しつけられる。風景はものすごいスピードで流れていく。
 直線に戻る。内蔵がシートに貼り付けられるかのように重く感じられる。そしてまたカーブ。なんども繰り返される左右への揺さぶりに眩暈を覚える。風景は加速を続ける。緑と黒の線が視界の中でぐちゃぐちゃになる。
 そのとき、不意に木々が途切れた。車の右手が一気に開けた。牧草地が半月状に広がっている。その向こうには田んぼが並び、奥には黒い岩のような山が、阿蘇山が見える。
 みんな、無事なんだろうか。この狭い盆地の中に、なぜだろう、懐かしい風景がたくさんある。お母さんも、優花も、テンさんも、ヒツジさんも、そしてカピバラも、みんなこの中にいる。私にとってはたった一年を過ごした土地なのに、故郷ですらないのに、忘れられない思い出がある。
「また、この景色を見りゃんとはな」
 一木がぼそりと呟いた。

 車は少しずつ斜面を下っていく。田んぼを横切る農道に、車が停まっているのが見える。中を覗いてみると、人がタオルを被って眠っていた。どうやら街中にいたら危険だと判断した人たちが、車を使って避難しているらしい。
 小学校が見える。校庭には車や救急車が停まっており、テントが張られている。体育館の中にたくさんの人がいるようで、あふれた人間が入り口付近にたむろしている。絵に描いたような被災地だ。
 私たちの車は、そんな光景をよそに坂道を登っていく。
 そして緑の丘の上に白い二軒の家が現れる。桐山家と松風家、一木はその手前に車を停めた。
 松風家から見覚えのある女性が姿を現す。乱れた髪、飾り気のない服、化粧もしていないのに愛らしさを失わない顔。
「ほんとに来てくれたんだ」
 一木は車を降りて、優花を両腕で抱いた。
「無事でよかばい」
 私はその光景を目の前で見ながら、不思議と心は落ち着いていた。一木の行動を批判する気にはなれなかった。そういう批判ができる立場にないことは、自分が一番よくわかっていた。それに、そうすることによって優花の心が少しでも安らぐのなら、今は特別に許したかった。

 優花は私たちをリビングに招き入れて、今の状況を説明した。
「ヒツジさんを病院に連れて行きたいの。救急車を呼ぼうとしたけど、昨日の時点では受付できませんって言われて……」
 なんでも、昨晩は単に上半身に傷を負っただけかと思っていたのに、今朝になって下半身もうまく動かなくなっているらしい。おそらく病院は昨晩の時点での状況を聞いて判断してしまったんだろう。
「ヒツジさんとテンさんをいったん旧小学校に運ばんか。さっき、そこに救急車が停まっとった。ヒツジさんのことも、テンさんのこともどうしたらいいか、俺たちだけじゃわからん。一度避難所に行って情報を集めたいけん」
 そうして一木はダイニングにうずくまったヒツジさんに声をかけた。
「立てっと?」
 一木が肩を貸して立ち上がろうとしたが、思いのほか重かったのか、ずるりとヒツジさんの身体が崩れた。
「一人じゃ無理だよ」
 優花が反対側の肩を支えて、持ち上げる。腰がまっすぐになるにつれて、ヒツジさんがうめき声を上げる。慎重に、二人で歩を進めていく。
「ここを通って」
 私は行く手にあるドアを開けて、三人を外に連れ出す。なんとかして、車の後部座席にヒツジさんを座らせることができた。
 次は、テンさんだ。優花は死体を見るのを嫌がったので、私と一木が家の裏へ赴く。テンさんは地面に顔を伏せて転がったままだった。
 全身の関節は硬まってきていて、思うように動かなかった。一木が頭の方、私が足の方を持ち上げることになった。両足は靴下を履いているのに冷んやりとしていた。
「なんだろ、まるで死体みたい」
「ああ、俺もまだ実感が沸かん」
 私たちはテンさんをトランクに積んだ。足を折り曲げて、無理矢理トランクルームの蓋を閉めた。

 小学校の校庭に車を停めた。ヒツジさんをもう一度降ろす気力はなかった。三人で車を降りて、体育館へ向かった。
 体育館のそばに、サングラスをかけた女性が腰かけている。「赤星先生」と優花が呼んだ。一木も合わせてお辞儀をした。
「あの、母が……」
「大変なことになりましたねえ」
 赤星先生と呼ばれたお婆さんはのんびりとうなずいた。
「でも、ここに来られたということは、無事だということです。まずは一安心。ほらほら、体育館の中に入ってください」
「母が、死んだんです」
 優花の口から嗚咽が漏れた。
「あらまあ」
 赤星先生が驚いているのか悲しんでいるのか、サングラスのせいでよくわからなかった。亡霊のようにゆっくりと立ち上がって、優花の肩を強く掴んだ。
「優花ちゃん、今が正念場です」
 その言葉は優花だけではなく、私たち三人に言い聞かせているかのようだった。
「あなたがしゃきっとせんと、桐山農場は支えられません。失ったものは大きいけど、ここから立ち上がらんとなんにも始まりませんよ。今が、踏ん張りどきです」

 その後、赤星先生が救急救命士のおじさんを呼んでくれた。その人の診察によると、ヒツジさんは傷の位置によっては下半身不随になる可能性があるとのことだった。ともかく一度、病院に送って検査した方がいいらしい。テンさんの遺体も死後措置のため、いったん病院に運搬するべきだと言われた。
 まもなく救急車がやってきて、二人の体が担架に乗せられた。
「俺も同伴したか」
と一木は申し出たが、
「病院に行ったところで居場所はないぞ、自分の避難を優先しろ」
とおじさんに強く言われて、引き下がった。私たちは救急車が校庭を出て行くのを見送った。

 赤星先生が私たちにおにぎりとお茶を配ってくれる。どうやら近くのスーパーが無償で避難所に食料を提供してくれたらしい。
「気を落とすことはありません。あなたたちの無事が確認できただけで、本当に良かったと思ってるんです」
 よく考えると、朝からなにも食べていなかった。私たちはがむしゃらにおにぎりを頬張った。
 体育館の周りでたくさんの老人が談笑している。テンさんが死んで、ヒツジさんが怪我を負って、世界が終わるような気がしたけれど、そんなことはない。この土地では、まだたくさんの人たちが生きようとしている。
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11. これからどうする?
 莉音 WEB  - 18/12/23(日) 0:09 -
  
 その夜、私たちは熊本には戻らずに、そのまま桐山家に泊まることにした。病院からの連絡を待つ必要があったし、テンさんの訃報を関係者に知らせる必要もあった。やるべきことは、まだたくさん残っていた。
「ねえ」
 私は一木のシャツの裾を引いた。
「こういうとき、私はどの部屋に泊まったらいいんだろう?」
「俺の部屋に来んか?」
「はあ?」
 あらためて、こういうときの一木が何の役にも立たないことを思い知る。私は優花の手前、それができないから聞いてるのに。
「もうちょっと真面目に考えてよ」
「なんの話してるの?」
 渦中の優花が話に割り込んできた。
「こいつがどん部屋で寝るかって話ばい」
「うーん」
 優花は唇に指を当てて悩んだ。
「テンさんの部屋だったら、空いてると思うけど」
「そりゃあ空いてるだろうけど!」
「それか来客用の布団が階段の下にあるよ」
「それを先に言ってよ!」

 私は来客用布団をリビングに持ってきて敷いた。一木と優花におやすみを言って、リビングの電気を消すと、ほとんどなにも見えなくなった。枕の位置を足でまさぐった。
 この家に来たのは高校生の時以来だ。しかも、泊まるのは初めてだった。敷き布団の上に立つと、冷蔵庫のかすかな駆動音と、窓から見える星明かりが私を包み込む。いつもだったらセンチメンタルな気分に浸れたかもしれないが、今日ばかりは日中の疲れの方が勝っていた。布団を被って目を閉じる。まだ、明日がある。そのためにも今日は寝た方がいい。

 ドンッという地響きが、私の目を覚ます。激しい揺れと轟音。昨日の比じゃない、強烈な揺れだ。私は布団の端を強く掴んで、じっと堪えた。揺れが収まると、一木が二階から降りてきて部屋の電気を点けた。二人とも無事。だけど、優花は? 私たちは目配せして、ゆっくりと渡り廊下へのドアを開けた。ちょうど同じ時、反対側の扉が開いて、優花のほっとした表情が見えた。
「無事か?」
「無事じゃない気がする」
「どういう意味?」
 優花は私の質問に答えずに、家の裏へと向かった。一木がスマホのライトを点けて、目の前を照らした。そこはちょうどテンさんの遺体を見つけた場所だった。そしてその遺体の横には、漏斗型の巨大なタンクがあったはずだ。
 そのタンクが倒れている。巨大なタンクは牛舎の屋根を破壊し、大きな穴を開けている。牛舎の壁はぐしゃりと潰れ、もはや原形を留めていない。あまりの惨状に言葉を失った。
 一木がライトを動かして、崩れた部分を明るくする。タンクからこぼれた茶色い粉が、砂煙のようにあたりを漂っている。
 牛舎の裏手に回って中に入る。足を踏み入れると、牛たちはみな立っていた。まるで逃げさせてくれとでも言いたそうだった。この牛舎では、すべての牛は鉄柵に繋がれている。そのことが牛をこの場所から動けなくしていた。
 牛舎の奥では、瓦礫に足を挟まれて二頭の牛が倒れている。その目が弱々しくこちらを向く。脚を怪我しているが、死んだわけではなさそうだ。
 優花が牛の耳に付けられたタグを見て、瓦礫の山に視線を送った。
「あの下に、あと四頭いる」
 ドンッと、また地鳴りがして、牛舎全体ががたがたと揺れた。
「こっから出るばい」
「この子たちは?」
 優花は怪我をした牛の脚を見つめていた。
「手当てするんは無理ばい。いつまた崩れるかもわからん」
 優花は申し訳なさそうに、牛たちから目を背けた。私たちが生き延びるためには、彼らを見捨てなければならない。

 布団を頭まで被って、目を閉じても、揺れが身体の中に残っているように感じる。うつらうつらしていると、地面に倒れたテンさんや、足に怪我を負った牛が現れて、私の頭を掻き乱す。地面という、決して離れられないものが私たちの敵になったとき、私たちは一体どうすればいい?
 その思考は毒となって私の内蔵を巡った。今まで安定していると信じていたあらゆるものが、本当はなにも信じられないんじゃないだろうか。一木も優花を抱いて……いや、今そんなことを疑うべきじゃないのに、一木はこの家を守るために、精一杯自分ができることをしているのだから、私が信じないでどうするんだ。
 こんな気持ちになるのなら、一木の言葉に従って同じ部屋で寝れば良かった。そうしたら、こんなつまらない寂しさを抱かなくて済むんだろう。もっと素直にならんば、と彼によく言われる。自分でも気付いている。どうしてこんなずるい女を、あいつは好きでいてくれるんだろう。
 私はなかなか寝付けなかった。

 翌朝、私が目を覚ますと、ほのかな醤油の香りが私の食欲を掻き立てた。優花が朝ご飯を作っていた。
「食べる?」
 テーブルの上の料理、たぶん冷蔵庫にあった残り物だろう。肉じゃがとパンとスープというよくわからない取り合わせだったけれど、なんだか不思議とほっこりした。
「ありがとう」
「水道がいつの間にか直ってたから、作ってみた」
 そう優花は説明した。
 しばらく待っていると、寝癖まみれの一木も降りてきて、一緒に朝ご飯を食べた。テレビでは専門家が、一昨日の揺れが前震で、今日未明の揺れが本震であるというようなことを言っていた。と思ったら、別の専門家が両方とも本震だと主張して、スタジオで学術的な議論が始まってしまった。専門家の説明は難しくてよくわからない。要するに、私たちにとって重要なのは、今後も余震が続くということだけだ。
 ごくりと、スープを飲み込んだ一木が口を開く。
「今いる牛を、どぎゃんかして避難させたか」
「そうだね」
 優花もうなずいた。
「昨日死んどった分を差し引いても、あと54頭おる。どこに避難させりゃよかと? 優花、なんか知っとーと?」
「さすがにこの数になると……」
 優花は眉をひそめた。
「やっぱ、農協に連絡してみるっきゃなかと?」
 私の頭の中で、古い記憶が小刻みに震えた。54頭の牛が避難出来る場所……この近くに住んでいて、すぐに頼れる人……勢いで口を開いていた。
「カピバラの家に預けられるんじゃない?」
「TKG牧場か、あすこはたしかに大きいばってん、さすがに54頭は入りきらんばい」
「それに私たちの牛舎と全然違うから、いきなり入れても牛たちが馴染めないと思う」
 そうじゃない、と、私は首を横に振った。
「カピバラは前に言ってた。昔は放牧してたけど、今はしてないって。だから、あの牧草地帯には、そういう設備だけなら残ってるかもしれない」
「できるんか、そぎゃんことが?」
 一木は優花に目配せした。優花は目を閉じた。
「そりゃあ、牛舎よりは馴染みやすいかも知れないけど、いきなり放牧ってどうなんだろう……牛にも生存本能があるから、案外大丈夫なのかな。そんなことやったことないから、わかんないよ……」
「ま、可能性はあるばい」
 一木は私に悪ガキのような笑みを向けた。そうしてさっそく電話をかけ始めた。

 まもなくカピバラが大きなトラックを運転してきて、牛舎の裏口に停めた。五年ぶりに再会したカピバラは、なんだか以前よりも逞しく、制服よりも作務衣が似合う男になっていた。
「久しぶりだな、お二人さん」
「牛をよろしく頼む」
「もちろんだ。困ったときはお互い様だからな」
「それなら、値段ももうちっとまけてくれりゃあせんか?」
「いや、これがギリギリの値段だ。うちはビジネス経営だからな」
 カピバラは快活に笑った。

 牛の運び出しは難儀な作業だった。まず怪我をしている牛の傷口に包帯をまき、なんとか立たせる。
「よし、いい子だ」
 一木が背中をさすりながら、言い聞かせるように前に進ませる。私はその縄を受け取って、牛舎の外で待つ。二頭目の牛を一木が連れてきたところで、その二頭をトラックの荷台へ連れて行く。細かく指図しなくても、牛たちは自らの脚でトラックに乗り込んだ。トラックが出発したら、戻ってくるまでの間に私たちは次の二頭を準備する。その繰り返しだ。
 こうやってたくさんの牛を順番に見ていくと、それぞれの顔に違いがあることに気付く。真っ黒くて斑点の少ないその牛は、あのときのダークを思い出させた。ダークをトラックに連れて行こうとすると、脚を踏ん張って嫌がった。私は縄を強く引いて、無理矢理荷台に上がらせた。もうこれ以上は逆らえない。そのことを知ってか知らずか、ダークは名残惜しそうに牛舎を一瞥して鳴いた。
「こいつも桐山農場から離れたくないんだな」
 それが分かったところで、私にはどうすることもできなかった。トラックの発車音が鳴き声の余韻をかき消していた。

 生きた牛がすべて移動したら、今度は崩れた屋根を片付ける。しばらく手作業で黙々と瓦礫を除去していると、すき間から白黒の足が見えてきた。ある程度姿形が見えたところで、カピバラが大きな台車を運んでくる。二人がかりで転がして、牛の死体を台車に乗せた。
「これは食肉センター行きだな」
と、カピバラは言った。食肉センターというと聞こえはいいが、要するに牛を殺して、解体して、食べられる状態にする施設のことだ。
 昨日から死体ばかりを見てきたせいか、生き物を殺めることになにも感じなくなってきている。本当につらい出来事があったとき、心は無に傾く。自分にとってどうにかできる出来事だけを考えて、どうしようもないことはなるべく考えないようにする。
「死体も売れるんか?」
「一応、買値はつくらしい」
「そばってん、お前んちの言っとる金額には全然足りん」
「じゃあどうするんだ?」
「ヒツジさんに聞いてみるしかなかと」
 男達は淡々と金勘定のことを話していた。

 一木の車に乗せられて病院へ向かった。土曜日だというのに、病院の中は慌ただしかった。私たち以外にも被災した人がいるんだろうな、と想像するけれど、気にしてはいられない。
 私たちは病棟の五階に案内された。窓際のベッドにヒツジさんが横たわっている。別れてから一日しか経ってないにもかかわらず、ヒツジさんはずいぶんやつれたように見えた。
「昨晩もえれえ揺れたばってん、大丈夫だったと?」
 ヒツジさんは自分のことよりも、私たち三人のことを心配していた。ヒツジさんの細い手が、私たちの手を順番にぎゅっと掴んだ。がさついた皮膚を通して、血液がどくどくと流れてくるのを感じた。大丈夫、この人はまだ生きている。
「無事でなによりたい」
 看護師がやってきて、一木の名前を呼んだ。
「お二方は、ご家族ですか?」
 どちらが答えるべきか思案していると、一木が代表して答えた。
「いえ、桐山は私です」
「では、こちらに来てください。主治医から話があります」
 一木が出て行って、私たちは病室にぽつんと取り残された。優花がこちらをチラッと見て、はにかんだ。なにを話そうか、とでも言いたげに。
 私はヒツジさんに大学時代の一木の話を教えた。優花は牛を避難させたことを話した。だけど、しばらくしたら話題も尽きた。
 私たちはなんのためにここに連れてこられたんだろう。なんだか無性にイライラしてきた。桐山は私です。もっと他に言い方があったんじゃないの?

 30分くらい経った頃、一木が病室に戻ってきた。
「ヒツジさんと二人で話をさせてくれんか」
と一木は言った。もう、これ以上、蚊帳の外に置かれるのはごめんだった。
「私も聞きたい」
 そう口を挟むと、一木は少し迷うそぶりを見せたが、
「わかった」
と言って、椅子に腰を掛けた。私と優花、そしてヒツジさんの顔を順番に見た。
「ヒツジさんの足は直らん。最低でもあと二週間は入院、その後は車椅子生活が待っとる。元の生活には戻れん」
 ヒツジさんは、すべてを知っているかのようにうなずいた。
「俺はもう現役じゃないけん、わーが好きなようにせえ」
「ほんとによかと?」
「ああ、前からそんつもりだけん」
 一木とヒツジさんは、一体なんの話をしているのだろう。そこには家の違いによる確かな断絶があった。一木はきっと無自覚に、桐山家の当たり前を使って会話している。
 一木はきっぱりと言い放った。
「俺たちはもう、これ以上、この土地で牧場経営を続けることはできん」
 その目は優花だけを見据えていた。
「ヒツジさんはこんな身体だし、優花一人にも任せられん。元々三人でやっとった牧場を一人で支えるんは、無理がある」
「一木は、阿蘇に戻らないの?」
 優花は一木の手にすがった。
「俺は戻らん。莉音を幸せにするって決めたけえな。本当は、この週末、俺たちはお互いの両親と顔合わせする予定だったばい」
 一木は優花を振り払って、私の手を掴む。優花の顔がくしゃくしゃに歪んだ。私はこんな形で、優花に婚約の報告をしたくはなかった。
「優花、お前には選ぶ権利がある。このままここに残り続けたいんなら、方法はある。今後、俺げの土地はTKG協同組合の管理下に置かれることになる。そしたら、優花はヘルパーの一人として雇ってもらえばよか。もう一つの方法は、別の場所で新しい仕事を探すことたい。どっちかを選んでくれんか」
 選ぶこととは、なにかを捨てることだった。少なくとも優花にとっては。
 一木の言っていることは、きっと正しい。その正しさを込めた瞳で見つめられれば、きっと優花は断れないだろう。正論というものには、そういう暴力的な強さがあった。
 私はずるい女。五年前、自分が作った種子が実を結んで、このような形で優花に渡される様子を、ただ黙って見届けるだけなのだから。
「少し、考えさせて」
 優花はその言葉だけを、絞り出すように口から吐いた。

 私たちを乗せた車は、桐山牧場に戻る。いや、今朝まではかろうじて牧場だったが、今はもうそんな名前じゃない。
 優花は早々に後部座席を降りて、自室へと帰っていった。一木がエンジンキーを回して車を停める。二人きりになった。
「一木はさ、やり直せるならどこからやり直したいと思う?」
 一木はハンドルを左手で握ったまま、まっすぐに前を見つめた。
「俺は後悔なんぞせん」
 ああ、彼はいつもこうだった。私が間違いを犯しそうなときでも、いつだって前しか見ていなかった。結局そういう人のところに私は戻る。そして、同じ道を進むことになるのだ。
 結婚への高速道路。そこには誰が決めたか知らないが、数々のイベントが連なっている。私たちは何度も確認してきた、その道のりを。
「どぎゃん苦労があろうとも、二人で進んでいくってな。両親や優花の意見なんぞ最終的には関係なか。だけん、今更後悔なんぞせん」
 私は彼の二の腕に腕を絡める。そうは言うけどね、一木、ほんとに関係ないのかな。私、見ちゃったよ。一木のスマートフォンに、ライトカオスの写真が届いているところ。その優花の気持ちを無視して進んで、ほんとにいいのかな?
 一木の瞳孔が私を捉えた。
 私たちはずっと、優花に役割を押しつけてきた気がする。なにかが起きる幻想を抱かせて、ずっと待たせてしまっていた。
「そぎゃんこと、優花だって知っとったはずたい。俺らだけの罪じゃあなか」
 うん、私たち三人の罪だ。私たちはいつだって罪深い。正しい選択をしているようで、実はそうじゃない、正しいことをすることが罪なことだってあるのだ。
 だから、私は一瞬だけ、正しくない存在になるよ。
「ああ」
 それが償いになるかどうかは、よくわかんない。だけど、こういうことをやって初めて、私は過去とちゃんと向き合える気がする。
「なるほどな。毎年四月十日になるたびに、俺が感じとったあの感覚。あれが罪だったとね」
 一木はなにかに納得したようだった。
「そばってん、俺にはしきらん。今更正しくないことなんぞ」
 別にいいよ。私がやるから。
「じゃあ、よろしく頼む」
 うん、任せて。
 みんなが正しくないことをしなくてもいい。一木にはいつも、前だけを向いていて欲しい。運転席に座ったときの横顔が、私はずっと大好きだった。
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12. 鏡像
 [no name] WEB  - 18/12/23(日) 0:10 -
  
 どうして、私はこんなにも惨めな気分なんでしょうか。ずっと前からわかっていたことじゃないですか。一木が私のことを好きじゃないってことくらい。
 私は一木から一度も好きだなんて言われたことはなかったし、その点で裏切られたという気持ちは全くありませんでした。それなのに、私は一木を許すことができなくて、そのことが自分でも奇妙で、理不尽でした。
 服を脱いで風呂場に入ります。姿見に無垢な体が映し出されます。ライオンよりは多少肉付きは良いかもしれないけど、起伏がないってわけじゃない。身体も顔も、美醜でいえば、そう彼女と変わらないはずでした。

 そう、私たちはなにも変わらない。優花の像が映写機のように磨りガラスに投影されている。そのシルエットに自分自身を重ねる。
 長い間、私たちは違う場所で、違う道を歩んできた。それなのに、一木が私を家族として受け入れてくれたあの日、私は優花を自分の双子のように感じた。明らかに違うのに、どこかが私と同じ他人がいる。その喜びを感じていたのは、私だけだったのだろうか?
 優花のライトカオス。それを育てられたということは、優花の中にも愛する気持ちがちゃんとあるということだ。私はその力をまだ信じている。

 ライトカオスの青い瞳が、私をじっと見つめていました。ライオンはかつて、この子を永遠の愛と呼びました。だけど、このライトカオスを手に入れてから、それは私の側から離れていったような気がします。
 湯船にライトカオスを浮かべます。ライトカオスを中心に、乳白色の淀みがお湯の中に広がっていきます。それと同時に、薄汚れたライトカオスはその美しさを取り戻していきます。かすかに透けたしなやかな身体と、頭の上で燦然と輝く光。ぼうっと、見とれました。
 不意に、私の頭の中に鮮明なイメージが浮かび上がりました。あの阿蘇山の火口湖に、ライトカオスを突き落とす。それは考えれば考えるほど、素晴らしいアイディアのように思えました。エメラルドグリーンの火口湖からは、とどまることなく蒸気が噴出しています。その蒸気がライトカオスの白い肌を飲み込んでいきます。やがてぽしゃんと小さな水音がして、次の瞬間、ライトカオスは今までにない激しい光を発しながら、湖に溶けていくでしょう。ライトカオスとはいえ、所詮はただの生き物。本当に高い温度には無力です。
 ライトカオスを殺す。どうして今まで、こんな簡単なことに気付かなかったんでしょうか。それをやり遂げたあとのことを考えると、晴れ晴れとした気持ちになります。この家に残っている住人のうち、ヒツジさん、テンさん、牛たちはすでに他所へ行ってしまっています。あとはライトカオスと、私さえいなくなれば、全部すっきりするじゃないですか。

 やめてよ、優花。あなたの人生に、無駄なことなんて一つもない。ライトカオスはすでに優花の一部になっている。だから、それを殺すなんて絶対にダメ。
 私は風呂場の扉を開ける。浴槽の中の優花が目を見開く。彼女の戸惑いを気にせず、私も湯船に足を入れる。二人を抱えた海は、水かさがあふれ、床を一瞬で水浸しにする。水面の上に私と優花の髪の毛が垂れて、複雑に絡み合う。その黒い糸をすくい上げる。
 私のことを許さなくたっていい。永遠に呪い続けてくれたっていい。本音を言えば、私はずっと優花のことが羨ましかった。暖かい家庭も、可愛い顔も、彼氏みたいな男も、全部持ってた。でも、それを奪いたいとは思わなかった。一木が優花のことを口に出すたびに、ずっとそのままでいてほしいと思った。
 優花の脚。私の足元まで伸びている、きれいな脚だ。指先は彼女のくるぶしを伝って、ふくらはぎへ、それから太ももの側面を沿って、骨盤を越え、おへその周りを優しく撫でる。
 私たち、本当は一つになれたら良かったのに。こんなときに一番与えたい人にそれを与えることができない。

 ……私はライオンを憎んでなんかいません。ライオンにとっては、ずっと私のことが心残りだったんでしょう。一木と出会う度に、私の存在を思い出して、苦悩してきたのかもしれません。
 でも、私にとって、それはライトカオスだったんです。毎日、私が自分の部屋に帰ると、そこには決まってこの白い偶像がいました。いつまでも燃え続けるこの光を絶やさぬように、ずっと一木の帰りを待っていました。
 私は長い間、物語の中を生きていました。テンさんとヒツジさんが始めたこの牧場で、私は大切なことを教えられていたような気がします。巣のように共通して守るべきものがあるのなら、私たちは本物の家族のように繋がっていてもいい。テンさんは再婚することで、私に居場所を与えてくれました。
 だけど、私はそれだけじゃ満足できなくなりました。母の与えてくれた場所に住み着くのではなく、自分の居場所を自分で作りたくなりました。憧れ、と言い換えてもいいかもしれません。ライトカオスは、その象徴に過ぎないんです。
 でも、結局一木は別の人を選びました。この五年間、そんな予感がなかったと言ったら嘘になります。テンさんが死んで、牧場を守る人が誰もいなくなったことで、本当の意味で物語は終わりました。ライトカオスにとどめを刺したとき、私は夢から覚めて、ようやく現実の中を歩けるようになるんです。

 ……私たち、本当は違うライトカオスを見ていたのかもね。

 どういう意味?

 優花は誤解している。ライトカオスを表す言葉は一つじゃない。このチャオは鏡のように私たちの見たいものを写し出す。私はそこに永遠の愛を求めていた。だから、あの時の私はそれがあると信じることができた。
 さすがに今はもうそんなものないって分かってる。だけど、優花のライトカオスには、確かにその片鱗はあったんだ。それは私にとって、心の底から信じられる一つの真実だった。優花が見せてくれた光に、私は手を伸ばし続けることができた。
 だから、ライトカオスの光は、純粋に優花自身の内側から出た輝きなんだよ。優花はなにも諦めないでよ。自分のやりたいこと、全部やったっていいんだよ。ライトカオスを育てたとき、きっと強い意志が優花の中にあったはず。それを自分の憧れだなんて、簡単な言葉で片付けないでよ。

 わかりません。あのとき私がどんな気持ちだったかなんて、とっくの昔に忘れてしまいました。一度切れてしまった糸がもう元には戻らないように、私はこの先ライトカオスを二度と育てられないでしょう。
 だからいっそ、殺してしまった方がいいんです。ライトカオスというものに、なんの価値もないんです。もちろん、高校生の頃の私は、これ以上美しい生き物はこの世にいないと思っていました。だけど、大人になった今は、それがすべてじゃないことを知っています。蜻蛉さんも、佐々木君も、ライトカオスを諦めてなお幸せそうに暮らしています。むしろライトカオスを諦めたからこそ、幸せになれたのかもしれません。
 私だってそうです。この五年間は、私にとって、いろいろなものを諦めるのに十分な時間でした。
 私はお風呂に浮かんだライトカオスに目をやりました。薄く透けた肌が水面と混じり合って、独特な光沢を描き出しています。本当に、罪深いまでに美しい存在です。このチャオを殺したとき、私の未練もきっと死んでくれるはずです。

 私は優花にライトカオスを殺させるわけにはいかなかった。ライトカオスは優花の子。それは彼女にとって、最も大切なものだった。だからライトカオスの両脇を抱えて立ち上がった。派手な水しぶきが立って、水面に映った白い鏡像がかき消される。後ろを振り返らず風呂場を出る。

 お風呂場の電気が急に消えて、私の視界は奪われます。ライオンも、ライトカオスも、どこかずいぶん遠い所に行ってしまったみたいです。
 波は次第に弱くなります。湯船の壁で反射され、私の体でもみ消され、やがて凪のように静かな水面になります。
 私のたった一つの望みは、ついさっきまでライトカオスを殺すことでした。それを取り上げられた今、私は自分自身のために、何をしたらいいのでしょうか? どこを目指せばいいのでしょうか? よくわからなくなってしまいました。
 もし仮に、ライトカオスを殺せたとしても、私は同じ疑問に辿り着いていたのでしょう。現実はフィクションと違って、ちゃんとした結末があるわけじゃない。最初は両親をなぞるように始まった物語も、どこか違う波紋を残しながら、私たちの関係を揺らしていきます。
 だから、私はもう一度立ち上がります。肌の上を水が滴り落ちていきます。一歩ずつ、重力を感じながら、力強く足を踏み出します。母なる海を抜け出したら、そこには今までとは違う大地が広がっています。
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13. 私の大切な人
 莉音 WEB  - 18/12/23(日) 0:10 -
  
 ヒツジさんは私の隣を見て、かすかな笑みを浮かべた。そこには私の母が立っていて、小さく会釈を返した。
 初めての顔合わせが病院で行われることになるなんて思いもよらなかったから、私たちはなんの準備もしていなかった。私はグレーのカットソー、一木は意味不明な英字のTシャツを着ている。唯一アザミ模様のワンピースを着た優花だけが、まともな格好をしているように見えた。
「この度はご愁傷様でした」
「こっちこそ、なんも用意できとらんくて、すまんな」
 二人はお互いの仕事や出身のことを話し始めた。別に両家の間に貴賤はないはずだ。シングルマザーで育てられた私と、今回の地震で多くのものを失い、結果的に片親になってしまった一木。私の目には、ほとんど同じような境遇に見えた。しかし、年配者からは、時折思いがけない理由で婚約を断られることもあると聞く。私は背筋をぴんと伸ばした。
「それでは、娘をよろしくお願いします」
 私の母が頭を下げた。私たちの視線は一木へと集中した。
「はい。一生大切にします」
 いざ口に出されると、急に照れくさくなる。二人きりのときは何度も耳にしてきたのに、人前で口にされるのは初めてかもしれない。私は嬉しさが顔に出すぎないように唇を噛んだ。
「ところで、わら、葬儀はどぎゃんすっと?」
 ヒツジさんは優花と一木を見比べた。
「どっちかが喪主をせなんばい。やらんかった方が、俺の車椅子をば押して歩け。院長先生の許可は取っとる」
 淡々とした口調だった。
 一木は優花を一瞥したが、優花は首を横に振った。
「私、たぶん泣いちゃうから」
「わかった」
 そうして一木が喪主をやることになった。これが、私たちが家族として行う最初の儀式となった。

 家に帰ってから、あらためてそのことについて話し合った。一木には荷の重い役割だったはずだ。テンさんが生前親しかった人が誰かなんて、想像でしかわからない。優花と一緒に訃報を送るべき人のリストを作った。一木は順番に電話をかけた。私はインターネットを見ながら、葬儀場、火葬場、クレジットカード会社、保険会社などに連絡を送った。

 通夜にはたくさんの人が参列した。初めて顔を見る親族や、近所の人たち、パート先の人たち、牧場の関係者が次々にやってきて、私の顔を興味深そうに観察した。誰も大きな声では喋らないけれど、本当はみんな私が誰なのか気にしている。私が桐山家にとって、何者なのか。
 葬儀会社の呼んだ僧侶によって、通夜は滞りなく進行した。焼香が一巡して、私たちはいよいよテンさんに別れを告げなければならなくなった。棺の蓋を閉める前に、一本だけ花を添えることを勧められた。一木も、優花も、私もスズランの花を棺に入れた。
 今、この人が生きていれば、きっと何の抵抗もなく知り合いと話し始めて、私のことも紹介してくれるのだろう。失って初めて、私はテンさんに支えられていたことに気付く。僧侶が棺の蓋を閉める。これからは、私は自分の問題を自分で解決しなければならないのだ。

「えー、みなさん、松風典子の葬儀にご参列頂きありがとうございます」
 一木は粛々と挨拶し始めた。
「遺族を代表致しまして、桐山一木が皆様に一言あいさつを申し上げます。母は生前まで至って元気で、こんなタイミングで亡くなるなんて――」
 一木は言いよどんだ。自分でも声が出なくて驚いたというような顔をしている。私の心配をよそに、一木は咳払いして、もう一度口を開いた。
「私にとっても、テンさん……あえてこの名前呼びますが、あの人は実の母親のような存在でした。生前、俺たちはある報告をテンさんに伝えようとして、それを伝えられぬまま今に至っています。……莉音、ちょっと来んか」
 一木に呼ばれて、私は遺族の前に立った。たくさんの目が一斉にこちらを向いた。大丈夫、二人で考えたとおりに喋ればいい。はち切れそうな心臓を必死に押さえ込む。
「はじめまして。小川莉音です。桐山一木の婚約者にあたります」
 思い切り息を吸い込む。
「生前、私も桐山家にお邪魔して、テンさんにも何度かお会いしています。まだ魂がこの世にあるのなら、ぜひ、婚約の報告を聞いて欲しいと思ってこの場所に立ちました。このような場をお借りして申し訳ありません。でも、ほんの数回しか会ってないにもかかわらず、私にとってテンさんは大切な、うまく言えませんが、私はあの家で、本当に大きな暖かさを感じたのです。遺族の皆様の中にも、同じ気持ちを持っている方が少なからずいると思います」
 参列者の顔を一人ずつ見る。その中に父、蜻蛉を見つける。彼に私の存在は届いたのだろうか。少しでも私の幸せを願ってくれただろうか。
「桐山家、松風家は二つで一つの家です。そこに私、莉音も加わります。今後とも皆様のご支援をよろしくお願い致します」
 参列者のうちの何人かが、静かにうなずいてくれる。全然関係ないことを語ってしまった。必要な段取りをすべてすっ飛ばしている気がする。本当にこれでよかったのだろうか。
 高速道路を降りて初めて見える景色がある。それは世界を再認識するためのプロセスだ。決まりきったやり方に代わって、本当に私たちがやるべきことはなにか、この大地は難しい問いを投げかけてくる。
 私たちは、二人で前に進み続けようとしている。その意志をみんなに示した。今日の所はそれで十分だ。
 しかし、実際にはまだ、これで終わりではなかった。ここ数日、ずっと考え続けていたもう一つの問題。どうやって優花の気持ちに応えるのか、その方法を私はついに見つけた。答えはあまりにも簡単だったが、解くべき人は私ではなかった。

 ヒツジさん一家は病院に戻ることを選んだので、翌日まで葬儀場に残ったのは私たちだけとなった。私たちは一木の車に乗って、近くの火葬場に移動した。
 棺が炉に入れられたら、もうなにもやることはない。私たちは控え室で、ぼんやりと遺体が焼かれるのを待った。
「ねえ」
 私は一木の手を握る。あの問題の答えを、どうしても彼に伝える必要があった。本当に優花が望んでいることをやるためには、私の意志だけでは足りない。一木の言葉が必要だった。
「私たちも、阿蘇に残ろうよ」
 ……それが優花の望みだった。正しい選択ではないと思う。でも、たとえそうだとしても、私は優花に報いてあげたかった。ずっとこの家を守ってきた、彼女への報いを。
 一木は首を横に振った。
「こぎゃんことは、気分で決めたらいけん。俺たちは市内で暮らすしかなか。職場も、アパートも、みんな向こうにある」
「でも、今阿蘇を離れたら、私たちは優花の恩に仇で返すことになる。それでもいいの?」
「……優花は不幸になるわけじゃなか。ただ、今までとはちょっと違う暮らしになるだけたい」
 一木の声色には迷いが感じられた。
「一木はそれで満足なの?」
「もちろん、牧場をば残せるならそうしたかったとよ」
 一木の手が強く私の手を握り返した。私の手の甲に爪が食い込んだ。
「そばってん、俺は優花のことを信じとるけん、こぎゃんことができるんかもしれん」
 壁にもたれた優花に目をやる。
「あいつのことなら、俺の方がよお知っとる。優花は、思ってるよりずっと強か」
 昔見た優花の写真が蘇る。一木の視点で撮られた少女の姿が、控え室の彼女と重なる。優花の抱えた卵から、ライトカオスが産まれ、そして今にも飛び立とうとしている。
「牧場があいつを育てた。だけん、大丈夫ばい」
 それが彼の答えだった。

 いつの間にか、窓の外では雨が降り始めていた。それはやがて優しさのない鋭い線となって、山間の景色を切り裂いた。火葬場から遺骨を受け取ったけれど、とても墓まで持っていくのは無理だった。
 車が火葬場を出発した直後、一瞬あたりがぴかっと光った。雷鳴が間近に轟いた。それを契機に、バケツをひっくり返したかのような雨が降り注いだ。無数の雨粒が窓に当たって弾ける。ワイパーをいくら動かしても、前を見ることさえままならない。私たちの車は水を切って進んだ。
 桐山家の前で車を停めて、急いで玄関まで走った。タオルで髪や服を拭いて、ようやく落ち着くことができた。
 テレビを点けると、ニュースでも大雨のことばかり報道していた。地震で受けた傷口をえぐるみたいに、雨がありとあらゆる被災地を襲っていた。

 ライトカオス。食料庫の奥から白い塊を取り出す。ここ数日、ずっとこの場所に放置されていたそれは干からびて、鰹節のように固くなっていた。
 白い肌や青い瞳、その痕跡はある程度判別できるが、神々しいまでの美しさは感じられない。頭頂部の光はいつの間にか消えていて、生きているか死んでいるかもわからなかった。
 私は優花に、ライトカオスを殺させたくなかった。だから、ライトカオスを乾燥させれば、無限に生き長らえることができる、それを信じてこの形にしたけれど、なにかが間違っていた。優花の望んだ幸せは、きっとこんな乾いた塊じゃない。

 私はテレビの電源を切った。雨音が私と一木を支配した。
「一木、会社を辞めよう」
 彼が怪訝な顔で振り返る。
「これが最後のチャンスだよ。一木、今、会社を辞めるんだ」
「辞めてどぎゃんすると?」
「決まってんだろ」
 私はライトカオスを机の上に叩きつけた。ゴツンと固い音がして、白い塊はうつろに揺れた。
「優花は私に、ライトカオスを殺したいと言った。だけど、私は本当はそんなことさせたくない。一木だって、ライトカオスがなんなのかくらい、わかってるんでしょ?」
 優花の愛情はあまりにも大きかったので、一匹のチャオではそれを写し取るのに小さすぎたのだ。

 私はライトカオスを抱えて外に出た。
 大粒の雨が、殴るように大地を降り荒ぶ。激しい風に煽られた牧草が、波のようにうねっている。分厚い雲を透かして、ほのかな日光が雲の淵に漏れ出している。牧草の緑はライトカオスの両目と溶け合って、白い家は肌の中へと吸い込まれていった。私たちの家はライトカオスの内側にあった。
 私は一木の額に手を伸ばす。
「私たちはずっと、逃げていたような気がする。本当の意味で結ばれるっていうのは、なんなのか。それは私と一木だけの関係じゃない。優花も、ヒツジさんも、私たち家族に関わったみんなを幸せにしたい。そのために私は一木を選んだんだ」
「俺に牧場を継げと?」
 一木はうろたえた。
「今んなっては、なんもない家たい。テンさんは死に、ヒツジさんも酪農を続けられん。牛舎は壊れとって、修理せんと満足に使えん。そぎゃん家……」
「だけど、優花が守ろうとした家」
「俺にとっては、お前が一番大事とよ。俺がこの家を継いだら、たくさんの負債をかかえた状態から出発することになる。お前はそっでもよか? ほんとにそっで幸せなんか?」
「ライトカオスがいれば」
 私は一木にライトカオスを抱かせる。
「こいつを殺すこと、それが優花の望みだった」
 一木の中で、ライトカオスはどのように見えているのだろうか。濁ったブルーの両椀が揺れ動いて、二棟の家へと姿を変える。桐山家と松風家。私たちはその存在から顔を背けていた。ずっと長い間。
「優花の願った永遠の命、だけど、本当は永遠なんてない。私たちが望んでそうしようとしない限り、ライトカオスは生き長らえない」
 白い肌にそっと指先を沿わす。その輪郭は今にも消えてしまいそうなくらい滲んで、かすれていた。靄が地面を這うように流れた。
「でも、それを優花にやらせちゃいけない。やるのは私と、一木だよ」
 私の右手の甲に、彼の汗がじわりと染みこんだ。私は不思議と落ち着いていた。
「お前が大黒柱になるんだ、一木」
 強い風が吹いて、私たちの服がはためく。ライトカオスの前では、私たちは風雨に踊らされる一枚の子葉なのかもしれない。それでも構わない。一木の右手が私の背中をがっしりと掴んだ。
「すまんかった」
 そのセリフは誰に言ったのだろうか。

 いつの間にか家から優花も出てきていた。優花は、今まで見たこともないような、満面の笑みを浮かべていた。好奇心と驚きが入り混じった、本物の笑顔だった。
「テンさんは自分で自分の幸せの形を決めた。だから、その娘である私もライトカオスがなんなのか、自分で決めないといけなかった」
 優花が私たちの方に歩み寄る。激しい雨が彼女の全身を濡らす。その手がライトカオスに触れる。少しずつ、乾いた物体に水が染みこんでゆく。
「私、決めたよ。阿蘇を出て、一人で暮らしてみる」
「どうして! これからはみんなで暮らしたらいいじゃない!」
 私は叫んだ。優花を諦めたくない、その一心で一木をここまで説得したのに、どうしてさよならを告げられるのか、理解できなかった。
「私はね、新婚さんと一緒に暮らせるほどお人好しじゃないんだよ」
 優花は雨に濡れながら、嬉しそうにくるりとひるがえった。よく見ると、大きなボストンバッグを肩に掛けている。私たちに背を向ける。
「ちょうど良い機会だから、いったん家を出てみるよ。私、本当はずっと、阿蘇の外に興味あったんだ」
 言い残して、牧場の斜面を下っていく。靄がみるみるうちに彼女の姿を隠していく。私は優花を追いかけようとしたが、できなかった。

 私たちの腕の中で、ライトカオスがじっとりと重さを増していた。美しい白と青の生命が、再び産まれようとしていた。愛ではないなにかが私たちを足止めさせていた。
 そうだった。ちょっと前までは、私たちも優花と同じだった。阿蘇から離れて、市内で暮らすことしか考えていなかった。こんな田舎に住み続ける理由なんて、本当は最初からなかったのだ。彼女は家を守りながら、たった一人でこの重みを感じていた。その地平に私も今更立つ。
 優花はいつか、この場所に戻ってくるのだろうか。わからない。空っぽになった松風家の前で、彼女の残した唯一の生き物を抱きながら、私たちは永遠に待ち続ける。いや、永遠なんてない。その事実を私たちは何度も確認した。それなのに、なぜだろう、この生き物はいつだって私たちを狂わせる。
 ライトカオスの頭上に再び光が灯る。私と一木、それぞれの手が小さな命を支えている。白い身体から小さな光の粒が飛び散って、万緑の大地へと吸い込まれていった。
引用なし
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