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No.2
 冬木野  - 11/5/27(金) 13:11 -
  
 そして翌日。お世辞にもおでかけ日和とは言えない曇り空の下。
 何が何やら把握し切れぬまま、結局所長から寄越された仕事(っぽいの)を片付ける為に、朝早くも電車に揺られる事になった。
 試しに起きてすぐに所長に連絡を取ったが、案の定応答は無し。頭から爪先まで意図知れず。実に納得の行かないまま今日一日を潰す事に相成る。

 勿論、何も知らないまま目的地に行こうとはしなかった。駅へ向かう前に一度事務所へ寄って、私の行く目的地はどのような場所か、そこには誰がいるのかという事を調べてもらった。というか、調べさせた。所長室で暇してるハッカーに。
「いや、それくらい自分で調べればいいし……ハッカーじゃなくてもわかるし……あと、どっちかっていうとクラッカーだし……」
 ぐちぐち言いながらもカズマが調べたところによると、そこには所長の言うとおり事務所があった。開業して数年も経ってないという。
「なんの事務所?」
「えーっと、探偵事務所だね」
 だそうだ。ウチも探偵業務みたいな事をする機会は多いらしいが、こっちはれっきとした探偵がいるという事だろう。
 とすると、所長はこの事務所にいる探偵に用があるのだろうか。何か依頼したい事がある? いや、一番有り得ない。何か調べたい事があるなら自分で調べられる筈だ。この探偵にしかわからない事でも無い限り。……とすると、そういう事なのだろうか。
 だが、もしそうなら私に依頼内容を伝えていないのはおかしい。所長はただ「会ってこい」としか言ってきていない。
 では、いったい何故?
 ――その答えを、私は遥かな後に知る事となる。


____


「あー、長かった」
 多大なる疲労感と多少の苛立ちを抱えた私は、ようやく辿り着いた目的の地にて見つけたベンチに腰を降ろした。
 ここまで来るのに、異常なまでの時間とか体力とかやる気とかガッツとか使った気がする。つまるところ私個人のエネルギーが物凄く消費されたという意味。

 その理由は、この目的地へ向かうにあたっての交通の便の悪さにあった。
 まず、この町には駅が無い。これは事前情報として知っていたので、バスでも見つければいいかと思っていた。だが、いざ電車を降りてみるとその町へ行く為のバスが見当たらない。
 そういうわけで、仕方なくタクシーを利用する事になった。そこで運転手に目的地である町の名前を言うと、運転手は少しの驚きを含めた声で言った。
「お客さん、あそこへ行かれるんですか」
 そう言いつつ、文句無くアクセルを踏み込んだ運転手さん。私はその言葉が気になって話を聞いてみると、躊躇うわけでもなく話を聞かせてくれた。
「あそこはね、人が居ないんですよ」
「人が?」
「そうそう。ゴーストタウンって言うんですか? そりゃちょっとは人がいるのかもしれませんが、おおよそ違いないでしょう。なんでも、その町を支えていた産業が衰退しちまったみたいで。それと交通の便の悪さが相まってみんな別の土地に足を運んじまったんでさぁ」
 それを聞いた私は、当然色んな不安が過った。だって、ゴーストタウンだぞ? そんなところに行ってどうするんだ? 所長の言う探偵事務所には、今も本当に人がいるのか?


 それから異常なまでに長い時間をかけて、ようやくこのゴーストタウンにやってきた。
 運転手が言うには、この町は「エピストロエイジス」と言うらしい。どうも英語っぽくないが、由来に関しては運転手さんも知らないらしい。興味は少しあるが、聞いても誰かに話すほどのネタにもならないだろう。それにしたって噛みそうな名前だし。覚えにくいし。
 話に聞いた通り、実に交通の便が悪かった。朝早くに来たっていうのに、もう軽くお昼を過ぎてしまっている。そんなに時間はかからないだろうと高を括ったのが間違いだったらしい。そのせいで、私はとんだ大誤算をしてしまう。
「昼食、どうしよう」
 あの運転手の言うとおり、ここがゴーストタウンだと言うのなら。
 私は改めて、人の姿が皆無な寂しい町を見回した。どの店もシャッターを閉めているし、照明も点けていない。どこもかしこもがらんどう。どっちかっていうとシャッター街じゃないのか。
 何はともあれ、飯が無い。
「……くそっ」
 私はベンチから立ち上がり、自分を奮わせた。
 こんなところでぼーっとしてたら飢え死にしてしまう。せめて目的の探偵事務所に誰かがいる事を祈って、あわよくば食事にありつけ。
 我ながら卑しい奮起の仕方だったが、他に手は無かった。


____


 目的地へと歩く最中、私の目は「無人の町」という見た事のないものに釘付けになっていた。
 この町の規模は、私のいるステーションスクエアとは当然比べ物にならないほどこぢんまりとしているが、それでもある種立派な「都会」と言える。
 商店街の規模もなかなかに大きいし、最大で10階建てくらいのものだがビルの姿もある。体裁としては都会のそれだ。活気が無い、という点を除けばだが。
 人がいないというだけで、これほどまでに寂しい町並みになるのだなと、私はただひたすらに関心と孤独を覚えて溜め息を吐いていた。

 俗に言うシャッター通りを抜けた先には、大きな公園が一つあった。中央に立派な時計塔と噴水を構え、芝生や木々といった緑に溢れ、色とりどりの花が咲いていた。……んじゃないかな。花、枯れてるけど。きっと世話をする人がいなくなってしまったからだろう。生えている木も心なしか元気がないように見えるのは、きっと二酸化炭素が不足してるからかな。植物学には詳しくないけど。
 時計塔を見ると、すでに二時を回っていた。今もちゃんと機能しているのか甚だ疑問だが、多分間違ってはいないだろう。朝早くとは言ったが私は何時に家を出たかなと、時間という存在が私の中で少しあやふやになっていた。


 その後に足を踏み入れた商店街と住宅街の狭間。しばらく歩くと目に見えて寂れている様子が手に取るようにわかっていた。
 だんだん私の心に陰りが差し、少し落ち着かなくなる。この調子じゃ探偵事務所の人どころか、事務所そのものが見つからないんじゃないかと。町中で遭難なんて情けない事になるんじゃないかと、そんな間抜けな心配をしていた。
 勿論、そんな事は有り得ない。携帯電話も持っていない私だが、連絡手段が無いわけではない。私の頭に装備された白いカチューシャを使えば、もしかしたら誰か応答してくれるかもしれない。いや、多分。きっと。
「はあ」
 この大きな溜め息が、信頼性の程だ。

 そんな私に、ちょっとした希望が見えた。
「あれ……」
 突然、遠い視界の先で何かが動いたような気がした。
 気になってその方向へ向かってみると、確かに人影のようなものが見える。
 更に近づく。……間違いない。それは確かに人間の後ろ姿だ。この町に、私以外にも誰かがいたんだ。
「すみませーん!」
 たまらず私はその後ろ姿に向かって叫んだ。その人影は立ち止まり、驚いたように振り返って声の主たる私を探す。それにこちらから応えるべく私から近寄った。
 人影の正体はかなり若い女性だった。背中まで伸びた長い髪と、寒さ対策か厚いコートに身を包んでいるのが特徴的だ。大人びてはいるが成人してはいないように見えるその人は、右手に大きめのビニール袋を携えており、まるで買い物から帰っている途中のようだ。この辺りに開いてるお店なんてあるのかと気になったが……あれ。
 この人、どこかで会った事があるような気がする。
「何か用かしら?」
 思わず女性の顔をまじまじと見ていたら、変なものを見る目を向けられてしまった。慌てて当面の目的を達成すべく話を切り出す。
「あの、この町の住民ですか?」
「ええ」
 その言葉で、私の心に一筋の光が差す。
「この辺りに探偵事務所があるって聞いてきたんですけど、知りませんか?」
 それを聞いた女性は、また一つ微かに驚く。
「……知ってるわ」
「本当ですか!?」
 条件反射でぱぁっと喜びの表情が溢れ出た。良かった。こんな辺境の土地(?)で飢えて倒れるなんて事がなくて本当に良かった。
「あの、どこですか! 差し支えなければ、是非」
 多分、意識しなくても悲願の目をしていたのであろう。目の前の女性はたじろぎ、困った顔で少し考え頷いた。
「いいわ。案内してあげる」
「ありがとうございます!」
 たまらず私は頭を下げた。それを見た女性がようやく可笑しいと思ったか、堪えきれずに薄らと笑った。


____


 かくして、私は買い物帰りの女性に連れられて商店街と住宅街の狭間である道路を歩き、ある大きな建物の前に止まった。どこか古臭いというか、時代が違うような建物だ。外から見ると壁と窓しかない、なんとなく色褪せたようなレンガ造りの外観をしている。全体的に赤茶色っぽい、というのが私の下した端的な印象だ。抽象的だけど。
「ここですか?」
「ええ」
 女性が入り口のドアを開けて入り、私もそれに続く。
 まず目に入ったのは、マンションのそれと似ているエントランスだった。奥の通路にはポストやドアもあるし、すぐ近くには階段もあった。掲示板の横に見取り図があったのでチラ見してみると、どうやら三階建てらしい。
「ここって集合住宅なんですか?」
「そうよ。元々は宿泊所にする予定だったみたいだけど、途中で気が変わったみたいね。その影響で、イギリスとかで言うアパートメントと同じような感じに出来上がったみたい」
「へぇ……ってことは、探偵事務所って」
「そうよ。事務所なんて言ってるけど、自宅で仕事を請け負ってるから名前だけなの」
 なるほど、ウチとはスタイルが違うらしい。まぁ探偵なんてしょっちゅう依頼が舞い込む仕事とは思えない、という先入観がある。そう言った意味では自宅でノンビリしながら客を待つ、というのは合理的かも。ウチの場合はみんなあの家を半ば家のように扱ってるけど。
 物珍しい目でアパートメントを眺めながら、女性の後を追って階段をあがる。最上階の三階へとあがり、通路の奥をひたすら進む。そして一番奥にやってきたところで、女性はそこのドアを開いた。
「さあ、どうぞ」
「……えっ」
 まるで我が家の戸を開けるかのような一連の動作。その意味を認識するのに、私はやや時間を要した。
「まさか、探偵って」
 答えを言う前に、女性は先に中へ入ってしまった。私は慌てて後を追って部屋にあがらせてもらう。
 話の通り、中は結構広くて小奇麗だった。目についたのは大きなデスク一つ、中央に長方形のテーブルとそれと囲むようにして置かれたソファ。それを見て小説事務所の所長室を思い出すが、あっちとは違ってこっちはそれなりに気品を感じる。床はフローリングじゃなくて絨毯だし、大層な本棚や厚い本もあるし、不粋に冷蔵庫とか設置してないし。なんというか「応接間です」と言われてちゃんと納得できる。あっちは「居間っぽいトコです」って感じだし。最早私は感動さえしていた。
「ようこそ、未咲探偵事務所へ」
 女性は「どうぞ」というふうに手をソファの方へ向けていた。
「あ、お邪魔します」
 私も会釈をして、デスクから見て右側のソファに座る。所長室に入り浸っていた名残か、あそこにいる時と同じ場所に。
「ちょっと待っててね。コーヒーとお菓子を持ってくるから」
 そう言って女性は奥のドアの方へと消えた。
 コーヒーを待っている間、私は部屋の中を見回しながらぼーっと考えに耽っていた。
 未咲探偵事務所。ミサキ、というのは名前だろう。あの女性の名前だろうか? しかし、ミサキというのは日本人の名前だ。さっきの人は少しアメリカ人っぽく見えた。恐らく別人だろう。
 では、未咲さんという日本人が探偵なのだろうか。その人は今、在宅中なのか。
 そもそも私の目的は、所長に言われた通りこの事務所にいる人と会う事だ。明確な目的はわからないが、とりあえず重要そうな人物とは顔を合わさなければならない。しかし……。
「わかんないなぁ」
 ついつい向こうの事務所にいる時のように、姿勢を崩してソファの背もたれに体を預けた。
 何度噛み砕いても意味がわからない。何故所長は重要な事を何も伝えなかったのだろう。そういう性格、と理由を付けるには根拠として成り立たない。話を聞け・探りを入れろ・依頼してこい等々、もっと伝えておくべきポイントがあるだろうに。
 所長は急いでいるのだろうか? 多分、それはない。どことなくポーカーフェイスに見える所長だが、それは単に無気力なだけで、感情を表に出すくらいはする。あの時の所長の会話には、急いでいる様子も焦っている様子も無かった。ただ淡々と用件を伝えさっさと帰る、別のクラスの生徒との会話のようだった。
 ではなんだ。所長は本当に、私をここの人間と会わせる事が目的なのだろうか? 理由は皆目検討つかないが……。
「お待たせ」
 そこまで考えたところで、奥のドアからさっきの女性が戻ってきた。コーヒーとクッキーを乗せたトレイをテーブルの上に置き、私の向かい側のソファに座る。
「お腹空いてるでしょ? ここ、来るのに一苦労だものね」
「はい。どうもすみません」
 何はともあれ、待望の食料だ。カップを手に取り、口につけてゆっくりと傾ける。口の中に広がってゆく苦味が……あれ? ないぞ。 むしろ、どっちかっていうと甘味がある気がする。
「あの……これ、ココアじゃないですか?」
「あは、ごめんなさいね。コーヒー買い忘れちゃって。いけなかった?」
 あは、て。ごめんの言葉が霞んでる。
「いえ、全然大丈夫ですけど」
 少なくとも驚かされはした。
 次にクッキーを手に取り、ほんの一秒だけ凝視してから食べてみる。ゆっくりと咀嚼するが、ワサビの味がしたりとかいうドッキリはなく普通のクッキーだった。おいしい。
 と、ふと顔を上げると目の前の女性が私の事をじっと見つめていた。
「あの、何か」
「あ、失礼だったかしら? 職業柄、他人を観察しちゃうから」
 それはなんとも探偵らしい。今まで探偵に会った事は無いが、それっぽい事はするんだなぁ。
「あなた、女の子よね?」
 その視線は私の頭上、カチューシャを注視しているのがわかる。
「まぁ、そうですけど」
「そうよね。女の子のソニックチャオなんて、あまり見ないのだけど」
 人をオスの三毛猫みたいな扱いしないでいただきたい。という本音をココアと共に飲み下し、私からも話を振ってみる事に。
「ところで、ここって未咲探偵事務所っていうんですよね。そうすると、未咲さんって」
「私ではないわよ」
「ですよね。じゃあ、未咲さんって人は今どちらに?」
 そんな何気ない質問だったのだが、あまり聞いてはいけない事柄だったか女性は困ったような表情を見せる。
「ごめんなさいね、今はいないというか」
「留守ですか?」
「まあ、そんなところ」
 らしい。どこか含みがあるというか言い淀んだ節もあるが、そこは他人様の家の事情みたいなものだ。深く追求しないでおこう。
「では、あなたは助手?」
「そうなるわね。今は主のいない探偵事務所だけど、簡単な仕事なら請け負ってるの。とは言っても、仕事なんてそう滅多に来ないんだけど」
 自嘲の笑みを浮かべて、彼女もココアを口にした。
 聞いた限りでは、この事務所の構成員は探偵の未咲氏、そしてこの女性――えっと。
「あの、お名前を聞いてもよろしいでしょうか?」
「名前? アンジェリーナ・ワトソンよ」
「ワトソン?」
 ワトソンって、あの?
 その姓名を聞いて敏感に反応した私に、彼女はやっぱりという顔で笑った。
「私の名前を教えると、みんな驚くの。偽名とかペンネームじゃないのかって疑われたりもするわ」
 そりゃ疑うってもんだろう。探偵助手でワトソンだなんて言われたら、誰だってかのシャーロック・ホームズの相棒たるジョン・H・ワトスンを連想する。あまりにもタイムリーな名前だ。
「酷いものよね。ひとたびワトソンと名乗ると色眼鏡を通した目で見られるんだもの。世のワトソンさん方もさぞ迷惑してるでしょうね」
「はぁ……」
 そう言っている割には、満更でもないかのように笑う彼女。きっとそんなやりとりを過去何回も行っていたに違いない。すっかり慣れきってしまったのだろう。
「それで、あなたの名前は?」
「私ですか? ユリと言います」
「ユリ?」
 今度は私の名前を聞いた彼女が考え込んだ。そのしぐさはとても微かなものだったが、私に違和感を感じさせるには十分なものだった。
「あの、どうかしました?」
「ううん、何も」
 すぐになんでもないような顔をして言った。はてさて、私の名前にどこかおかしなところでもあるだろうか。あまり見当がつかないが、少しだけユリと名のついた有名人を頭の中で模索してみた。しかし何度繰り返しても花の名前としか出てこないので、すぐに考えるのをやめた。
「さて、ユリちゃん」
「私これでも成人のつもりです」
「あら、いいじゃないちゃん付けで。可愛いわよ、女の子らしくって」
 恥じらいって言葉を考えてほしい。そりゃあ女の子らしさを求めてた昔こそあったがね。もういいよそういうの。
「あなたも私のこと、好きに呼んでいいから」
「じゃあ、ワトソン君」
「残念、それはここの主の特権よ」
「そうするともうネタがないんですけど」
「ネーミングセンスが貧困ね」
 なに客に対していけしゃあしゃあと失礼なこと言っちゃってんの。
「じゃあなんて呼ばれてるんですかあなた」
「アンジュって呼ばれてるわ」
「アンジュ? 普通、アンとかアンジェラじゃないですか?」
「アンジェラだと接尾辞を抜いただけになるわよ。ただの別人ね」
「はぁ」
 なんで英語の勉強になるんだ。
「じゃあ、アンはなんで?」
「気に入らない、だそうよ。あんこみたいだって」
 誰が言ったそんな仕様もない理由。ここの主とやらか。
「……じゃあ、アンジュさんで」
「よろしい。それじゃあ本題に入るけど」
 やっとか。ここまでにいったいどれくらいの無駄な時間を費やしたものか。部屋の中に時計があるか探してみたところ、ちょうどアンジュさんの後ろの壁に掛かっていた。三時が近い。ここに来たのが二時半だとすると……やれやれ。
「ユリちゃんは、依頼客なのよね?」
「ん……そういう事になるのかな」
「どういうこと?」
「いや、まあ」
 特に大した言い訳も用意していなかったので、あっさりと言葉を濁すに至ってしまった。だって客として扱われた手前、ただの冷やかしですじゃ通りが悪いし。ここの人に会いに来ましたとか言われても、赤の他人であるアンジュさんは困るだけだ。
「何か言いにくいことかしら」
「まぁ、説明し難いっていうか、なんていうか……」

 そんな言葉に窮していた私の耳に、電子音が鳴り響いてきた。
 なんというタイミングだろう。こいつはきっと所長からだ。
「あの、ちょっと席を外していいですか?」
「え? ……いいけど」
 どうしたんだ、という不審そうな顔で頷くアンジュさん。このカチューシャの着信音は基本的に音漏れしない。パッと見は本当にただのカチューシャにしか見えないわけだ。
 ソファから立ち上がって会釈したあと、私はそそくさと外へ退散した。


『今、どこにいる』
 昨日、眠っていた私を起こして言ったのと同じ言葉が聞こえた。やはり所長からだ。
「言われた通り、件の事務所ですけど」
『どうだった』
「どうだったって……」
 なんて答えればいいかよくわからない。とりあえず、アンジュさんと未咲さんとやらの事を話せばいいのか?
「えっと、事務所にいたのはアンジェリーナ・ワトソンっていう助手さんだけでした。あと、ここの所長の未咲さんは、残念ながら不在みたいです」
『何かおかしな事はなかったか?』
「おかしな事ってなんですか?」
 強いて言うなら、コーヒーの代わりにココアを出されたくらいだけども。それは報告する必要はないだろう。
『……いや、なんでもない。とにかく仕事は完了だ』
「はあ?」
 本当に会ってお終いかよ。何よ、これ偵察かなんかだったの?
「ちょっと待ってくださいよ。せめて納得のいく説明をしてもらわないと、わざわざこんなとこまで来た私の苦労が報われ」
『五十万でどうだ』
「ぶっ」
 報われるどころじゃねぇ額が飛び出した。たった一日どこか遠くへお散歩しただけで五十万とか、毎日お散歩したい。
『今すぐは無理だから、俺が帰ったら報酬を渡す。じゃあな』
 それで所長との通信は終わってしまった。しばらく今の所長との短い会話内容を頭の中で再確認する。
「……五十万かぁ……」
 相変わらず、小説事務所って狂ってるなぁ。
 考えた結果浮かんだのは、そんな感想だった。普通の人だったら五十万だなんて何かおかしいとか言い出すところだけど、長い間小説事務所に毒され続けた身としては平然と納得してしまう。慣れって怖いね。
「さて、戻らないと」
 無駄に時間を潰してアンジュさんに迷惑をかけるのも悪い。私は急いで探偵事務所へと戻った。


「で、何があったのかしら」
 そそくさとソファへと舞い戻ってきた私に、アンジュさんは開口一番事情の説明を求めた。
「ちょっと上司から連絡が来まして」
「連絡?」
 途端に疑わしいというような目で私の体を観察し始めた。財布ぐらいしか持ってなさそうな手ぶらなチャオじゃないのか、とでも言いたいのだろう。ここは追求される前に言い包めてしまえ。
「それで、お前に頼んだ仕事は都合により取り止めだって」
「何を頼まれたの?」
「ここの探偵さんへの依頼です。なんていうか、パシられたも同然なんですけど」
「……なるほどね」
「本当にすみません。なんか、勝手に上がりこんでお菓子だけ食べて帰っちゃうみたいな感じになってしまって」
 私流、詮索されないテクニック。それは謝ることだ。人は申し訳無さそうに謝られると、いいのいいのと謙虚になる癖がある。日本人のような感性を持ち、かつ他人ぐらいな関係の人限定だけど。
「ああ、いいのいいの。どうせお客さんに出す為のものなんだし。あ、タクシー呼んでおきましょうか?」
 ごらんのとおりである。通用してよかった。
「いいんですか? すみません、じゃあお願いしますね。それじゃまた」
「タクシー、来るまで時間があるわよ。外で待つの?」
「え? ええ。ここで待つのも悪いかなって」
「別に迷惑ではないわよ? なんせ暇だし」
「うーん……」
 確かにアンジュさんの言うとおり、中で待ってても構わないというならこの好意には甘えておくものだろう。わざわざ断る理由もないし、まだ外寒いし。
 ――ただ。
 私はチラと、アンジュさんの顔を一瞬だけ見遣った。予想通り、私の顔や手の仕草に意識を集中している……ような気がする。
 この様子だと、タクシーを待っている間に根掘り葉掘り聞かれてしまいそうだ。確かに私、素性と依頼内容を明かしていないからちょっと怪しいんだけども。
「やっぱり遠慮しときますね。お邪魔しました」
「ああ、そう……じゃ、またね」

 そういうわけで、なんとかこの場を切り抜けましたとさ。


____


 その後ステーションスクエアに戻った私は、すっかりと暗くなり始めた空に促されて事務所には寄らずにさっさと家に帰ってしまった。
 今回の物語が徐々に動き出すのは、その次の日からの事。
引用なし
パスワード
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小説事務所 「Repeatを欠けろ」 冬木野 11/5/27(金) 12:53
キャラクタープロファイル 冬木野 11/5/27(金) 12:56
No.1 冬木野 11/5/27(金) 13:02
No.2 冬木野 11/5/27(金) 13:11
No.3 冬木野 11/5/27(金) 13:16
No.4 冬木野 11/5/27(金) 13:21
No.5 冬木野 11/5/27(金) 13:26
No.6 冬木野 11/5/27(金) 13:33
No.7 冬木野 11/5/27(金) 13:38
No.8 冬木野 11/5/27(金) 13:47
No.110011100 冬木野 11/5/27(金) 13:55
チャオは後書きを残さない 冬木野 11/5/27(金) 14:38

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