●週刊チャオ サークル掲示板
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元編集長からの挑戦状 ホップスター 13/12/23(月) 12:00

ヘルメタル・クラッシュ ダーク 14/10/25(土) 17:17
一話 雨なんていつだって降っているものさ ダーク 14/12/2(火) 0:36
二話 だから僕はホップになって ダーク 14/12/2(火) 0:38
三話 これが幸せ ダーク 14/12/2(火) 21:16

ヘルメタル・クラッシュ
 ダーク  - 14/10/25(土) 17:17 -
  
随時更新していきます。
引用なし
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一話 雨なんていつだって降っているものさ
 ダーク  - 14/12/2(火) 0:36 -
  
「何をしているの?」
 ミスターがいつものように僕に尋ねる。僕もいつものように、何もしていないよ、と返す。
「そっか」
 先生が黒板に書いていく文字をノートに書き写さなくてはいけないのだけど、そういう気分にはなれない。机に突っ伏して、机の木の匂いを感じながらミスターの声を聞いているだけだ。そういう意味では何かをしていると言えるのかもしれないけど、ミスターが言う「何かをする」にはいつも「自発的に」と言うニュアンスが含まれているため、僕は何もしていないと答えるのだ。
 僕は森を想像した。どのような森なのか、僕はその森のことについてはまったく知らない。僕はその森の中にいて、机と同じ匂いのする木々に囲まれている。机と同じ匂いのする木なんて変な気もするけど、この机はこの木からできていて昔から同じ匂いを放っていると設定してしまう。辺りには机と同じ匂いが充満していて、それは木から発せられている匂いだ。そして深い森だ。見上げると薄い青の空があって、森とその中にいる僕に嘘くさい光を浴びせ続けている。僕はその嘘くさい光を浴びた森の中を歩く。道という道もないが、邪魔な雑草があるわけでもなく、歩きにくさは感じない。ただ木々の間をくぐり抜けるだけだ。
「森を歩くなんて、中学の頃に富士の樹海に遠足しに行ったとき以来じゃない?」
 ミスターは僕の考えていることがわかる。本当は机に突っ伏して、夏目漱石の「こころ」を読む先生の声を聞こえない振りしていることも、机の匂いを感じながら僕が森の中で歩く想像をしていることもわかっている。森の中の僕の隣にミスターが現れる。ミスターは長いとも短いとも言えない真っ直ぐで清潔な髪をしていて、整った顔立ちをしている。でも印象は薄くて、無個性とも言える顔だ。
「君は何を求めているんだ。こんなに苦労のない森なんてなかなかないよ。君の前にある木を倒してみたらどう?」
 ミスターが前方にある木に手をかざすとその木は倒れた。ミスターは魔法を使うようなこともできる。木は僕の行く手を塞ぐように横たわっている。しかし、大きな木ではない。僕はその木を跨いで先に進む。ミスターも僕に続いて木を跨ぎ、ついてくる。
「この程度の木なら君でもそうするよね。じゃあ、雨を降らせよう」
 雨が降ってきた。木々の間を歩くと雨が僕を強く打った。冷たく勢いのある、リアルな雨だ。雑草の生えていない土はすぐに水溜りを作り、ぬかるみ、泥を放った。僕は急に歩くのが億劫になってしまい、木の根元に座った。
「木の下でも、枝葉の隙間をくぐり抜けた水が君を打ち続けるよ」
 雨の欠片が僕を打つ。でも一度座ってしまうともう立ち上がれなかった。足に溜まった乳酸が急に僕の意識を支配する。歩き出して不快な思いをするよりも、このまま雨が止むのを待って、足を回復させてからでもいいだろうと思った。
「雨は止まないよ。あの嘘くさい青空を見ただろ? 雨なんていつだって降っているものさ。それに足だって回復しない。今君が感じているのは君の足そのものの重さに過ぎない」
 それでも僕は構わなかった。小さい頃のような雨の中をはしゃぎまわれる元気はもう忘れてしまった。このまま歳をとって寿命を迎えるような気もするし、ここで雨に打たれながら少しずつ死んでいくのも悪くはない。
「でも君はどこか不満なんだ。森の新しい一面に興味はないけど、森の新しい一面を知った自分になってみたい。脇道の先に興味はないけど、いくつもの脇道に迷った自分になってみたい。そう思って雨が降る木々の間を眺め続けるんだ」
 そうなんだろうな、と僕は思った。もうこの先を考えるのはやめよう。もし先にいる自分を本当に知りたいのなら、こんな想像をするよりも現実の中を動いた方がいい。でも、僕はきっと動かないだろうなと思った。
 僕は諦めて顔を上げ、黒板の文字をノートに写し始めた。僕の息が机に水たまりのような水滴を作っていた。


 帰りのホームルームはチャイムが鳴るよりも少し早く終わり、生徒たちは散り散りになっていった。一様にみんなマフラーを首に巻き始める。ほとんどの生徒が部活動に向かい、他の生徒はそのまま帰るか、教室に残って友人たちと駄弁るかのどちらかである。僕はそのまま帰る生徒の一人だった。どの部活動にも所属していないし、放課後の時間を割いてまで話す友人もいない。でも、嫌われているわけでも、話し相手がいないわけでもない。ただ学校において目立たない立場にいるだけなのだ。
 部活動に向かう人たちの楽しそうな表情を横目に僕は教室を出る。彼らは鬱陶しくも羨ましくもある。彼らが幸せに満ち溢れているからではない。彼らは部活動をすることによって大きな喜びを得るが、またそれと同時に様々な困難も乗り越えなくてはならないだろう。だが彼らはその喜びにも困難にも無邪気に立ち向かっていける。そうして彼らは変化を手に入れるのだ。その無邪気さが、無関心から来る怠慢を患っている僕を心苦しくさせるのであった。そのことで僕は一つ思い知ったことがある。楽しみ、苦しみながら得る変化と同じように、楽しむ、苦しむということもまた難しく、試練であるのだ。
 教室に残って駄弁る人はあまり気にならなかった。彼らには彼らの世界があって、僕が干渉する余地はないし、お互いに興味がなさ過ぎる。僕は友人と話すときに相槌を打っているだけということが多い。好きな音楽や好きなゲームはあるけど、趣味と呼べるくらいのものは持っていないので、友人と趣味について話すこともない。だから部活にもわざわざ入部して気まずい空気の中を過ごしたくないし、そもそもどの部活にも魅力を感じなかった。勘違いされそうだが、僕は無関心を気取っているわけではない。僕はどこに向かって歩けば満足できるのだろう。
 何かをしようと思ったこともあった。でもその何かを考えるのも面倒だった。具体的に行動するなんてもってのほかだった。そこまでして何かを得ることに価値があるのかと考えるといつも、そうでもないかもしれない、という結論に至る。確かに人生には幅があった方がベターだと感じることも事実だが、現状にこれといった不満はないし、無理をする必要はない。木の下で雨の欠片を受けながら眠るのもいい。ただ僕を取り巻く空気の中には「何もしない奴はクズだ」と言うような脅迫的な色が含まれていて、その色は僕が世界に対して持っている小さな期待を煽り、世界を見る目を惑わすのだ。
 しかし結局僕は部活動に入ることもなく、放課後の教室に残ることもなく、家に向かうのだった。教室の中はストーブがあるから言うほど寒くもないが、廊下に出てからはずっと寒い。僕は厚い手袋をしているのだが、下駄箱で靴を履き替えるときに一度外さなくてはいけなくて、その一瞬だけでも手が外の冷気にさらされるのが嫌だ。一度手が冷えると、手袋をしても冷えっ放しになる。校舎の外に出て、太陽の光を浴びても何も変わらない。夏はあんなにじりじりと暑い気を放っているのに、冬になった途端に冷たい空気の味方のように振舞うのはなんでだろう。
 学校から歩いて三分のところにある駅に行って、電車で隣の駅に行って、またそこから五分歩く。それだけで家に着く。家に着いてリュックを降ろすと、一日分の重荷を降ろしたような気になる。
 すると母親が僕を呼び、
「悪いんだけど、CD返してきてくれる?」と言った。
 レンタルCDの返却期限が今日であるらしく、母は夕飯の準備があるから僕に返してきて欲しいそうだ。まだ僕は玄関にいて、靴も履き替えていないのでそのまま行くのが効率がいいのだろうけど、家に着いたら部屋に入って一度温まりたい。でも母にすぐにCDを手渡されてしまったので、釈然としないまま僕はまた家を出たのだった。また重荷を背負い直したようであまり良い気分ではなかった。それに僕が住む町にあるCDショップではなく、電車で五駅離れた少し大きな市のCDショップで借りたものだった。
 電車に乗ってから僕は後悔した。CDを返すだけなのに、駅まで歩いて十数分電車でボーっとして駅を降りたらまた歩いて、CDを返したらまた行きと同じようなことをする。労力と結果が全然釣り合っていないような気がして、収まりが悪い気分になった。でも電車に乗ってしまったからには、まだCDを返した方が結果が残るということもあって、引き返さずにちゃんとCDを返すことができた。CDショップはデパートの中にあるのだが、さすがにデパートの中は暖かかった。マフラーと手袋を外したはいいけれど、それを入れるものがなくて結局手で持って歩いた。なんだか損ばかりしているような気がして収まりが悪かったので他のところにも寄ってみることにした。
 僕は地下一階に注目した。そこにはチャオのための施設、チャオガーデンがある。チャオというペットはなかなかに人気がある。その生態はわからないことだらけであり、まず動物に触れるだけでその動物の影響を何かしら受ける。例えばオウムであれば、オウムのようなトサカが生え始め、人間の言葉を真似て喋ると言った行動を起こす。トカゲであれば、切っても切っても生えてくる尻尾がつき、地面を素早く這う。こうして特徴をまとめると化物のようだが、見た目は愛くるしい。体長四十センチほどで二頭身、二足歩行(赤ちゃんの頃はハイハイをする)で水滴のような輪郭にポヨポヨとした触感。色は様々で、育て方によって姿形を大きく変える。虫で言うところの幼虫が成虫になるように、進化の概念も持っている。コドモのときに何をしたかによって、進化後の姿が変わるらしい。不思議な生き物だ。
 チャオガーデンは売り物のチャオたちが遊んでいる場所でもあり、飼われているチャオが預けられている場所でもある。飼われているチャオには特別なバッジがつけられ、売り物のチャオや他の飼われているチャオたちと区別される。僕の目当ては、売り物のチャオだ。もしかしたら、一生のパートナーと出会うことになる可能性だってあるのだ。僕は宝くじを買うような気分でエレベーターへと向かった。
 エレベーターには誰もいなかった。B1のボタンだけが光り、一人地の下へと向かっていく。そう考えると不思議だ。地の下へ行ってしまったら、一体どこに着地すると言うのか。そこは空の中のようにふわふわと浮かんでいられる場所なのか。まるで天の国だ。下るエレベーターの浮遊感によって、空を飛ぶための準備をしているみたいだ。それとも、その逆の地獄だろうか。地の下というと地獄の方がイメージに合う気がする。僕は地獄へ向かっているのか。一階で黒いコートにジーンズパンツを履いた中年の女性が乗ってきた。底の方が深い青で、口の方が白いシンプルなトートバッグを持っている。異様なくらいに何も入っていないように見えた。買い物をしたと言う様子でもなかった。その様子だけ見れば不思議だが、考えればすぐに答えがわかることでもあった。一階から下るエレベーターに乗ったということは、この人もまたチャオガーデンに行こうとしているのだ。きっとトートバッグは預けていたチャオを入れるためのものだ。
 地下一階へ着いて、エレベーターの開くボタンを押して中年の女性に先に出るよう目で促す。中年の女性は、ありがとうございます、と微笑みを見せてエレベーターを出た。彼女にとってこれは自然や常識、あるいはしっくり来る流れなのかもしれない。僕もまたそんな人の笑顔を見るとどこか安心するけど、自分は相手のために笑顔を作ることができない。当たり前のようで不思議な、人間の違いを考えさせられる。僕はチャオを愛するのだろうか。
 そんなことを思いながら僕はこの部屋に目を奪われていた。エレベーターを出ると右手側に細長く伸びた休憩所のようになっていて、そこには窓をのぞく一人の若い女性と、左手側にある受付にまた若い女性がいた。中年の女性は丁度チャオガーデンに入って行くところだった。正面にあるチャオガーデンと繋がる扉が閉まる。一瞬見えたチャオガーデンには芝生が見えたがチャオは見えなかった。扉の右側にチャオガーデンを覗ける窓が三つ。そこを覗けばチャオが見られる。僕は緊張している。この部屋は不思議な空間だ。何よりも白い。まるで現実と夢の間にある空白のようだった。僕は現実から覚めるかもしれない。
「いらっしゃいませ」
 受付の女性が喋ったのを機に僕は、
「中を見たいだけなんですけど、チャオガーデンに入っていいですか」と聞いた。
「いいですよ」と当然返される。入っていいということはわかっているのだけど、その手順がないとしっくり来ないように感じられたのだ。ああ、するとこれは笑顔を見せるという行為に似ているのかもしれない。笑顔は見せないけど、店員には確認する。僕は一貫性がない人間なのだろう。僕には何が起こってもおかしくない。
「ありがとうございます」
 扉の向こうにはチャオガーデンがあった。噴水、溜池、人工芝、博物館にありそうな岩場、カフェに置いてあるものをそのまま小さくしたようなパラソルとテーブルと椅子、小さなテレビ、空をイメージして書かれた壁紙、その上の方に僅かに見える空調、空の中に大きな雨雲、様々な色や形をした、でも大体同じ感じのチャオ。実際、足を踏み入れてみるとそこは現実だった。外と同じように空気があって、水があって、僕の体があった。夢は夢でなければ価値がないのだろう。
 唯一、チャオの頭の上に浮かぶ球体と、先ほどエレベーターに乗っていた女性がチャオを撫でたときにその球体がハートマークになったところだけが現実離れしていた。
 もう一度周りを見渡すと、嘘くさい青空の壁に描かれた雨雲のところに扉があることに気がついた。
「雨なんていつだって降っているものさ」
 とミスターが言う。
「空と言われて青空しか想像できない人は馬鹿だ。でもそんな間抜けさに君はどこか憧れている。雨なんか見ずに森の先へ行って、何かを得たい。君は雨雲を見なかったことにする? それとも雨雲の中を見て夢見ることを諦める?」
 そんなことを言われなくても、僕は空に雨雲がかかることを知っている。今更、見るも見ないも変わらない。今日はここに来ただけでお腹いっぱいだ。もう夜と言える時間になってきた。帰るという選択が一番自然に感じられた。そして僕はチャオガーデンから出て行った。


 その日、僕はベッドの中でまたチャオガーデンにいた。岩場の上に座っていた。岩場の傍にはミスターが立っていて、三つの窓の内の一つに若い女の顔が見えている。でもどんな顔をしているのかは全くわからない。僕は彼女の後ろ姿しか見ていないのだ。茶色のセミロングの髪と、ベージュのセーターに赤っぽいスカートだったと思う。あと紺のトレンチコートを手に持っていた。僕が持っている彼女に関する情報はそれだけだ。きっと彼女もチャオを飼おうとしていたか、あるいは既に飼っていてチャオガーデンに預けていたのだろう。どのチャオが彼女のチャオなのだろう。そのチャオと僕が仲良くなれば、僕も彼女と話せるのだろうか。
 そこまで考えて、僕は自分が女性と関わりたがっていることに気づいてショックを受けた。僕はそんな俗な発想の持ち主だったのか。夜はどうも思考が制御できない。だからこそ、こんな発想が出てきたことに嫌悪を覚えた。勢いに任せて窓にシャッターを閉じる。そして、僕は自分が俗な発想を嫌っていることに気づいた。人と違うスタイルでありたいのだ。それでありながら、周りの人間を羨ましがるのだから――こういってしまうのは嫌だけど――悩んでいるのだ。でもそれがわかったところで、僕はどうしようもない。僕には足りないものが多すぎる。
「足りないものなんて誰だって持ってるよ。ないものねだりをしたってしょうがないだろう?」
 とミスターが言う。
「まったく、そうなんだけどね。でも、自覚してねだっているわけでもないんだ。僕にはどうしようもない」
「気の毒だね。まあ楽しめればいいんじゃないか?」
「後から思い返して、楽しかったかもと思うことはあるかもしれないけど、実際その中にいるとそうは思えないもんだよ」
「そっか」
 周りのチャオ達を見渡す。どんなチャオ達がいたのか明確には思い出せないので、思い出せる形と色を適当に組み合わせて補完すると、それっぽくなった。不思議なことに、ガーデン自体はかなり細かいところまで思い出せるのだ。空調の位置、噴水の形、溜池の輪郭、空の色、そして雨雲の扉。あの扉の向こうには何があるのだろう。そこには間違いなく空気があって、水があって、僕の体があるのだろう。でもそんな現実以外のものに、頭の上のハートマークに、僕はまだ期待しているみたいだ。
「そういえば、ミスターが昼に言ったことは少し間違ってるよ」
「なんて言ったっけ」
「空と言われて青空しか想像できない人は馬鹿だ。でもそんな間抜けさに君はどこか憧れている、って言った」
「ああ、言ったね。で、どこが間違ってる?」
「そんな間抜けさに君はどこか憧れている、ってところ。僕は馬鹿なんか嫌だ。晴れた森の中を進む人間よりも、雨の森の中を進む人間の方が憧れる」
 言ってから、僕は自分からとてつもなく離れた人間像について話しているんじゃないかと思って可笑しかった。
「あの扉の先に行かなくてよかったね」
「なんで?」
「こんな思いはできなかったから」
 そう言われると、恥ずかしかった。少し黙った後に、ああ、としか言えなかった。ああ、とも言わなければよかったと後悔する。
「まあ、まだ行かない方がいいよ。こんな想像の中で行ってしまったら、それこそつまらない」
「明日行くよ、もちろん実際にね」
 そこで初めてミスターが驚いた顔を見せた。
「君が積極的なことを言うなんて珍しい。でも多分いいことだよ、それって」
 僕は黙る。まだそれがいいこととは思い切れない。それに、僕が珍しい振る舞いを見せたことが恥ずかしかった。それがいいことだと言われたことも。
「何でミスターはいるの?」
 と言って僕は誤魔化した。でも、それはそれで恥ずかしかった。


 体育の時間はあまり好きじゃなかった。運動は得意じゃない。今の時期はバスケットボールをしているのだが、極力パスをされないように敵の傍にいて、うっかりパスが回ってきても、すぐに近くの味方にパスをする。そうしてとりあえず目立たなければやり過ごせる。教室で座っていようが体育館で動いていようが、この授業を受けている時の生々しさに夢の入る余地なんかなかった。もし僕がバスケットボールを得意に思っていたら違ったのかもしれないけど、現に僕はバスケットボールが苦手だ。そもそも、僕の手は白く細く、毛もほとんど生えていない。まるで女の手のようだ。親からは綺麗だと言われるけど、僕からして見れば「だから何だ」というものであった。こんな非力な手には、バスケットボールなんて出来そうになかった。やっぱり僕が人と違うスタイルを確立するには決定的に足りていないものがある。
 今日学校に向かうときには、帰りにまたデパートに寄ろう、と思っていたのだけど、授業を全て受け終わる頃にはすっかりその気は失せていた。なんと言っても今日は雨が降っていた。わざわざ雨の中を歩いてまで行って何になるんだろう。そんな気のまま、僕は家に帰ってきていた。自分の部屋に入ってベッドに腰掛けると、もう僕のすることはなかった。
「昨日の夜はあんなに張り切っていたのにね」とミスター。
「そんなに張り切っていたかな。どっちにしたって昨日の夜はどうかしてた」
「夜の方が素直なのかもしれないのに。後から思い返すとどうかしてたと思うけど、実際その中にいるとそうは思えない、のかな?」
「やめてくれよ」
「君に足りないものを教えてあげるよ。それは可能性っていう言葉だ。覚えておくといいよ」
 なんで僕はミスターに怒られているのだろう、なんて白々しいことを一瞬思って、僕は反省した。少なくとも、今僕にはしたいと思ったこと、するべきことが一つある。チャオガーデンの扉の向こうに行く。こんな具体的で簡単なことが僕の行動の指針になり得たことは今までにない。僕の能力でも十分にこなせる。このまま雨に打たれて少しずつ死んでいくのも悪くはない、なんて嘘だ。雨なんていつだって降っているもので、僕はその中に生きているんだ。なによりこのままでは僕は周りの人間の中の“何もしない奴”に分類されて人生を終える。この機に僕は僕を説得しなければいけないのだ。
 リュックを背負って、僕はまた制服のままデパートへと向かった。濡れた靴は気持ち悪く、十二月の雨は冷たかった。でもそういうものだろう。あまり濡れないようにと買った紺色の大きめの傘を持って、雨の中を歩いた。
 デパートに着くと、マフラーと手袋をリュックの中に入れた。傘は持ったままだが、これで昨日に比べて余裕を保てたような気がした。傘が大きくても、結局風に煽られた雨に当たって濡れた。ズボンの裾と靴は特に濡れた。外にいるときよりも、濡れた自分を強く感じる。でもそんなに気にはならないので、そのまままっすぐエレベーターに向かって下矢印のボタンを押す。今日はエレベーターに誰も乗っていなかった。自分だけの世界に向かうようで悪くない気分だった。
 エレベーターで地下に行き不思議な休憩所に入ると、受付の人しかいなかった。受付の人は昨日と同じ人だった。すぐに扉の向こうについて尋ねようと思っていたけど、いざその場に立つと緊張で受付に行くことはできなかった。エレベーターを出てすぐ左側に傘立てがあったので、傘を立てたら僕は逃げるように一番奥側にある窓の前に立ち、チャオガーデンの中を覗いた。昨日と同じ光景がある。ただ今日は人がいない。昨日のエレベーターで会った女性もそうかもしれないけど、会社や学校に行くときにチャオを預けて、帰宅時に引き取るという習慣を持っている人はいそうなものだ。この夕方頃に誰もいないというのは珍しいことなんじゃないだろうか。でも、よくチャオを見ると、バッジをつけているチャオが何匹かいる。これから何人かの人が立て続けに出入りするだろう。できれば、他の人がいない状態で行動したい。早くしなければ。
 あの雨雲の扉の向こうはなんなのだろう。スタッフルームという可能性もある。チャオの関連施設が続いている可能性もある。あの扉をくぐるときではなく、受付の女性と話した瞬間にそれはわかる。意中の女性に告白するというのもこんな気分なのかもしれない。僕は意を決して、受付の女性のところまで歩いた。受付の女性は僕が近づくのを待って、僕が目の前に来ると、
「いらっしゃいませ。どういったご要件でしょうか」
 と言って僕を迎えた。
「あの雨雲の扉の先って何があるんですか?」
 僕は言った。もう言ってしまったからには、僕は待つ以外のことは何もできない。意中の女性に告白する人から、注射を打たれる患者になった気分だ。待つと言うほどの時間もなく返事があった。
「あちらはダークガーデンとなっています。チャオの中でもダークチャオのために作られた施設です」
 ダークガーデン。僕の知らない単語が出てきたことに少し混乱したが、すぐにそれは僕にとってはプラスになる答えであったと気づいた。そうだ、知らない単語が出てきて欲しかったんだ。
「でも、売られているダークチャオは少ないですし、預けられているダークチャオもあまりいません。というのも、チャオを飼っている方はあまりダークチャオに育てたがらないのですよ。どちらかというと、ヒーローチャオの方が多いですね。あちらの方にヒーローガーデンもございます。ヒーローチャオのために作られた施設です」
 彼女が手を向けた先には、青空の壁があってよく見ると両開きの大きな扉があった。僕はなんで気がつかなかったのだろう。でも僕は青空の方には興味を持てなかった。どうせ綺麗で明るい施設なんだろう。そんな馬鹿の施設には興味がない。僕は雨雲の方を見た。
「入ってもいいですか?」
 と、僕はまた言っていた。少し恥ずかしくなる。受付の女性も昨日と立て続けに同じことを聞いて来た僕に気づいて、
「どうぞ」
 と、子供に優しさを教えるお姉さんの笑顔を見せた。また同じようにお礼を言ってガーデンに入るのはもっと恥ずかしいので、少し頭を下げてからガーデンに入った。そしてまっすぐダークガーデンの扉の前に向かった。
 僕は、足に濡れた生ぬるい靴下の感触を感じ、重い衣服が肌に触れているのを感じ、視界に映るものが等身大であることを感じ、自分の呼吸を感じている。扉のドアノブに手をかけたら、冷たかった。僕は確かに現実の中にいる。扉を開けた途端にすべてが満たされる夢の空間がある、なんてあるはずがない。ダークガーデンもこのガーデンと地続きのもので、中もまた同じように現実なのだろう。何も期待なんてできない。あのハートマークも、所詮はハートマークでしかない。でもそれでいいのだ。僕は現実の中を進むのだ。そこに何があろうが、晴れた空しか見ない人よりも、何もしない人よりも、僕は優れているのだ。
 僕は扉を開いた。


 ダークガーデンは不思議な奥行を持っていた。壁は暗い空に雲を敷き詰めたようなデザインだったが、おそらく壁であることを感じさせないために影を強く描いて本来影ができる場所を曖昧にしていた。多分、広さ自体はチャオガーデンとさほど変わらないのだろう。そして床には砂利が敷かれていた。砂利をどけると土が顔を見せた。一体どうなっているのだろう。
 枯れた木のオブジェや、墓や柵が置かれていた。枯れた木のオブジェの枝には、鳥の骨が入った鳥籠が吊るされていた。作り物なんだろうが、よくできている。
 チャオは受付の女性が言っていたように少なかった。人も誰もいなかった。五匹の黒いチャオだけがいた。その内の三匹は寝ていて、一匹は赤い木の実を食べていて、もう一匹は僕を見てきょとんとしていた。チャオガーデンにいたチャオよりも目つきが鋭く、チャオが持つ何も考えてなさそうなイメージとは違う印象を受けた。頭の上の球体が、ダークチャオの場合はトゲトゲになっていた。撫でるとその目つきのまま、頭の上にハートマークを浮かべた。そんな真面目な顔のままハートマークを浮かべられるとどきりとする。肌質はしっとりとしてそうに見えるが、ただ柔らかかった。ああなるほど、チャオの可愛らしさを理解した気がする。
 赤い池があった。チャオガーデンの溜池よりも広く、深かった。床から赤いライトで照らしているのかと思ったけど、ライトはなかったし、水をすくって見ても本当に赤かった。池は両側の壁に接していて、その部分だけはこの部屋の限界を見せていた。その池の向こう側にはまた砂利が敷いてある地面があって、そこには大きな墓と銀色のタマゴが置いてあった。あのタマゴはチャオのタマゴだ。タマゴをガーデンに置きっぱなしにして良いのだろうか。いや、良いのだから置いてあるのだろう。それとも、あれもオブジェなのだろうか。よくできた部屋にしては、異様に浮いた存在感を放っている。異物と言っても過言ではない。
 ダークガーデン、ここはいい。僕が漠然と思っていた現実よりも夢よりも、遥かに個性的で魅力がある。僕は近くにある墓の上に座ってみた。ようやく僕は一息をつく。両手で顔を覆って、落ち着こうと試みる。未だ緊張の余韻で震えてる体を自覚する。手の先まで血が巡っているのがわかる。じんじんとする。僕はこれからもこの場所をいいと思えるのだろうか。それとも、初体験の高揚がこの場所を無闇に彩っているのだろうか。今は夜ではないけど、そんなことは今の僕にはわからない。
 心地よい暗闇と沈黙の中、どれくらいの時間が経っただろうか。僕はいつも通りとはいかないまでも、だいぶ落ち着きを取り戻していた。手を膝の上に置いて立ち上がろうと目を開けると、目の前にダークチャオがいて僕を見上げていた。おぉ、と小さく声を出してしまう。いつからいたのかわからないが、さっき僕を見ていたダークチャオだ。胸に紫の三日月マークがあって、後ろに伸びた角の先も紫色のチャオ。胸にバッジがついている。僕と目が合うとまた頭の上にハートマークを浮かべ、僕の濡れたズボンの裾をぎゅっと掴んだ。どうやら懐かれたようだ。頭を撫でると、また頭の上にハートマークを浮かべた。こんなに純粋に喜んでくれるのなら、いくらでも撫でてやれそうだ。頬を指でつつくと、指先がチャオの肌に埋まった。チャオは僕の指を両手で掴み、ぐりぐりと頬を僕の手に押し当てた。こんなくだらない触れ合いが嬉しかった。
 でも、このチャオは誰かが飼っているチャオだ。こんなことをしていていいのだろうか。人が注いできた愛に土足で踏み込んでいるような気分だ。それでも僕は触れ合いをやめることができなかった。こんなに無邪気に愛を示されたことなんてなかった。その初めての愛を僕がどうして無下にしなければいけない。ここで僕が愛を示さなければ、ここに来た理由すらもなくなる。僕は真っ当なことをしているはずだ。
 気づくと腕時計の針は七時を指していた。母親には黙って家を出たので、心配しているだろう。これを機に帰らないと、僕はずっと帰るタイミングを見失ってしまいそうだったので、チャオに触れていた手を離した。チャオは頭の上にハテナマークを浮かべて首を傾げた。
「ありがとう。またね」
 このチャオが今日だけたまたまここに預けられた可能性は、多分そんなに高くないと思う。この施設は習慣的に利用する人が多いだろう。ここに通っていればまたこのチャオと会える可能性は高い。でも、二度と会えない可能性のことを思うと切なくて、またひとしきり頭を撫でてから、
「またね」
 ともう一度言って僕はダークガーデンを出た。ダークチャオはハートマークを浮かべていた。
 あのダークチャオは飼われているチャオだから、僕が飼うことはできない。他のチャオを見て、よさそうなチャオがいたら飼うことを考えてもいいかな、と思ってチャオガーデンのチャオを全部見たけど、あのダークチャオほどに可愛らしさを感じるチャオはいなかった。僕は諦めてガーデンを出て、休憩所に戻った。休憩所には昨日見た女性がまた窓を覗いていた。服装は緑のダッフルコートに暗い青のスカート、黒いタイツにロングブーツだった。綺麗な顔をしているけど、全然好みではなかった。一瞬こちらを見て、またすぐに窓の向こう側を見た。不安そうな表情をしていたのが印象的だったが、もしかしたら流行りの下がり眉であったからかもしれなかった。
 できるだけ早く帰りたいので、まっすぐエレベーターに向かおうと思ったが、ふと銀色のタマゴのことを思い出して受付の前で立ち止まった。受付の女性は僕を見て、
「どうかなさいましたか?」
 と笑顔で言った。言葉と表情が合っていなくて、これがこの人の仕事の顔なのかと思うとなんだか気持ち悪かった。僕がガーデンに入ったときのように、人間らしい顔をしてくれないとこっちまで人間として扱われていないような気になる。エレベーターの女性が笑顔でありがとうというように、僕がガーデンに入るときにいちいち確認するように、なぜか行われる手続きが起こると僕はどうも気になってしまう。だから、僕はあのダークチャオといたい。全部自然なあのやり取りの中に身を置きたい。いや、それだけじゃないけど、一つずつ挙げていくとキリがなさそうなので、ただそこにいたいのだと思うことにする。
「ダークガーデンにあるタマゴって売り物なんですか?」
「いいえ。あのタマゴはスタッフも知らない内に現れたんですよ。チャオが産んだのかと思いもしたんですが、チャオが銀色のタマゴを産むなんてことはありません。不審物としてスタッフの間で管理するような話もありましたけど、色以外は不審な点はありませんし、特に害もないことがわかったのでそのまま置いてあります。そう、しかもあのタマゴはまったく孵らないんですよ。叩いても割れない、待っても生まれない。もし何かタマゴを孵らせる方法が思いついたらお試し下さい。でも、タマゴの中のチャオを傷つけないように気をつけてくださいね。火であぶったりするのもダメですよ」
 この人はチャオが好きなんだろうなと思った。割とあっさり仕事の顔を脱ぎ捨てて、素顔を見せた。僕ももしかしたらあのダークチャオと接しているときはこんな顔をしているのかもしれない。僕は自分のそんな顔を、写真でも鏡でも見たことがない。写真や鏡は見えないものや真実を映し出すとか言うけど、そんなのは嘘だ。映るのはそこにあるものだけだ。僕は僕の目の前で素顔を見せたことがないのだ。
「でも、僕がいるときの君は素直だと思うよ」
 とミスターが言う。
「何でミスターはいるの、って僕に聞いたよね。それが答えだよ」
 ミスターは写真にも鏡にも映らない。でもミスターは僕にとって確実に存在しているのだ。真実って、そういうことだと思う。
 

 僕は次の日もチャオガーデンに行った。ふと見た傘立てに自分の傘が立っているのを見て、そうか、昨日置き忘れたのか、と気づいた。昨日の帰りには雨が止んでいた。だから外に出ても気づかずに帰っていってしまった。でも確か今日の夜はまた雨が降る予報だったので、丁度よかった。雨が降っていないと傘を持つという意識が起きないので、昨日の帰りも今日も傘のことを忘れていたのだ。折りたたみ傘を買わなきゃな、と思った。
 チャオガーデンに入るときには受付の女性に何も言えずに入れた。ようやく僕の習慣がスタートしたといった感じだ。ダークガーデンにあのダークチャオはいてくれた。僕を見ると、とてとてと早歩きで近づいてきて僕を見上げた。相変わらずの無表情で、頭の上に浮いているものはトゲトゲのままだ。近づいてきたでも僕は十分に嬉しいし可愛く思うのだけど、撫でるとそのトゲトゲがハートマークになるものだからもっと嬉しくなる。
 今日何をするか、もう決めてある。ダークチャオと一緒に銀色のタマゴを孵す。とりあえずは孵らなくてもいいが、ダークチャオと一緒に何かをしたい。僕はダークチャオを抱っこして、赤い池の前まで行って靴と靴下を脱いだ。そこで、ああ、足を拭くためのタオルを持って来ればよかった、と思ったが、どうせまた雨に濡れるかもしれないと思うと、抵抗なく赤い池に足を踏み入れられた。池は冷たすぎず、冬を感じさせなかった。チャオに快適な環境を維持しているのだろう。でもダークチャオを池に入れるのは抵抗があるので、抱っこしたまま銀色のタマゴのところに向かった。
 タマゴの目の前まで行くと、ダークガーデンを見渡したときに放っていた異様な存在感は薄れたが、タマゴそのものの異様さが際立った。まるでタマゴとしての存在を確立したかのように、まったく動く気配も、何かが生まれる気配もなかった。印象としては、かなり硬そうで、重そうだった。よくある、何かの呪いがかけられてまったく動かせない石、みたいなものを連想させた。でも、そんなものはあるはずがなく、きっと環境や気分が作用してそう見えているだけだろう。それでも、そこまで自覚していてもその印象は変わらなかった。
 タマゴの前にダークチャオを置き、その代わりにタマゴを持ち上げた。印象とは裏腹に、簡単に持ち上がった。ダークチャオが僕の持ったタマゴを見上げて、頭の上にハテナマークを浮かべている。ダークチャオにとっても、このタマゴはよくわからないものなのだろうか。試しにタマゴをダークチャオに手渡してみる。ダークチャオはタマゴを受け取るが、自分と同じくらいの大きさのものを持ち上げているので、重そうというより苦しそうだ。手も短いので、顔の前に掲げるようにして持っている。今ダークチャオの視界には銀色しかないだろう。そこからどうするのだろうと思って見ていると、ダークチャオはタマゴをぱっと落として、僕の足元に来た。一瞬、タマゴが落ちたことでひやりとしたが、まったく割れる様子はなかった。ダークチャオが僕のズボンの膝の辺りを握って、僕を見上げていた。抱きかかえてあげると、僕の顔を見たままハートマークを浮かべた。無表情が愛らしかった。この頭の上に浮かんでいるものはどうなっているのだろうと思って触ると、ダークチャオと同じように柔らかかった。チャオの体の一部みたいなものなのかもしれない。
 タマゴを孵すと言うと、僕には温めるという方法しか思いつかない。だから今日は、タマゴをずっと抱えながら過ごそうと思っている。実際にこのタマゴを目の前にしてみるとまったく孵る気がしないのだが、それでもやるしかないのでやってみる。それでダメなら、チャオのタマゴだからチャオの体温の方が孵すのに適当なような気もするので、ダークチャオにも温めてもらおうと思う。僕はとりあえずダークチャオをまた置いて、着ているダッフルコートの内側にタマゴを入れて墓の前に足を伸ばして座った。そして膝の上にダークチャオを乗せた。ダークチャオは正面を向いて座っていたが、そのうちに僕の方を振り返ってタマゴで膨らんでいるダッフルコートにしがみつくように座った。僕の顔を見ていないと安心できないのであろうか。どう育てたらこんな人懐こいチャオになるのだろう。
「今日はね」
 と僕は何も考えていないのに声を出していた。ダークチャオの顔を見ていたら、話しかけたくなってしまったのだ。ダークチャオにハテナマークが浮かぶ。今日はね。
「何もなかったなあ」
引用なし
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二話 だから僕はホップになって
 ダーク  - 14/12/2(火) 0:38 -
  
 やっぱり、タマゴはぴくりとも動かなかった。七時になったので僕はタマゴを元の場所に置いて、ダークチャオに別れの挨拶をしてダークガーデンを出た。チャオガーデンに戻って、ふと人気を感じて窓を見るとまたあの女性がいた。今日は青のダウンジャケットを着ていた。女性は僕の方を見ていて、僕と目が合っても目を逸らそうとしない。僕はすぐに目を逸らしたけど、視線を感じる。周りのチャオを眺める振りをしながら、僕は休憩所に繋がる扉を開けた。そしてすぐにその女性に話しかけられた。
「ダークガーデンに行ったんだ」
 やっぱり話しかけられた、とうんざりした気持ちと、緊張した気持ちを自覚した。多分、緊張の方が強かった。なんとかしなきゃいけないのだから。
「はい」
「バッジをつけたチャオ、何匹いた?」
「一匹です」
 この人は何を言いたいのだろう。そういえば、あのダークチャオ以外のチャオは全員売り物だった。五匹の中の一匹が飼いチャオで、そのチャオにだけ惹かれてしまうなんて運が悪いように改めて思う。あのチャオが売り物だったら良かったのに。
「そのチャオ、私のチャオなんだけど」
 期待が胸をよぎった。あのダークチャオとの距離が一気に縮まった気がした。この人と仲良くなれば、ずっとあのダークチャオと一緒にいられるのではないか。
「元気にしてた?」
「元気でしたよ」
 僕は高揚しながら答えたが、すぐに違和感を覚えた。自分のチャオが元気かどうかなんて見ればわかるのではないだろうか。昨日もそうだったが、この人は休憩所にいてばかりで、ガーデンの中にいるのを見たことがない。ここに来るのは自分のチャオを引き取るためじゃないのだろうか。いや、それとも僕が帰った後に引き取っているのか。それで、ダークガーデンの中でのダークチャオの様子のことを聞いたのか。そう考えれば不思議じゃないけど「元気にしてた?」という言葉から放たれる白々しさが拭えなかった。僕は思い切って、
「どうかしたんですか?」
 と聞いた。
「最近会ってなくてさ」
 回りくどい言い方だと思った。何をそんなに聞いて欲しいのだろう。
「なんでですか?」と僕は聞いてあげた。
「まあ話せば長くなるんだけどさ。このあと時間ある?」
 正直なところ、僕は早く帰って親を安心させてやりたかった。それに、家に帰ってからの落ち着く時間がないと、一日の収まりが悪いような気もする。でも、あのダークチャオのことを知るための逃してはいけないチャンスのような気もしていた。当然、今なら何を天秤にかけてもダークチャオの方が重くなる。迷う必要はない。
「ありますよ」
「じゃあ、ファミレスでも行こうか」
 僕は親に、ちょっと遅くなる、夜ご飯も食べてくる、とだけメールを送って、彼女についていった。受付の女性が好奇の目で僕たちを見ていた。
 デパートを出る頃には、外では雨が降っていた。強い雨でもないが、傘がないと結構濡れるだろうなと思うような雨だった。すっかり辺りには雨の匂いが漂っていた。冬の雨は冷たいコンクリートの匂いを際立たせる。
「降られるなんて思ってなかったよ。傘入ってもいい?」
「どうぞ」
 気さくな人だ。高校生と相合傘なんてして恥ずかしくないのだろうか。そんな感じで僕は冷静を装いながら、動揺していた。女性と密着するのには全然慣れていなかった。時折ぶつかる腕は分厚いダウンジャケットが覆っているはずなのに、女性の腕だと思うと色と柔らかさを持った特別なもののように思えて恥ずかしかったし、僕が簡単に女に翻弄されるような意思しか持っていないことが悔しかった。
 移動中はまったく喋らなかった。彼女もずっと前しか見ていなかった。そのどこか余裕のある、楽しんでいる雰囲気に僕はきっと呑まれていた。僕はその雰囲気を楽しめなかったし、意識は彼女に奪われていた。僕は状況さえ整えば、すぐに俗な人間になってしまうのだろうか。
「サイゼでいい?」
 と突然話しかけられたときには「え?」と、少し馴れ馴れしい返事をしてしまった。僕は恥ずかしかったけど、彼女はまったく気にしない様子で目の前にあったサイゼリヤに入っていった。僕もすぐに傘を畳んで、傘用のビニールに入れると彼女についていった。
 僕たちは窓際のテーブル席に向かい合って座った。荷物を椅子に落ち着けたところで彼女は早速、
「さて、何から話そうかな」
 と言ってメニュー表を開いた。何を食べようかな、と言いたかったんじゃないかと思うくらい自然な口調だった。僕は何もできないので、次の言葉を待った。
「とりあえず、あたしは美郷です。それとあたしカルボナーラ」
「真木大輔です。そして僕はドリア」
 そこで丁度店員が水を持ってきた。美郷さんは店員が去ってしまいそうになるのを引き止めて、メニューを簡単に伝えた。店員が去ると、美郷さんはまた僕の方を向いて話を続けた。
「真木くんはチャオ飼ってるの?」
「いや、飼ってないです」
「じゃあ、チャオ飼いたいの?」
 チャオを飼いたいんじゃない。あのダークチャオを飼いたいのだ。
「特に飼いたいわけじゃないです」
「それなのにチャオガーデンにいたんだ。しかもマニアックなことにダークガーデン」
 お姉さんが子供をからかうような笑顔だった。実際そうなのかもしれない。多分この人は僕が親しみやすいようにこういう態度を取っているんだろうけど、正直下手くそだと思った。これじゃあ尋問だ。でもその姿勢はわかったので、この人には近づいてもいいかなと思った。
「あの場所が好きなんですよ」
 と、はぐらかす。いきなり、あなたのチャオがすごく気に入って、なんて言うのは常識的にもどうかと思うし、自分の心の内をさらけ出すのには抵抗があった。でもダークガーデン自体を気に入っていることも事実なので、下手な嘘をつくよりは気が楽だ。
「へえ、変わってるね」
「そうですか?」
「うん」
 そこで一度会話が途切れた。美郷さんも視線をグラスに移した。そろそろ本題に入るな、と思って、僕は美郷さんのグラスと僕のグラスの間に視線を置いていた。
 思ったよりも沈黙は続いた。その間にカルボナーラとドリアも運ばれてきた。その時は美郷さんもグラスから視線を外して「どうもー」と言った。店員が去るとすぐに視線はグラスに注がれた。出会ったばかりの僕に、何をそんなに考えて話そうとしているのだろう。その中に、僕の知りたいことはどれだけ含まれているのだろう。
 美郷さんが目を上げた。
「ダークガーデン、あたしのチャオ以外はみんな売り物だったんだよね」
「はい」
「あの子、ホップって言うんだけど、なんでホップしか預けられていないんだと思う?」
「チャオを飼っている人はダークチャオに育てたがらないから?」
 チャオガーデンの受付の人に聞いた言葉だ。でも、それ以上の情報を僕は持っていない。
「そう」
「でも、なんで育てたがらないのかはわかりません」
 それを聞いた美郷さんは悲しそうに笑って、その後に「あ」と零した。
「もしかして、チャオのことはそんなに知らない?」
「はい」
「ふふん、ダークガーデンに二日も来るくらいだからもっと詳しいのかと思った。いや、知らなかったからダークガーデンにいたのかな」
 僕が話についていけていないのを見て、美郷さんはすぐに続けた。
「チャオはね、悪人に育てられないとダークチャオに進化しないんだよ」
 僕が覚えたのは、チャオを知った喜びでも信じられないことを聞いた驚きでもなく、不快感だった。誰が神で、人を悪人だと決めて、その人の人生を左右すると言うのだろう。そんな的外れな考え方がチャオを飼う人たちの頭上に掲げられているなんて馬鹿馬鹿しい話だ。きっとどこかの馬鹿がダークチャオに進化させた人を虐げるためにそんなことを言い出したのだろう。
「だから、ダークチャオを飼っていると悪人だと思われちゃうんだよ。その飼っている人が進化させたかどうかもわからないのに、印象でね。ダークガーデンで売られてるダークチャオは、元々捨てチャオだったんだって。捨てチャオを保護するのと、新しい飼い主を見つけるためにあのガーデンが作られた。でも、新しい飼い主はあんまり見つかってないみたいだね。元々捨てチャオだったチャオを買い取ってくれる優しい人なのに、飼ったら悪人だもんね。そりゃあ嫌だよ」
「でも美郷さんは買い取ったんじゃないんですか? もしそれを引け目に思っているんだったらどうかと思いますけど」
「違うよ。ホップは元々チャオガーデンにいたコドモチャオだった。それをあたしがダークチャオに進化させちゃったんだよ」
 一瞬言葉に詰まったが、僕は口を開いた。
「自分を悪人だと思っているんですか? 悪人だなんて他の人が言ってるだけです。事実が全てです」
「ダークチャオに進化した」
「それは事実ですが、認識が間違っています」
「ごめん、今のはただの意地悪で言っただけ」と美郷さんは笑う。
「そうなんだけどね。でも、他の人が言ってる、っていうことも事実なんだよ」
 僕は黙る。確かにそうだ。彼女は相談したいわけではないのに、僕は何を勝手に喋っているんだ。
「それに、あたしは悪人で合ってるよ。少なくとも世間的にはね」
「なんでですか」
「ホップがダークチャオに進化したのは、あたしがホップに暴力を振るったからだよ」
 今度こそ、僕は何も言えなくなった。
「あたし、外ではこんな感じで元気なんだけどさ、家の中では違うんだよね。親と上手く行ってなくて。親は信念のあるかっこいい女の子が欲しかったらしいんだけど、あたしは別に信念なんかないし、かっこいい女になんかなる気もなかったし。髪を染めた時もすごい怒られたしね。そんで親にバレないようにホップを飼い始めたんだけど、結局バレちゃって、その上親はホップにデレデレになっちゃってさ。親と一緒にホップにデレデレするのなんてあたしは絶対嫌だから、ホップに冷たく接してたし、近寄ってきたら突き飛ばしてた。ホップは人懐こいから、なんで突き飛ばされても寄ってくるんだよ。それで怖いのはさ、そんな生活を続けてたら本当にホップを嫌いになっちゃったことなんだよ。何度突き飛ばしても寄ってくるのが鬱陶しい、一々ホップの体が黒くなっていくのも鬱陶しい。思考が行動に支配されるなんて、人間って不思議だよね。そのままホップはダークチャオに進化しちゃって、それを理由に親の当たりも強くなるし、あたしもホップを突き飛ばしちゃうし。それでこのまま親の手でホップが可愛がられるのも、あたしの手で傷ついて行くのも良くないと思って、ダークガーデンに保護してもらってるんだ。外であたしは冷たく振舞う理由なんてないのに、ホップの前ではそうなっちゃうかもしれない。そういう制御の効かない力があたしは怖くて、まだホップにも会えてないんだ。だからもしもダークガーデンにこれからも来るようなら、責めてホップに優しくしてあげて欲しい。すごく自分勝手なことを言ってるのはわかってるけど、お願いしたいんだ」
「美郷さんは悪人じゃないですよ。少なくとも僕にとっては」
 僕は美郷さんのお願いには答えずに、そう言った。同情するつもりで言った。でも僕の本心は確実に違うことを思っていた。ホップとの触れ合いの中にあった唯一の引け目、他人のチャオを愛することが許されたのだ。こんなかわいそうな人を目の前に喜びしか覚えていないなんて、悪人は僕の方かもしれない。でもあえて僕はこう思いたい。
 美郷さんは悪人ですよ。少なくとも僕にとっては。
「ありがとう」
 こちらこそ、僕とホップが共有すべき悪役になってくれて、ありがとう。


「君は何を考えているんだ?」
 ミスターがダークガーデンの墓に腰掛けて、僕に問いただす。僕はミスターの隣に座って、両足の間の砂利を眺めている。そこにはホップも他のチャオもいない。ミスターと一緒にいるときは必ず僕たち以外の人や動物はいない。
 僕はホップと一緒にいたい。できることならより知りたい。そして僕は今日、美郷さんと一緒に夜ご飯を食べた。そこでは確かにホップのことを知ることができた。美郷さんという飼い主のことも知ることができた。僕が意外にも愛のためなら悪人になれることを知ることができた。でも、僕は状況に対して冷静になれていない。ミスターはそのことをわかっている。
「美郷さんを悪役として共有する、だなんて、それを望んでいるのは君だよね。ホップの望みであるかどうかなんて、考えてなかったよね」
「話を聞いたときは」
「今も、じゃない? ホップが美郷さんを憎んでいることを望んでいるでしょ」
 そうだ。ホップのかわいそうな境遇を知って、僕はホップの味方をしてあげたいと勝手に思っている。ただ一体一で触れ合うよりも、敵を共有して味方になった方が距離が縮まると、僕の感性は勘違いをしている。
「いや、勘違いでもないよ。そうすることで君が距離を近しく感じられるのならそれは真実だ」
「わかってるよ。でもそう信じ込むのは、多分僕の美学が許さないんだと思う。僕とホップの関係のあり方じゃない」
「じゃあどんなあり方がいい?」
「理解の上にある愛を持った関係」
「そうだろう? その信念に従うんだったら、今後感情に振り回されるのはやめなよ」
「うるさいよ」
 ミスターがいるのは僕の素直な気持ちを引き出すためだ。なんでそのミスターに素直な気持ちを引き出したことを咎められなきゃいけないのだ。ミスターはうるさい。
 でもきっとミスターがうるさくないと、僕は簡単に俗な人間になってしまうのだろう。きっと今回僕が思ったことは、僕と同じクラスにいる高渕加奈子をいじめる三人組の女生徒がしていることと同じことなんだろう。確かあの三人組は同じ中学の出身で、元々仲が良いらしい。そして高校に進学してから自分たちのグループに入ってこようとした高渕さんを必要以上に冷たくあしらっているのだ。きっとあの女たちは同じ敵を共有することで絆を感じているのだろう。あいつらを支配しているのは、それだけなのだ。なんてつまらない人間だろう。僕はそんな人間には絶対になってやらない。でも、素直な自分を知らないというのもまた盲目的で馬鹿馬鹿しい。自らの哲学に支配される人間も、哲学以上の人間にはなれないのだ。結局複雑な人間が一番面白い。その複雑な要素を自覚するために、僕とミスターが別々に存在するのだ。それが僕の真実。素直な気持ちだけが必ずしもその人の真実を表すとは限らない。
 だから僕はそれを理解した上で、ミスターの言う通り信念通りにホップを愛したい。その振る舞いから得るものは、きっと今の僕にとっては一番価値がある。
 隣を見るとミスターはもういなかった。池の向こう側には銀色のタマゴがただ置いてある。今、現実のダークガーデンでホップはこのタマゴを見て何を思っているのだろう。僕のいないダークガーデンで何を感じているのだろう。僕はまだ何もわからない。だから僕はホップになって美郷さんに飼われるところから始める。


 僕はチャオガーデンの岩場の上で寝転がっている。チャオガーデンには僕の他にもチャオがたくさんいて、みんな思い思いの場所で遊んだり眠ったりしている。中には人に飼われているチャオもいて、いつも時計の短い針が“8”を指したときにガーデンにやってきて“6”を指したときくらいにいなくなっていく。チャオガーデンに残るのは僕を含めて五匹くらいのチャオたち。僕たちは相変わらず思い思いのことをしている。
 いつも通り、その日も人に飼われているチャオがいなくなって少し静かになった頃、チャオガーデンに人がやってきた。僕は岩場の上からその人を見ていた。その人は僕が覚えている限りでは初めて見る人で、頭の色が明るかった。その人は僕たちを見回して、まっすぐ僕のところに向かってきた。
「君がいいなあ」
 とその人は笑って、僕の頭を撫でた。僕の頭に手を預けるような優しい撫で方だった。今まで様々な知らない人たちが僕の頭を撫でたけれど、この人が一番優しいなと僕は思った。そして僕はそのままその人に飼われることになった。その人は僕を抱っこして家まで連れて行ってくれた。腕の中は温かくて、柔らかかった。それほど長い時間抱っこされたのは初めてだったので、僕はとても幸せだった。
 その人は家の前まで来ると少し怖い顔になった。扉に僕の知らない何かを刺してゆっくりと回して、それと同じくらいゆっくりと扉を開けた。そのままこの人は音を立てないように、家の中に入って一番近くにあった扉を開けて中に入った。その人は扉についたつまみをカチャリと回して、僕をベッドの上に置いて、その人もベッドに座った。
「はあ、ごめんね。バレると面倒なんだよ」
 と僕に向かって囁く。
「あたしは美郷。君は今日からホップ。いいよね?」
 そう言って、美郷はまた僕の頭を撫でた。やっぱり美郷の手は優しかった。
 そうして僕はずっと美郷の部屋で過ごしていた。美郷が帰ってくる度に僕は飛びついて迎えたし、その度に美郷は僕を撫でてくれた。そして美郷は帰ってきてからはずっと部屋で僕と遊んでくれた。美郷の愛情を感じて、僕も美郷に愛を返していた。この時が、僕が生まれてから一番幸せな時期だった。
 あの日美郷は、コーヒーというものを部屋に持ってきていて、僕にはミルクというものを持ってきてくれていた。それを飲みながら美郷と僕は並んで座ってテレビを見ていた。何だったのかはわからないけど、美郷は途中からコーヒーも飲まずに夢中でテレビを見ていた。僕もそのなんだか綺麗な、動く画面と美郷を交互に見ていた。そんな時、突然美郷の部屋の扉が開いて、僕の知らない人が現れた。美郷はすごく驚いて、それを見た僕もすごく驚いた。
「鍵は」
 と美郷は小さく叫んでいた。いつもの美郷の口ぶりからすると、多分鍵って言うのは扉についているつまみのことだった。いつもは横向きになっているけど、今日は縦向きになっていた。美郷は部屋に入るといつも真っ先に鍵を回すけど、今日はコーヒーとミルクで両手が塞がっていたのでそれができなかったのだ。
「お前、チャオを飼っていたのか!」
 と部屋に入ってきた人は怒鳴った。この家に美郷以外の人がいることは物音や話し声でわかっていたから、人が入ってきたということに恐怖はなかった。でも、怒っている人というものを初めて見たので、僕はとてつもなく怖い思いをした。すぐに僕は美郷の背中の後ろに隠れようとした。でも美郷がすぐに立ち上がったので、僕は隠れる場所を失ってただ立ち尽くしていた。美郷の足の間から見える人が一歩を踏み出そうとしたとき、今度は美郷が、
「入るな!」
 と怒鳴ってその人の方へ近づいていった。僕から離れていく美郷の足。閉まる扉に、その向こうで怒鳴り合う二人。僕の知らない世界が扉の外にあった。その世界から帰ってくる美郷は、僕の知っている美郷でいてくれるのだろうか。それが怖かったけれど、扉から目を離すことはできなかった。扉についた鍵は、取っ手を回せば扉が開くことを示していた。僕は鍵を閉めてしまいたかった。そうしてベッドの中で眠って、いつもと同じ朝を迎えたかった。でも、鍵に手は届きそうになくて、僕は座っていることしかできなかった。
 扉が開いた。入ってきたのは、悲しそうな顔をした美郷だった。こんな美郷も、僕の知らない美郷であった。美郷が僕の知らない一面を見せる度に、僕の胸は苦しくなる。それはきっと、僕に見せていた顔が美郷の全てだと僕が思い込んでいたからだろう。でも、美郷が僕が思っているよりも、きっと複雑な人だった。
 美郷は僕を抱き締めて「ごめんね」と泣いた。僕は抱き締められる以上のことはできなかった。
 それから僕たちはまたいつもの生活に戻った。変わったことと言えば、美郷が以前よりも鍵の方を気にするようになった。鍵を閉めた時も確認をするけど、部屋で僕と遊んだりテレビを見たりしている時もちらちらと確認していた。僕はその瞬間を迎える度に意識が現実に帰ることになり、思い切って美郷と遊べないことを悲しく思った。
 そんな風に美郷はよく鍵を気にしていたのだけど、それは部屋の中にいる時だけだったのかもしれない。僕はたまに美郷と散歩に行くとき以外に部屋の外に出ることがなくて、その時も美郷が鍵を気にしていたかなんて覚えてないから、それが正しいのかどうかわからない。でも美郷はその日、部屋を出た後に扉の鍵を開けっ放しにしていた。美郷は朝慌ただしく着替えたり歯を磨いたりして、急いで部屋を出て行った。こんなことは少なくとも僕がこの家に来てからは初めてだったので、珍しいことだったのだと思う。つまみ以外の風景はいつもと何も変わらないのだけど、僕は全然落ち着けなかった。僕にはそのつまみしか見えなかった。美郷が怒鳴ったり、知らない人が怒鳴ったりする世界と繋がる扉が、今いつでも開く状態になっている。扉が開く瞬間の映像が頭の中に何回も流れた。僕は怖くて、ベッドの掛け布団の中に隠れていた。
 気づいたら僕は眠っていて、目が覚めても掛け布団の中なので今が昼なのか夜なのかもわからなかった。ゆっくりと顔だけを掛け布団から出すと、部屋の中も暗かったし、カーテンの外も暗かった。どうやら夜みたいだ。
 僕はそのまま美郷の帰りを待った。辺りが暗くなる頃には、いつも帰ってくる。そして、外から足音が近づいてきて、玄関が開かれる音がした。美郷が帰ってきた、と思って、僕はベッドの上に座り直して部屋の扉の方を見た。でも、扉は開かれなかった。代わりに、いつも扉の外から聞こえる知らない人の話し声が聞こえた。一人は美郷を怒鳴ったあの人だ。帰ってきたのは美郷じゃなかった。
 いつも美郷が「お風呂入ってくるね」と言った後に聞こえてくる水の弾ける音が聞こえた。あの怒鳴る人がお風呂に入っているのだろう。美郷がいなくて、あの怒鳴る人が家の中にいると思うと落ち着けなかった。美郷を早く出迎えたい反面、怒鳴る人の目に入ることが怖くて、僕はまた掛け布団から顔だけ出した中途半端な格好で美郷を待っていた。
 それからしばらくして、僕はまたうとうとしていた。なんとなく美郷がそろそろ帰ってくる気がしていた。そんな時、突然部屋の扉が開いた。僕は驚いて扉の方に目を向けて、そこにいる人影を確認した。あの怒鳴る人だった。僕が掛け布団から顔を出した状態で動けなかった。掛け布団の中に逃げたら、逆に見つかってしまいそうな気がしたからだ。でも結局、怒鳴る人と目が合った。
「いたいた」
 怒鳴る人が一歩を踏み出した。
 その時、丁度家に美郷が帰ってきた。家に入って美郷の部屋はすぐのところにあるので、美郷は家に入ってすぐに怒鳴る人が自分の部屋に入っているところを見たのだ。
「何やってんの」
 と美郷の震える声が聞こえた。
「お前のチャオを可愛がろうとしてただけだ。飼った以上はぞんざいに扱うのも、捨てるのも人道的じゃない。俺たちにはこのチャオを幸せにする義務がある」
「何が幸せだ!」
 美郷は叫んで、怒鳴る人を突き飛ばした。怒鳴る人は開いた扉に叩きつけられ、よろけたところを美郷に掴まれて部屋の外に引っ張り出された。そしてすぐに美郷は部屋に入って鍵を閉め、掛け布団を強く抱きしめながら声をあげて泣いた。扉の外でまた怒鳴る声が聞こえた。


 ホップのことを理解するのには、まずチャオのことを知らなければいけない。銀色のタマゴを孵すのにも、きっと知っておいた方が良いことがあるだろう。
 ホップと出会ってから初めての休日、そして冬休みの初日、僕は昼に図書館で『チャオ入門』という本を借り、それを持ってダークガーデンに来ていた。銀色のタマゴの前に本を広げて、ホップと並んで見る。本をタマゴの前に持ってくるときは、池に落とさないように気をつけた。濡らすだけでも気が引けるが、赤く濡れていたら次にこの本を読む人に要らない心配をさせるかもしれない。本とホップを同時に抱えて池を渡るのは不安だったので、僕は池を二往復した。ホップは池に入ってもなんとも思わないのだろうけど、それでも僕が抱っこして池を渡った。ホップは抱っこをすると、僕の胸にしがみつくようになっていた。 本の中にある情報は、必要のないものが多かった。祖先にあたる生物がいないだとか、体を構成している物質のほとんど水分だとか、転生についてはよくわかっていないだとか、そんなのばかりだった。あとはヒーローチャオ、ダークチャオ、ニュートラルチャオというものが存在していることや、進化をすることなど、今では知っていることが書いてあった。ただ“ヒーローチャオ、あるいはダークチャオへの進化”という項目の中に、目を見張る情報が載っていた。それは進化の条件に関する文章で、
『チャオは善人に育てられるとヒーローチャオに進化し、悪人に育てられるとダークチャオに進化する。また、善人がチャオにとって好ましくないこと、つまり暴力を振るったり睡眠を妨害したり嫌いなものを与えたりすると、チャオはダークチャオに進化する。逆もまた然りであり、悪人がそう言った行動をすると、チャオはヒーローチャオに進化する。人間の善悪の判断は、チャオの心理状態によってされると言う説が有力である』
 と書かれていた。つまり、ホップの心理状態から言えば美郷さんは善人にあたるのだ。美郷さんを敵として共有するという僕の愚かな野望は真に砕け散ったと言ってもいいだろう。そもそもそんなことをするつもりはなかったのだけど、有力説という形でも目の前にしたら衝撃だった。それを悲しいとは思いたくなくて、僕の視線はホップに縋った。ホップは何もわからないと言った風に頭の上にハテナマークを浮かべて僕の方を向いた。本物のホップの姿に僕は寧ろ安心してホップを撫でるとハテナマークはハートマークになった。
 そうか、と思った。人の善悪を決めて、その人の人生を左右するのはチャオだ。僕やチャオを飼っている人にとっての神ってきっと、チャオのことだ。そこまで考えて、いや、中身のないことを考えるのはやめよう、と僕は恥ずかしく思った。
 次にタマゴのことを読んだ。これは予想外であったが、チャオのタマゴは温める必要がないらしい。放置しておけば勝手に生まれるのだ。また『タマゴを優しく揺すったりしてやると、生まれたチャオが懐きやすくなる傾向がある。生まれたときのチャオの気分が、生まれて初めて見た者への第一印象を左右するからだと考えている』とも書いてあった。そして驚くべきことに『よほど強い衝撃を与えなければ叩き割っても問題なく生まれる。しかし、懐きにくくなるので飼い主とチャオが良好な関係を築いていくためには推奨しない』とも書いてあった。銀色のタマゴ云々ではなく、そもそも叩き割るという方法があることに驚いた。ホップは、と思ってホップの方を見たがすぐに、それはないな、と思い直した。試しにホップの頬の辺りに僕が手を当ててみると、ホップは顔や体を摺り寄せてハートマークを浮かべた。
 僕はこの銀色のタマゴの中を見たい。正直なところ今は、ホップと一緒に割ろうとしているのは“ついで”のようなものだ。昨日はホップと一緒に何かをしたいからタマゴを孵したいのだと思っていたけど一度冷静に考えてみたら、銀色のタマゴの中を見たい、という気持ちと、ホップと一緒に何かをしたい、という気持ちはまったく別のものであることに気がついた。銀色のタマゴの中を見たいという気持ちは、チャオガーデンに初めて来たときのような、一生のパートナーに出会うことになるかもしれないという気持ちに似ている。銀色のタマゴに何かを期待している自分を僕は自覚していた。
 でも、この銀色のタマゴを叩き割るのには抵抗がある。中には生き物が入っているのだから、うっかり殺してしまったら僕は人の道を進めなくなってしまいそうだ。放置していれば生まれる可能性もあるのだから、下手に手を出さない方が無難なのだろう。結局、僕はそのままタマゴには何もせず、ホップと過ごした。これだけ長い時間一緒にいられるのは初めてだったので、ガーデンの中を歩き回ったり他のチャオと触れ合ったり木の実をあげたり、色々なことをした。いつもと同じように、七時になったらダークガーデンを出ようと立ち上がる。長い時間一緒にいても満足はできない。寧ろ隣にいて当たり前のようだったホップと別れるのは寂しかった。いつもと同じ顔のホップをまたひとしきり撫でてから、僕はダークガーデンを出る。ホップがいなくなるとより寂しさは増した。そして休憩所に入ったところで、美郷さんに大きめの声で呼び止められる。美郷さんの存在に気づいていなかった僕は、かなり驚いた。
「ごめんごめん、そんなにびっくりするなんて思わなかったからさ」
「はい」
 一瞬怒りが込み上げてきて、その後すぐに違和感に変わった。僕は寂しさを感じていたつもりだったのだけど、いざ人が話しかけてきても全然満足できなかった。僕は一人になったことが寂しかったのではなく、ホップがそばにいなくなったことが寂しかったのだ。
「今日も来てたんだ。ホップはどうだった?」
「今日も元気でしたよ」
 そんなことを言うくらいだったら会ってあげればいいのに、と思ってしまう。でも、それは僕が親と上手くやれていて、ホップのことも好きだからそんなことを思うのだというような気もする。何せ僕は僕の人生しか歩んだことがないのだから、僕以外の人の感覚なんてわからない。それでも、美郷さんはホップにとっては善人なのだ。僕はわがままにホップのことばかりを思う。
「そっか。良かった」
 少しの沈黙があって、
「またサイゼ行かない?」
 と美郷さんは言った。美郷さんは何かを話したがっているのだろう。それで美郷さんが救われるのなら、僕は特別損をするわけでもないので一向に構わなかった。
「いいですよ」
「じゃあ行こっか。今日は雨も降ってないしね」


 昨日と同じサイゼリヤに行くと、そこそこ混んでいた。でも空席がないほどではなかったので、僕たちはすんなりと入店できた。今日は窓側ではなくて、店の内の方にある四人掛けのボックス席に向かい合って座った。
「あたしドリア」
「僕はハンバーグとライスで」
 すぐにチャイムで店員を呼ぶ。店員にメニューを告げたあと、今日は美郷さんが水を汲みに行った。客が多くて店員が忙しいということと、店員を呼ぶのが早過ぎて店員が水を持って来られなかったからだ。水を持ってきた美郷さんは、座ってすぐに喋り始めた。
「二日連続で話を聞いてもらっちゃうね。ごめんね」
「いいですよ」
「あたし、本当はガーデンにも行きたくないんだ」
 いいですよ、なんて簡単に言ったけど、僕は息が詰まった。なんとなく、まだ美郷さんとホップには繋がっているものがあると思っていたけど、美郷さんにとってはそれすらもないのだ。あまりにもホップが可哀想だった。でも、僕は美郷さんの感覚がわからないから美郷さんが何をできて何をできないのかもわからなくて、何も言えない。
「あそこに行くとなんとなく罪滅ぼしができた気になるんだ。何度も言うけど、すごく自分勝手だと思う。毎日来てるわけでもないし。でも、ガーデンに行く自分がいると思わないとあたしもやっていけないんだ」
「そう、なんですか」
 僕は相槌しか打てない。もちろん、美郷さんが救われることは僕も良いことだと思う。でもそれ以上に、僕はホップに救われて欲しいと思っている。二人とも救われるには、きっと美郷さんが変わるしかない。でも僕は美郷さんに何も言えない。手詰まりだ。
「あたしにそれ以上のことはできないよ。ホップからしたらあたしがガーデンまで来ていても来ていなくても会えないんだったら同じこと。だから責めて、真木くんにホップのことを可愛がって欲しいんだ。何度も言うけど、よろしくお願いします」
 昨日とは違って、ホップのことを考えたあとだからだろうか、喜びは感じなかった。ホップの幸せに関して僕は無知だ。勝手にホップの気持ちを決めつけて話を進めてしまうのには抵抗があった。それに、ホップの虚像が視野から外れたことで、美郷さんの境遇もわからないなりにも可哀想だと思った。もし仮に、僕が美郷さんを批判したらどうなるだろう。「君はあたしのことをわかっていないんだよ」と言われるのだろうか。それとも泣き出してしまうのだろうか。どちらにしても、良いビジョンではない。
「可愛がりますよ」
 前よりも明確な返事の仕方だと思う。もちろんそれは、美郷さんを救おうという気持ちがあったからだけど、そう思い切れているわけではなかった。ホップを可愛がるのは、自分とホップのためという面が大きいのだ。だって、それで十分じゃないか。でも、結果的に美郷さんも救われるのであれば、尚更良い。
「ありがとう」
 また、美郷さんのお礼で話は終わった。そしてすぐにメニューが運ばれてきた。僕たちは料理を黙々と食べた。美郷さんの方からたまに「学校どこ?」とか「彼女いるの?」とかそういう言葉があったくらいだ。僕は質問に答えたけど、そこから話が広がるような答えではなかった。こんなぎこちない会話になってしまうのは、きっと僕たちの間にある共通点がホップだけだからだ。それに加えて、僕がホップをすでに可愛がっていることを美郷さんは知らない。美郷さんからホップの話題が途切れてしまえば、あとは僕たちを繋ぐものなんてないのだ。探せばあるかもしれないが、美郷さんは上手く見つけられないようだし、僕も持っている話題なんて全然なかった。でも、これでいいんじゃないかとも思う。美郷さんが話したいことを話して、僕が聞く。これだけでも僕たちがわざわざこういう形をとって話した意義はある。その形が本当に収まりのいいものなのかどうかは分からないが、美郷さんが料理を食べ終わるのを見計らってからコップの水を一気に飲んで完結させた。そのときに、美郷さんの手と僕の手が似ていることに、初めて気づいた。
 家に帰ってすぐに美郷さんからメールがあった。帰り際に、美郷さんにメールアドレスを教えてほしいと言われ、教えたのだった。明日もガーデンに来るのか、という内容だった。僕は、美郷さんは行くんですか、と返信した。しばらくして、明日は雨降るみたいだしね、どうしようか、と返信があった。僕は、それならやめておきます、と返信した。すぐに、わかった、と返信があった。もちろん、僕は明日もダークガーデンに行く。
引用なし
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三話 これが幸せ
 ダーク  - 14/12/2(火) 21:16 -
  
 あの日から、美郷の部屋の扉にはよくノックの音が響くようになった。扉を美郷が開けると、その向こうにはいつもあの怒鳴る人がいた。怒鳴る人は、
「ホップはいるか?」
 と言って部屋を見渡す。最初のうちは嫌がっていた美郷だったけど、嫌がる素振りを見せるといつも怒鳴り合いになるので、そのうち美郷は諦めて僕を差し出すようになっていた。
 美郷の部屋から初めて連れ出されたとき、僕は気が気じゃなかった。怒鳴る人はいつも突然怒鳴り出すので、僕も突然怒鳴られてしまうんじゃないかとずっと怖かった。それと、僕が連れ出された先の部屋には怒鳴る人ともう一人の人がいた。その人はどちらかと言うと美郷のように優しそうな人だった。初めて見たときその人は食べ物を作っていた。いい匂いがした。
 怒鳴る人はふかふかの大きな椅子に座って、膝の上に僕を乗せた。嬉しそうな顔をしながら僕の頭を撫でた。頭だけじゃなくて、首のところや脇腹のところを撫でられもした。美郷に撫でられるときはくすぐったいような幸せでいっぱいになるのだけど、怒鳴る人の手はまるで別の世界から出てきたもののようで、ただ温かくて大きいだけのものに触れられている感じがした。僕はその間、なんとかずっと怒鳴る人の目を見続けた。目を逸らしたらその瞬間に怒鳴られるような気がしたから。
 しばらくすると、優しそうな人がテーブルの上に食べ物を置いて、怒鳴る人と優しそうな人はテーブルの前にある二つの椅子に並んで座って食べ物を食べ始めた。テーブルを挟んで二人の反対側にも椅子が二つあって、その内の一つには食べ物も置かれているけど、誰も座っていなかった。二人が食べ物を食べ始めたので僕はやっと怒鳴る人から視線を外すことが許されたのだけど、背を向けていると後ろから突然怒鳴られるような気がしたし、わざわざ顔を見続けているとまた僕のところまで来るような気がしたから、優しそうな人の足元をずっと見ていた。すると、
「ホップ、お前の足元をずっと見てるぞ。何か食い物落としたんじゃないか?」
 と怒鳴る人が言った。それを聞いた優しそうな人は自分の足元に顔を近づけて見たけど、もちろん何もない。そのときに僕の視界の中に優しそうな人の顔が入ってきたのだけど、この人とならうっかり目が合っても大丈夫な気がしたので、僕は同じところを見続けていた。でも結局優しそうな人は僕と目が合う前に顔を上げた。
「何もないよ。たまたまここ見てるだけじゃないの?」
「もしかして、何か欲しいんじゃないか?」
 そういうと怒鳴る人は皿に乗っていた茶色い食べ物を指でつまんで、僕の方に見せた。僕はその食べ物を見るけど、それが何なのかわからない。
「だめよ唐揚げなんて。チャオに油っぽいもの食べさせるのはあんまり良くないんじゃないの」
「大丈夫だって。お前も美味いもん食いたいもんな」と僕の方を見る。
「そうかもしれないけど。まあほどほどにね」と優しそうな人は言って、それっきりまた自分の食事に戻ってしまった。そして怒鳴る人は唐揚げと呼ばれるものを僕の顔の前に持ってきた。確かにそれはいい匂いがしておいしそうだった。でも、なんとなく食べるのには気が引けた。そうして食べようかどうか迷ってるうちに、早く何かをしなきゃいけない気持ちになって僕は唐揚げを口に入れてしまった。それを見た怒鳴る人は喜んで、僕の頭を撫でた。唐揚げはおいしかった。でも飲み込んでしまうと、僕は毒を体の中に入れてしまったような気分になった。もう、元には戻れない。
 それから毎日、僕は怒鳴る人に美郷の部屋から連れ出されていた。あるときは最初に連れ出された日みたいに食べ物を食べさせられたり、あるときは膝の上に乗せられてテレビを見せられたりした。そういうとき僕はいつも緊張をしていて、美郷の部屋に戻れたときにはすっかり疲れてしまっていた。美郷はそんな僕を見てなのか、僕と遊ばずに、疲れた僕が眠るのをただ見ていた。
 そんな日が続く中で、また僕が怒鳴る人に連れ出されて、食事をする二人の足元を見ているときに美郷がその部屋に入ってきた。美郷がいつものように僕を抱いて、美郷の部屋に入れてくれるんじゃないかと思った。でも美郷は僕を少し見ただけで、優しそうな人の正面に座った。美郷は「いただきます」とだけ小さく言って、そのあとは黙って食べ物を食べた。怒鳴る人と優しそうな人はテレビを見ながら何かを話していた。すると今日も怒鳴る人はテーブルの上にある何かの肉を僕の前に差し出した。美郷が僕の方を見ていたけど、僕は怒鳴られるのが怖いからいつもみたいに諦めてそれを食べる。すると怒鳴る人が、
「美郷もホップを大事にしろよ?」
 と言った。僕は美郷の方を見た。美郷も僕の方を見た。美郷はゆっくり立ち上がって、僕の前まで来てしゃがむ。そしてしばらく僕を見つめたあとに、その手で僕をひっぱたいた。その瞬間だけ、その場の時間が止まったように誰も動かなかった。僕も何が起こったのかわからなかったけど、右頬に残る痛みに気がついたとき、悲しさに僕は声をあげて泣いた。それと同時に、
「お前!」
 と怒鳴る人が美郷をひっぱたいた。美郷は涙を流しながら怒鳴る人を睨みつけていた。怒鳴る人はずっと美郷に何かを大声で言っていたけど、僕はそれどころじゃなかった。僕は美郷の足にしがみついて泣いた。今度は足で振り払われて壁に叩きつけられた。でも僕は美郷に泣きつくしかなくて、美郷に向かって走る。また足で振り払われる。怒鳴る人が美郷を叩こうとするけど、美郷は抵抗をする。僕がまた美郷の方に走り出したとき、美郷は怒鳴る人と僕から逃げて自分の部屋に入って鍵を閉めてしまった。怒鳴る人は美郷の部屋の扉の前で大声を出して、僕は美郷の部屋の扉にしがみついて泣いていた。優しそうな人が、さっきまで僕たちがいた部屋から悲しそうな目で僕たちを見ていた。
 それから僕は美郷の部屋に入れなくなった。優しそうな人と居間(食べ物を食べる部屋のことを優しそうな人はこう呼んだ)で過ごすことが多くなった。優しそうな人は洋服を機械に入れたり、外に干したり、部屋を掃除したりしていた。たまに「ちょっと買い物に行ってくるね」と言って、いなくなったりするけど、そんなにかからずに帰ってくる。あとは大体テレビを見ていたり、たまに僕を撫でたりした。朝と夜だけ怒鳴る人もいて、怒鳴る人がいると優しそうな人だけがいるときとは違った動きが家の中に起きるみたいだった。美郷がたまに来ると、僕はすぐに美郷に抱きつこうとした。また美郷に撫でられたり、抱っこされたりしたかった。美郷は僕を叩いたり、突き飛ばしたりした。それでも、僕が愛されたいのは美郷だけだった。優しそうな人の前で僕が叩かれても、優しそうな人は相変わらず悲しそうな目で見るだけだった。
 どうしてこんなことになったのだろう。そう思って、怒鳴る人と優しそうな人の顔が思い浮かんだ。二人のせいで、美郷があんな風になってしまったんだ。怒鳴る人が怒鳴らなければ、優しそうな人が何かをしてくれれば、こんなことにはならなかった。美郷は本当は僕を撫でてくれて、抱っこしてくれる優しい人なんだ。そう思うと僕は余計に美郷にしがみつきたくなって、美郷の部屋の扉にしがみつくことしかできないのだった。
 そんな日々が続いて、僕の体は美郷に叩かれる度に、怒鳴る人と優しそうな人に撫でられる度に黒くなっていき、そのまま僕は進化を迎えてダークチャオになったのだった。
 それからさらに美郷と怒鳴る人が喧嘩をするようになった。美郷の僕へのあたりも強くなった。何度か怪我もした。その度に、怒鳴る人が僕の手当をした。あまり嬉しくはなかった。僕に必要なのは手当じゃなくて美郷だった。でももう、限界かもしれなかった。
 そんなとき、美郷がある日僕をバッグに入れて、外に連れて行ってくれた。僕はバッグから顔だけ出して、顔を美郷にくっつけて温もりを感じていた。久しぶりの幸せだった。でも、そんな幸せのときはすぐに去った。景色は僕の見覚えのある場所のものになった。チャオガーデンだ。僕はここに戻されてしまうのだと悟った。もう美郷に僕は完全に必要じゃなくなってしまったのだと思うしかなかった。でも美郷はチャオガーデンで僕たちの世話をしていた人に、
「すみません、このチャオを預けたいんですが」
 と言った。預ける、という言葉に僕はいくらか安心した。このガーデンにいた頃に聞いたこの「預ける」という言葉を使われたチャオは、必ず飼い主が迎えに来ていたからだ。美郷はまた迎えに来てくれる。とりあえず今は、それだけで十分だった。
「しばらく預けることになっちゃうと思うんですけど、いいですか? あと、この子はダークチャオだからダークガーデンでお願いします」
 それから僕はダークガーデンにいる。ここには飼われているチャオもいないし、人がチャオを見に来ることもないから、ここに来る人は世話をしている人だけだ。チャオガーデンにいた頃は全然気にしていなかったけど、何もないというのはすごく退屈だった。することがないから、僕はガーデンに置いてあるテレビを見て過ごした。美郷と一緒に人間のテレビを見ていた頃のことを、ずっと思っていた。
 ある日、ダークガーデンに世話をしている人以外の人がやってきた。僕はたまたまダークガーデンの入口の近くにいて、その人と目が合った。その人は黒い服を着ていて、瞳も真っ黒だった。楽しいのか、悲しいのか、よくわからない顔をしていた。その黒い人は僕の方に近づいてきて、僕を撫でた。手が美郷に似ていて、この人も優しい人だ、と僕は思った。黒い人はダークガーデンのお墓に座って、ずっと顔を抱えていた。どうしたのだろうと思って、僕がしばらく黒い人の前で待っていると、黒い人は顔をあげて、おぉ、と声を出した。僕と目が合って、少し嬉しそうな顔をした。僕も少し嬉しかった。その人が手を出してきたので、僕はその手に全身で触れた。こんなに人の手に愛を感じたのは久しぶりだった。その美郷みたいな手に、僕はずっと甘えていた。その人は「またね」と言って、ダークガーデンから出て行った。また会えると思うと嬉しかった。
 黒い人は次の日も来た。今日は撫でるだけじゃなくて、抱っこもしてくれた。池を越えて、タマゴのところに着いた。このタマゴはいつまで経っても孵らない。今まで何度かタマゴが孵るところを見たけど、こんなに孵らないタマゴはなかった。でも、チャオは僕に何もしてくれないので、タマゴが孵らなくても良かった。黒い人はタマゴを持ってじっとしていたけど、そのうち僕にタマゴを渡した。でも、僕はどうすればいいのかわからないので、ただタマゴを持っているだけだった。タマゴを持ち続けるのは苦しいので、僕はタマゴを離して黒い人に抱っこをせがんだ。黒い人はすぐに抱っこをしてくれた。そのあとは、黒い人が服の中にタマゴを入れてじっとしていたので、僕もその膨らんだ服に抱きついて黒い人の顔をずっと見ていた。優しそうな顔ではないけど、僕のことを愛してくれているのはわかった。僕も黒い人のことを愛している。僕はこの黒い人を喜ばせたかったし、もっと撫でられたかった。
 次の日は、時計の短い針が“1”と“2”の間にあるときに黒い人が来た。黒い人はいつもと違う格好をしていたけど、それでも大体黒っぽかった。黒い人は本を持ってきていた。チャオガーデンやダークガーデンにも本はあるけど、黒い人が持ってきた本は僕の全然知らない本だった。そもそもガーデンに置いてある本には絵がいっぱいあるのだけど、黒い人の本は文字というものがたくさん書かれていた。文字というものはガーデンで僕たちの世話をしていた人が教えてくれたけど、結局よくわからなかった。文字はガーデンの色々なところや美郷の部屋の中にもあった。やっぱり、よくわからなかった。
 僕と黒い人はまたタマゴの前に座った。今日は一緒にその本を読んだ。読んだと言っても、僕はところどころに書かれている絵を見ていただけだった。でも黒い人と一緒に本を読んでいると思うと、それだけで幸せだった。黒い人は時々僕の方を見た。たまに触ってもくれた。本は途中で閉じてしまったけど、その後長い時間一緒にいた。ガーデンの中を歩き回ったり、他のチャオを触ったりした。木の実を食べさせてもらったりもした。幸せだった。でもそんなことをしていると、僕は美郷の部屋にいた頃のことを思い出した。こんな触れ合いが当たり前で、僕にとっては美郷の部屋が家だった。僕はきっと帰れる家に帰るまでの間、ここで美郷を待っているだけなんだ。そこでたまたま出会った黒い人に、僕が帰るまでの間可愛がってもらっているだけなんだ。もちろん黒い人のことも好きだけど、僕は美郷が一番好きだった。
 黒い人は「またね」と言ってガーデンを出て行く。黒い人はまたここに来てくれると思う。でも僕はいつも、ガーデンに現れる人影が美郷であることを期待しながら、このガーデンの壁に描かれた暗い雲の先を思うのだった。


 どうして美郷さんは出会って間もない僕に、色々なことをさらけ出せるのだろう。家族との仲が険悪なことやチャオをダークチャオに進化させたことを他人に話すのは、きっと抵抗があることなんじゃないかと思う。もしも僕が美郷さんの立場であったのならどうだろう。僕だったら多分、他人には話さないと思う。それを話すことは、まるで自分はハンデを背負っているので優しくしてね、と言ってるようで情けないから。それに、例えば話した相手に僕が本当に愛されていたとして、僕はそれを愛なのか同情なのか見分けが付けられなくなると思うから。同時に、そうした他人への信頼をなくすことは、他人に向けられた自分の行動が正しい意味合いを持たなくなるということなんじゃないだろうか。行動の中にまったく他人という要素がまったくないのであれば問題ないが、少なくとも僕の場合は行動の中に他人という要素が含まれている。他人に向けることを意図していない行動でも、僕は他人という要素を考慮してしまい行動を制限されていたくらいだった。他人にハンデをさらけ出すというのは、そういった状況に自らをより追い込むことなのだ。
 しかし、それは僕の場合だったら、の話だ。美郷さんは違う。そもそもその結論に至ったのであれば、僕にそんな告白はしなかっただろう。一般的な観点で言えば、他人だからリスクを気にせずに話せる、だとか、ダークチャオを見られてしまったから混乱して、あるいはやけくそで全部話した、だとか、そういったものが理由になるのだろう。どちらも有り得るが、他人だと思われている気もしないし、混乱しているようにも見えなくて、どちらもしっくりこなかった。
 それとも、全てを話してもこの人なら自分を見誤ったりしないと言えるほどの信頼を僕が得ていたのだろうか。いや、信頼を得るような出来事は何もなかった。それに、そういった信頼の観点から考えるなら、ホップの方が高いレベルのところにいる。ホップは見誤るどころか、美郷さんが何を話しても美郷さんを愛し続けるだろう。現にホップは突き飛ばされても美郷さんに寄って行ったのだ。しかし、それはチャオに人間ほどの知能がない故である。それ故に、チャオに話したところで馬に念仏を唱えるような気持ちになってしまうのかもしれない。だから、人間である僕なのか。いや、飛躍が過ぎる。
 ミスターは現れない。その理由は僕もわかっている。言葉にするのには恥ずかしい一つの仮説があるからだ。でもそれが間違っていたときに僕は居た堪れない気持ちになるだろうから、それを仮説として挙げることもしたくない。
 ミスターが出てこないのは、僕にとっては間違ったことだ。そして僕にとって間違ったことを咎めるのは本来ミスターの役目なのだ。そんなパラドックスも今や思考の隅にしか存在を示さなかった。でも僕がその仮説に没頭しなかったのは、きっとミスターのお陰だ。僕は何も考えないようにして、眠ることができた。


 タマゴを叩き割っても問題ない、という情報が僕の感情にまで浸透したらしく、僕はまた朝からダークガーデンに行こうとしていた。僕は食パンにバターを塗ってレンジに入れているところだった。音をあまり立てないように注意を払っていたが、パンの袋を開ける音やレンジの音はどうしても抑えきれず、結局母親を起こしてしまうことになった。母親は、休日だというのに朝の七時から起きて居間にいる僕を見て驚いた。元々休日は起きる時間が遅く、あまり外に出ることもなかったので無理もなかった。
「どうしたの?」
「ちょっと出かけてくる」
「あら、珍しい。気をつけて行ってらっしゃい」
「うん」
 そう言うとまた母親は寝室に戻っていった。父親もまだ寝ているだろう。やっぱり僕の家は平和だ。でも、たまに美郷さんの家のような環境が羨ましくなることもあった。僕は自分から何かを進んでするということがなかった。したいこともなかったし、何かをするにしても面倒だった。でも、漠然と他の人にないものを持っていたらな、とは思っていた。そういう意味で、強制力を持った何かが僕を動かしていたら、と思わざるを得なかったのだ。でもそれもよくよく考えれば嫌な面の方が多いし、結局のところ今のままでいいと思ってきた。
 今はどうだろう。こうやって休日の朝早くに居間で朝食を取っているように、僕は確実に以前とは違う環境に身を置いている。何よりも、僕にはホップという意識を占める大きな存在ができた。今のままでいい、だなんて消極的な表現をしてはホップに悪い気がする。今のままがいい、と明確に言ってしまいたい。でも、そう言い切るには美郷さんがホップを愛さなくてはいけない。そして、僕はホップに愛され続けたい。これが今僕の前にある重要な課題だ。これがきっと、足を進めた者の前に現れる困難なのだろう。
 ホップが僕の家にいたら良かったのに、と僕は思う。その世界でも僕はホップを愛しただろうし、ホップも僕を愛してくれたはずだ。親もホップの世話をしてくれて、何一つホップは苦しまずに済む。でも現実はそうじゃないし、ホップはおそらく苦しんでいる。もう余計なことは考えず、早くホップのところに行こうと、急いで着替えて家を出た。
 僕がダークガーデンに入ると、いつものようにホップが迎えてくれた。美郷さんじゃなくてごめん、と心の中だけで謝る。ホップを撫でるとハートマークを浮かべて、また僕の手を両手で抱えて顔を寄せてくる。そうすると僕は、これでいいんじゃないか、と思ってしまう。僕はそれを振り払って、靴と靴下を脱いでホップを抱きかかえて赤い池を越える。
 そして早速、僕は銀色のタマゴを拳で叩いてみた。硬いけど、中まで鉄の塊という感じではない。ハンマーがあれば割れるんじゃないか、と思うが、リュックの中に入れてでもハンマーを持ち歩くのは少し抵抗がある。そもそも、ハンマーなんて家にあっただろうか。いや、確かこのデパートには工務店が入っていた。そこで買ってこよう。
 僕はホップに「ちょっと待ってて」と言って撫でてから、ダークガーデンを出た。ホップはハテナマークを浮かべていた。僕はすぐに工務店に行き、ハンマーと小さなマイナスドライバーを買ってダークガーデンに戻った。ホップはタマゴの前に立っており、僕が入ってくるのを見るとタマゴを持ち上げて僕の方に向けた。差し出してくれているのだろう。僕は急いで赤い池を渡ってタマゴを受け取り、ホップを撫でた。ホップは寂しかったのか、僕の足にしがみついて離れなかった。
「寂しかった? よしよし」
「ちゃおお」
 僕の前でホップが初めて声を出した。丸みのある、高くて綺麗な声だった。犬が寂しいときに鼻を鳴らすようなトーンに似ていたが、鳴いているというよりは喋っているような声だった。黒い体と鋭い目をしていても、やっぱりチャオはチャオの声を持っている。僕は驚きと喜びでいっぱいになったのだった。
 声を出してくれたのは、たまたま僕の前で初めて寂しいと思ったからなのか、僕に心を開いてくれているのか、わからなかった。そして僕はこの声を受け入れてしまってもいいものなのだろうか。この声に甘えて、ホップとの距離をより縮めたいと思うことで、ホップと美郷さんを引き離してしまうのではないだろうか。僕はホップとの距離を縮めたいと思っていたはずなのに、実際にそういった状況になると別の現実が見えてくるのだった。理解のある愛って、なんなのだろう。もしかしたら、美郷さんをホップに会うように促して、僕はホップの前から消えるべきなのかもしれない。でも、声を聞かせてくれた事実を考えると、僕がいなくなるのはホップにとって酷なことかもしれないし、何よりも僕はホップと一緒にいたかった。
 ホップと別れる覚悟のことを考えて、僕はそれを打ち消したくなってタマゴにドライバーを突き立ててハンマーで叩いた。タマゴにはヒビ一つ入らなかった。
 ドライバーを突き刺しそうとしてみたり、直接ハンマーで叩いてみたり、そんなことをずっと続けていると携帯が震えた。メール受信の振動パターンだった。ポケットから少しだけ携帯を出して見ると、美郷さんと表示されているのが見えた。どきりとした。もちろんそんなはずはないのだが、僕が美郷さんに嘘をついてダークガーデンに来ていることがバレたような、そして、ホップに僕と美郷さんが関わりを持っていることがバレたような気がした。僕が携帯を取り出すのを見て、ホップはハテナマークを浮かべた。僕がホップをお腹の辺りに抱き寄せるとハテナはハートになり、ホップは僕に甘え始めた。そんなことをする必要はないのだけど、僕はその隙にメールを確認した。僕はそれを見て、改めてどきりとした。
『クリスマス、予定空いてる?』
 目の前に、ハートマークが浮かんでいた。


 クリスマス当日、僕と美郷さんはオムライス専門店に来ていた。駅に集合したのが十九時くらいだったので、店に入ったのは十九時半くらいだったと思う。正直、ここでの出来事はよく覚えていない。美郷さんが白くて綺麗なセーターを着た上に銀のネックレスをしていて、オムライスがおいしくて、あまり弾まない会話をしていた。特製ソースのかかったオムライスを僕は食べたのだけど、何かの味に似ているが、それが何の味だったのか思い出せなくて、
「これ何かに味に似てる。なんだろう」
 と言って、会話のない時間を誤魔化した。実際に思い出せなかったのだけど、それを口に出すのは自分でも珍しいことだと思った。美郷さんにも一口食べさせたけど、美郷さんも「なんだろう」と言って首を傾げた。それからしばらく黙々とオムライスを二人で食べていて、僕は、
「そうだ、卵かけご飯だ」
 と言った。それから先は何も覚えていない。
 その帰り道、美郷さんとコンビニに寄った。僕は何も買わなかった。美郷さんは缶チューハイを二本買っていた。レジで美郷さんは運転免許証を見せていた。そこで初めて美郷さんが二十三歳であることを知った。僕の六つ上だった。僕は漠然と二十歳くらいだと思っていたのだけど、運転免許証の写真の美郷さんはちゃんと二十三歳の顔をしているように見えた。
 コンビニを出たあとは公園のベンチに座って、二人で缶チューハイを飲んだ。それぞれ桃と葡萄のチューハイだった。僕が葡萄で、美郷さんが桃を選んだ。こんなにお腹もいっぱいで、缶チューハイ一本くらいじゃ酔わないだろうと思っていたのだけど、意外と頭がくらくらした。僕は缶を一つ空けるくらいに酒を飲んだことがなかったので知らなかったが、僕はお酒に弱い方なのだろう。美郷さんは、僕に肩を寄せていた。この人も女なのだと思うと、なんだか馬鹿馬鹿しいと思いつつも、緊張している自分を自覚した。ここでは、チューハイの味についてしか話さなかったけど、それもまた覚えていない。
 その後、僕たちは駅に向かった。駅に向かう途中、美郷さんが小さな声で「手を繋ごう」を言った。あぁ、やっぱりこの人は僕のことが好きなのか、と思うしかなかった。もし違ったら、とも考えたけど、酒のせいもあってかその先を考えることを諦めていた。手を繋ぐと美郷さんは「こうがいい」と言って、お互いの手を所謂恋人繋ぎの形にし直した。僕が損をせずに美郷さんが救われるのなら、という名目のもとで、僕は美郷さんと手を恋人繋ぎにして駅に向かった。僕たちの他にも、同じように恋人繋ぎをしたカップルを何組も見かけた。僕もその中の一人だと考えると手を振り払いたくなったが、我慢した。
 駅に着くと美郷さんは改札へは向かわずに、駅前の休憩所の中に入った。僕もそれについて行く。休憩所の中に僕たち以外の人はいなかった。立方体に近い形をした休憩所だった。四隅の木の柱とベンチの木以外は白かった。壁も床も、少し汚れた白だった。入って正面の壁にはシンプルな円形の時計があって、右手側の壁には電車の時刻表、左手側の壁には外国の町並みの中を一人泣きながら歩く子供が描かれた絵が飾ってあった。その絵の下のベンチに美郷さんは座ったので、僕はその隣に座った。
「ありがとう」
 と美郷さんは言った。なんと答えていいのかわからないので、僕は黙って床の汚れを見ていた。何の特徴もない汚れで見る価値なんてものはなかったけど、そこしか視線の逃げ場がなかったから僕はそこを見ていた。
「わかってると思うけど」
 と美郷さんは切り出した。
「あたしは真木くんのこと好きだよ」
「はい」
 あたしは、が浮いて聞こえた。わざわざ言ったということは、僕にその気がないこともわかっているのだろう。
「でも、付き合って欲しいとは言わない。ただ一緒にいられればいいんだ。だから、いつもみたいにチャオガーデンの休憩所で会って、少し話ができればいい。これからもあたしと会ってくれる?」
 僕の頭の中は真っ白だった。ただ、答えなくてはいけない、とだけ漠然と思っていた。この文字列は何の意味も持っていなかった。視界に映る床の汚れだけが、僕の認識の全てだった。
 僕は美郷さんの方を見た。美郷さんは僕の目をじっと見ていた。目を離したら僕は思ってもいないことを口に出してしまいそうだったから、僕も美郷さんの目をじっと見た。そこでようやく僕の頭は動き始め、意味のない文字列を振り払うことができた。
 これからも美郷さんに会うか、という問いは難しい問いだった。僕が会っているのは美郷さんではなく、ホップなのだから。それを言ってしまったら美郷さんは傷つくだろうし、ホップと会っていると言うのも気が引ける。ただ、結果的にホップに会うということは美郷さんにも会うということだから、会うと言っても良さそうだった。
 でもこれがうっかり、チャオガーデン以外の場所でも会おう、ということになっていったら、僕はそのとき断れるのだろうか。現に今日はチャオガーデンに行っていないのに、こうやって一緒に夜ご飯を食べて、一緒に酒を飲んで、この休憩所で話している。クリスマスだから、という理由があるにしても、この理由がバレンタインデーだから、ホワイトデーだから、ゴールデンウィークだから、夏祭りだから、にならない保証なんてない。いずれは理由がなくても「会おう」のメールだけで会うような関係になるかもしれない。
 いや、それが何だと言うのだろう。僕は損なんてしていないし、それで美郷さんは救われるのだ。ホップとも会い続けることができるし、あわよくば美郷さんとホップと繋ぎ合わせることもいずれできるかもしれない。僕が少し我慢をするだけで、誰もが救われるかもしれないのだ。そう、これでいい。
「君が少し我慢をする? ふざけたことを考えるね。雨なんていつだって降っているものさ」
 ミスターの声が唐突に聞こえた。
「雨を見ようとしない美郷さんにとっての偽物の太陽に君はなろうとしているんだ。君があれほど嫌ってきた馬鹿の言いなりだ」
 確かに美郷さんは雨を見ようとしないのかもしれない。でも、それは嫌というくらい雨を見て、雨に打たれてきたからだ。僕が今まで罵ってきた馬鹿の中に美郷さんを含めるのは盲目的だ。
「そういうことを言っているんじゃない。君が偽物の太陽になろうとしているということ自体が、雨を見ようとしない馬鹿を肯定すると言っているんだ。そもそも、君は偽物の太陽になることすらできない。彼女の偽物の太陽になってやれるくらいの器があるのなら、君はもっと早くにあの森の木の根元から立ち上がることができていたはずだ」
 でも、あの頃の僕とは違う。僕は一歩踏み出し、ホップと出会い、美郷さんと出会った。その現実の中で得た変化をもって、この現実を打破するのだ。それが真っ当な判断というものではないか。
「仮に、君が彼女に光を与えることができたとして、君程度の光で彼女がホップを愛するようになると思うか? 君はもう気づいているだ。美郷さんはこのままじゃきっと変わらないし本当は面倒臭いけど、可哀想な人が自分に好意を持って接してくれるから相手をしてあげているだけだ、ってことに。君は結局、目の前の現実に妥協をしているだけで、打破なんてしようとしていないんだ。だから、自分にとって良さそうな部分が少しでもあればそれを言い訳に今のままでいいんじゃないかという結論を導き出してしまうんだ」
 例えこれが妥協だったとしても、結果として救える可能性があるのならそれを選ぶことは間違いじゃない。可能性という言葉を僕に持ち出したのはミスターの方だ。道の先にある可能性にかけて、全員が幸せになれるのならそれが一番いい。
「現実への立ち向かい方を間違えるな。可能性というのは現実の中だけにあるんだ。君が今見ているのが現実なのかどうか、考えればすぐにわかるだろう。いいか、大輔。“ホップを救えるのは美郷さんしかいない”。ホップが美郷さんのことを愛しているのは君の問題か? 美郷さんがホップのことを嫌っているのは君の問題か? 違うだろう、それはあの二人の問題なんだ。全員が幸せになれる? 論外だ。身の丈に合わないことをしたところで、いずれ君は本当の自分を隠せなくなって余計に彼女を傷つけるだけだ。ホップがいる現状に満足してホップを幸せにできないままだ。君が見るべきなのは道じゃない、君の足だ」
 僕はもう何も言えなかった。ミスターの説得は正しい。間違っているのは僕の方だ。人の周りには常に道があって、どこを歩いても道の上にいるように僕には見える。道の上を歩くのは楽しく、辛いことかもしれない。でも、それを道の上だと思って見ると途端にそれらは魅力を失って、僕はどの道にも進まずにいた。でもミスターは僕の中にある漠然とした可能性を信じて、歩き始めるのをひたすら待った。そしてその漠然とした可能性は様々な運を巻き込んで僕の足を動かし、どの道にも乗らずにダークガーデンに辿りつかせた。そして僕はホップに出会った。ところが可哀想な美郷さんが近くにあった道の上で泣いているものだから、僕はその道の前で立ち止まってしまったのだ。ミスターは立ち止まった僕を見て、ふざけるなと怒った。当然のことだろう。僕が今まで動かずにいた理由はどこへ行った? 僕の足はとっくにホップに向かって動き始めている。僕の前に道はない。そして僕はホップの幸せだけを掴まえるのだ。
「僕はホップのことが大好きなんですよ、美郷さん。ホップが美郷さんのことを大好きなようにね」
 僕がそう言うと、美郷さんは「うん」と頷いた。きっと、彼女はわかっていない。僕が言ったこと、僕が次に言おうとしていること。
 これは僕の責任なのだ。美郷さんのわがままではなくて、僕のわがままのせいなのだ。でも、こうなるのもしょうがなかったことなのだ。僕はそういう人間だったのだから。これが、僕の足の進む方向なのだから。
「だから、これ以上僕たちが会うのはやめましょう」
 美郷さんは目を少し大きくして、すぐに目と口を細めて、下を向いた。そして、
「ごめんね、迷惑かけちゃって」
 と言った。言い終わる頃には涙を流し、発音もできていなかった。その後美郷さんはぼろぼろと泣いた。下を向いて、両手で顔を覆った。
 僕は立ち上がって、休憩所を出た。出るときに、もう一度だけ休憩所の中を見た。街の中で泣く子供の先で、美郷さんが泣いていた。
 美郷さんは、道の上にいたのだ。


 黒い人はあの硬そうなものでタマゴを叩いた日から、まったく来なくなった。それで僕は寂しい思いをしていたのだけど、それから何日かした頃に美郷が来た。僕は嬉しくてたまらなくて、ダークガーデンに美郷が入ってきたときにすぐに走って行った。美郷は僕を突き飛ばさずに、初めて会ったときみたいに僕を撫でてくれた。
「ごめんね、ホップ」
 美郷は泣いていた。美郷が泣いている理由はわからないけど、僕はとにかく美郷の胸に抱きついて、泣き止んで欲しかった。
 しばらくすると美郷は泣き止んでくれた。僕は嬉しくて、美郷の手に頬をすり寄せた。美郷も僕の頬を撫でてくれた。
「真木くん、ホップのこと大好きだったんだって」
 真木くんというのが黒い人のことだとわかった。知ってる、黒い人は僕のことを大好きだ。
「ホップ、あたしのこと大好きだったんだって」
 また美郷は泣き出した。そう、僕は美郷のことが大好きだ。だから、僕はずっと美郷と一緒にいたい。僕はまた美郷の胸に飛び込んだ。
「一緒に帰ろう、ホップ」
 僕は幸せだった。


 年が明けて冬休みが終わる頃、僕はデパートに来ていた。デパートは鏡餅やらイルミネーションやら福袋を買いに来た客やらでごちゃごちゃしていた。こういったものの楽しみ方は、未だにまったくわからなかった。人混みを避けて、エレベーターの前に立った。エレベーターの前にも人がたくさんいた。でも、地下へと向かうエレベーターに乗ったのは僕一人だった。子供がチャオを飼いたいと言って、買いに来る親子連れがいても良さそうだったけど、僕は一人で地下に向かっていた。
 休憩所にも誰もいなかった。受付の人だけは変わらず、いつもの女性だった。彼女は「いらっしゃいませ」と言った。僕は何も言わず、ガーデンの扉を開けて、まっすぐダークガーデンに向かった。
 ダークガーデンの中に、ホップの姿はなかった。覚悟はしていた。寧ろ、そうであることを望んでいた。ホップはきっと、美郷さんに引き取られた。
「これが幸せ?」
 ミスターが僕に問いかけた。僕はダークガーデンの中にホップの姿を隈なく探した。墓の後ろも、鳥籠の中も、池の中も探した。もちろん、どこにもいなかった。他のダークチャオたちが、僕を不思議そうに見ていた。
 そして、僕は探している途中に、ようやく一つの大きな変化に気づいた。銀色のタマゴが割れていたのだ。かつてはあれほどまでに存在感を放っていたのに、今や気づかないほどに背景に溶け込んでいた。割れた銀色のタマゴのそばには、銀色のコドモチャオがいた。僕は池を越えて、コドモチャオのところまで行った。コドモチャオは僕を見てきょとんとしていた。撫でると、ハートマークを浮かべた。可愛らしかった。
「ごめんね、飼うつもりはないんだよ」
 そして僕はコドモチャオを思い切り蹴飛ばした。コドモチャオは池を越えて、砂利の上に転がった。すぐに体を起こして、すすり泣きを始めた。僕はまた、コドモチャオのところまで行って、その頭を撫でた。
「僕、またここに通うよ」
 そう言ったところで、涙が溢れ出た。コドモチャオと一緒に、声をあげて泣き続けた。
「大丈夫だよ」
 ミスターが言う。
「雨なんていつだって降っているものさ」
引用なし
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