●週刊チャオ サークル掲示板
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「チャオのかぜ」 スマッシュ 11/12/23(金) 0:00
水筒 スマッシュ 11/12/23(金) 0:01
童話 スマッシュ 11/12/23(金) 0:02
ヨーヨー スマッシュ 11/12/23(金) 0:03
デジタルオーディオプレーヤー スマッシュ 11/12/23(金) 0:05
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チャオのかぜ スマッシュ 11/12/23(金) 0:10
「チャオのかぜ」の感想コーナー スマッシュ 11/12/23(金) 0:13
はい。 それがし 11/12/23(金) 5:29

「チャオのかぜ」
 スマッシュ  - 11/12/23(金) 0:00 -
  
聖誕祭のために頑張って書きました><
引用なし
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水筒
 スマッシュ  - 11/12/23(金) 0:01 -
  
 毎日のように雨を見ている。梅雨入りが発表されたのはほんの数日前だ。しかし高井祐介にはいつだって外では雨が降っていたような気がしていた。五月下旬の長雨はまるで卯の花でなく彼の心を腐らせてしまったかのよう。思考からも鮮やかさは欠落し、色彩は常に曇天。心象を漠然と覆う不安が彼にとっての梅雨だった。明るくない世界、スピードに乗ったトラックが水溜りを引きちぎる音、濡れた分だけ体を冷やすズボン。不快な思いをするのに不便のない時期と言えた。
「おはようさん」
 声をかけられ、視界が蛍光灯で明るい部屋に戻される。「おは」と返しながら窓から佐伯通へ顔を移す。体を九十度右に回転させると斜め後ろの席にいる通と会話する構えになる。通は先端から雫を落とす傘を、布をまとめないまま傘立てに突き刺した。先に祐介が立てた杖のように整った傘が傾いた。通はそのことを気にしなかった。
「なあ天気予報見たか」
「見てないけど」
 椅子に腰を落とす。彼の視線は正面の窓に向いていた。
「そうか。放課後には晴れるといいんだがなあ」
 雨雲がどこかに行ってくれそうか見る通。音を聞くだけの祐介には先ほどから調子を変えない雨音が止む気はないと主張しているように感じた。
「何か用事あるのか、今日」
 晴れでも雨でも能天気な通だ。気にするのは珍しく思えた。
「家でさチャオ飼い始めたんだけどさ、妹がそのチャオをガーデンに連れてくってんで、俺がお守りをすることになっちまってよ」
 チャオ。祐介は懐かしい響きにどきりとした。
「珍しいな、今時、チャオなんて」
 その言葉に通は、だよなあ、と深く頷く。「妹がなんか、ペット飼いたい、って言い出してよ。ペット飼うこと自体は親も俺も賛成だったんだけどさ、あいつ、チャオがいいって駄々こねたんだよ」通は喋り出すと話が長くなる。祐介は彼の言っていることに耳を傾けるだけだ。たまに聞いているふりだけすることもある。今回はそのたまにには属さなかった。チャオというワードに引かれたからだ。「今時チャオなんてって思ったんだけどよ、結局ペット飼いたがってるの妹だし、じゃあそれでいいやってことにったんだが、しかしどこでチャオのことなんて聞いたんだかなあ」床に視線が向けられ疑問の様相。祐介の喋る間ができる。
「最近テレビにも出てこないしな」
 ラジオにも出てこないしネットでも話題になっていない、という印象があった。前は興味がなくとも耳にするほどだった。通もほとんど同じ見解のようだった。他に予想できそうなほどありがちなパターンは少ない。「大方チャオ好きなやつがクラスにでもいたんじゃないのか」と言うと「それで自慢してきたとかか」と通。「そうそう。それでもって影響された、と」
「まあそこんとこは別にいいんだがな、ガーデンに付き合わされるっていうのがよ。今回だけで済めばいいんだが」
「休日ごとに連れ出されたり」祐介がそう言ってやると、勘弁してくれと首を振って揺れる頭が段々沈んでいく。沈みきるとそのまましばらく戻ってこない。佐伯家ではそういうこともあり得るのだろう。
「ああ、そうだ」スイッチをオンにしたように、ぱっと顔面が現れた。「お前、チャオ飼ったことある?」
「え、あ、ああ、あるけど」
「そりゃいいや。じゃあ今日一緒に来てくれよ」
 どうして行かなきゃいけないんだ、と祐介は渋るものの、チャオを飼うのは初めてだから経験者にアドバイスをもらいたい、というそれらしい理屈や、一緒に来るやつがいないと正直しんどい、という本音など様々な理由でもって説得される。結果祐介はその勢いに負けた。
 アドバイザーを兼ねる道連れを早々に確保できて通は上機嫌だ。このまま外に出れば雨の水たまりを思い切り踏んで遊びそうなほどに。祐介ははねた泥水を浴びている気分になっていた。濡れた感触を気にかけるクラスの女子が靴下を脱いでいる光景が目に入ると、すっかり落ち込んだ靴下の水分が涙腺への呼び水になってしまいそうだった。

 雨は一切止まなかった。授業中何の音もなくなる瞬間、休み時間に視線の矛先をもてあました瞬間。彼らは隙を見つけては心に入り込もうとしてくる。本当のところ、雨を見て憂鬱な感情を引き出す自分がいるだけなのだが、それをわかっていても前向きにはなれない祐介だ。放課後になっても朝と変わらぬ表情の空。降り止まない雨はお先真っ暗であることを暗示しているのだ、とまでは思わないものの溜め息と共に傘を開く。
「ていうか、どこのガーデンに行くんだ?遠いのはごめんだぞ」
「大丈夫、大丈夫、近くだから」
 通が前を歩く。駅に向かって歩いていることに安心を覚える。それと同時に思うところがあった。高校に入学して、登校に電車を使うようになった祐介だ。その学校の近くのどこにチャオガーデンがあるのか、と気にかけなかったこと。知る必要はない。例えチャオを飼っていたとしても、通うのは自宅に最寄のガーデンだから。それでも以前の自分ならば場所くらい覚えたのではないだろうか。今と昔の自分の違いに抱くのは、複雑な感情だ。成長とは違うだろうから。絶えず傘が叩かれて周りの音に鈍感になる。無数の水滴がカーテンになって視界を遮る。通も話しかけてはこない。その環境が思考の中に祐介を落とす。あの頃は楽しかった。小さい頃の自分を振り返ると祐介はいつもそう思う。成長は人生をつまらなくするのだろうか。それは本当に成長なのだろうか。わからない。しかし祐介にとって時間の経過だけは間違いなく悪質なものだった。傘から垂れる雫が目に留まる。チャオのことが頭に浮かんだ。水や水滴を意味するマーク。それとチャオの頭部は似ている。その点だけに限らず、チャオはよく水と結びつく。それでも雨が祐介にチャオを思わせたのは随分久しぶりのことだった。
 駅を通り過ぎ、曲がり角を折れた先。チャオガーデンの施設が姿を現した。
「着いたぞ」
「へえ」
 図書館のような大きい建物だが、ビル群によって上手く隠れていた。そうするつもりはなかったのだろうが、祐介にはひっそりと目立たないようにしている風に見えた。建物に意思はないし、動くこともできない。冷めた現実とは裏腹に趣を感じてしまう。三年ぶりの施設だった。外観にチャオらしさはない。どこか市役所のような空気さえある。自動ドアが開き、中に入ると目の前にあるのは受付だ。その右には陳列棚に雑貨が置かれており、直方体の冷蔵ショーケースの中にはペットボトルや缶詰が入れられていて小さなコンビニの様相。二つ折り財布から小銭を探っている通に声をかける。
「水は?」
「あ、そうか。買わないとな」
 財布が畳まれる。そしてショーケースを空けペットボトルを一本取る。祐介は陳列されている物に目をやった。おもちゃ売り場で見られる物よりもサイズの小さいヨーヨーが売られていた。
 チャオもヨーヨーをやるのか。というか、チャオはどんくらいできるんだろうな。
 思いながら、受付にいる女性に入場料を払う。次に通がそれに加え二五〇ミリリットルペットボトルの料金も払った。受付左のドアを開く。開くと手前に岩があった。
「え」通が声を漏らした。祐介は無反応。そのまま右を見るとそこには緑が広がっている。チャオガーデンである。壁を隠すように背の高い岩や木が並んでいて、ここが室内であることを思わせない。チャオの住みやすい環境を提供するこの場所では、自然で埋め尽くされた景観を崩すからという理由でドアなどが見えにくい造りになっていることが多い。
「あれが妹さんか?」
 開けた空間に進みながら、それらしい人物を指差す。その先では小さな女の子が一人でチャオをいじくっていた。人差し指でチャオの顔やお腹をぷにぷにと押している。
「ああ、そう。あれ」通が声を上げて呼ぶ。「こころお」少女がその声に応じ、手を振った。祐介と通は少女の下に向かう。
 その間、祐介はチャオガーデンにいる人を見ながら、自分の想像より人が多いと感じていた。平日ゆえ人の入りは比較的少ないのだが、それでも二十人ほどがチャオの世話をしている。目立たなくなっただけでまだチャオ人気は続いているのだろうか。その考えをすぐに打ち消す。チャオガーデンの数が減ったから、一つ一つの来場者数があまり減っていないのだ。チャオに澱みのない空気を吸わせている人々の中にチェックのスカートの制服姿があった。祐介にはそのスカートに見覚えがある。先ほどまで目にしていたからだ。ブレザーの色は彼自身の物とほぼ同じで明らかに同じ高校の生徒であった。それも二人組で、今でもそういうことはあるのか、としみじみとした。
「どうだ?なんかあったか」心と呼ばれた少女は首を振って答える。「なんも。でもぷにぷにしてて気持ちいい」通が妹にペットボトルを渡すと、早速飲ませようとした。ふたをひねって開ける。そしてチャオを抱きかかえ、ボトルを口に当てて傾けた。この水もチャオを人が飼うために用意された工夫の一つだ。ペットであるため常にチャオガーデンにいるわけにはいかない。住むには適切とは言いがたい人間の住居にいる時間の方が長い。そのチャオの負担を減らすために、小まめにミネラルウォーターを飲ませることが薦められている。今も上質な水をチャオの体内に取り入れるはずだったのだが、むせてしまい、中断せざるを得なくなってしまった。
「ああ、ああ」
 下手なことをしたと咎めるような通の声。祐介はその通に尋ねた。
「水筒は?」
「え、水筒?」
 知らないのか、と祐介。チャオを飼う時、あるとないとでは大違いな物がいくつかある。その一つがチャオ用の水筒なのだ。ペットボトルから直接水を飲ませるのは少し難しい。先ほどのような失敗はよくあることだ。さらにチャオだけでペットボトルを持ち上げて飲むこともできない。そこでチャオの背の丈に合わせて飲みやすいように高さを調整した水筒が売られている。これにはストローがついているため、飲むために持ち上げる必要もない。ふたを取って近くに置いてやればチャオは自分で水を飲めるようになっているのだ。そのことを説明する。
「ないならストローをペットボトルに刺せば大分ましになるけど、あるわけないよな」
「当然ないな。ってかあれだ。水買った時ストローを一緒に渡せと」
 コンビニだとよくついてくるじゃんか、と彼が文句を言っている横から、水筒が差し出された。
「あの、これよければ」
 差し出したのはチェックのスカートの制服を着た少女だった。もう一つの腕でチャオを抱えている。ぽかんとする二人。空いた間に耐え切れなくなった目が泳いで、彼女は後ろにいた友人らしき制服の少女の方に顔を向けた。役目を引き受けたらしい。苦笑いしてから、八の字の眉をアーチ状に変えて言った。
「なんか同じ高校の人が来るとか珍しいなあって思ってたら、なんか困ってるみたいだったんで、でえ、この子、茜って言うんだけど、茜なら助けられるんじゃないかなあって」
「そういうわけなんで」
 茜という少女の方は無愛想な表情で水筒を持った左腕を突き出し続けている。緩まない瞳は黒い眼鏡とあいまって怒っているようにさえ見える。
「え、でもいいの?」
 祐介は眼鏡の少女に聞く。どうもお供に言われてやっているようだが、本人の意思はどうなのか。
「どうぞ」
 促すように、水筒が僅かに上下する。怒りというより早く事が終わってほしいと思っているのか。短い言葉からその空気を掴んだ祐介が水筒を受け取る。そしてやりとりを見ているだけだった心にリレーする。彼女は水筒の持ち主に「ありがとうございます」と会釈して、ふたの開いたそれをチャオの目の前に置いた。だがチャオは頭の上で浮いている球体をクエスチョンマークに変形させるだけだ。「あれ」と呟いた心。茜が彼女とチャオに近づき、屈む。何をするのかと緊張する男子二人。
「ちょっと見てて」
 しかし発せられたのは柔らかい声。水筒を取り、ストローを自分のチャオの口に運んだ。腕に抱えられているチャオはそこから水を吸い上げる。その姿を心のチャオに見せる。その様子を見て、「おお」というような感嘆の声をチャオは出した。ストローを心のチャオへ運ぶ。今度はしっかり口に含んで水を飲み始めた。
「こうやって、手本を見せてあげるとチャオはすぐ吸収して覚えるから」
「へええ、すごいな」
 感心する通。「昔は水を買ったらストローをつけたこともあったらしいんだけど、チャオガーデンに捨てて問題が起きたとかで用意されなくなったって聞いた」突然そのようなことを言う。彼女に話しかけられる前に言っていたことに対する発言だと、一瞬ぽかんとしていた二人が気づく。心に向かって「チャオを飼うのは初めて?」と聞く茜。それに対して彼が代わりに「家族ぐるみで初めてだ」と答える。それを聞いた彼女はふむ、と数秒考えて口を開いた。
「えっと、空気清浄機はある?」
 通へ質問。「ああ、必要みたいだから買ってた」と頷くと、茜は一気に喋った。
「じゃあ、水はこんな感じで、一日このペットボトル一本くらい飲ませれば十分。あとご飯だけど、外で売っているみたいにみかんとか桃とかアーモンドをチャオは食べるから。雑食だけど肉は基本食べない。熱い物も苦手。だから食べ物は果物中心。エネルギー源はアーモンドだけどチャオは軽くてあまりカロリー必要ないから、食べさせすぎちゃだめ。おやつであげるなら、みかんがいいと思う。アーモンドの代わりにバナナをあげてもいい」
 そこまで言うと、「後は」と再び思考に入る。
「二ヶ月くらいで歩けるようになると思うけど、それまでは床を綺麗にしておいた方がいいみたい。なんか、汚かったせいで体調悪した人とかいたから。あと、キャプチャされそうな動物がいたら近づけないようにしておくことと、自分から外に出れないように窓とかしっかり閉めておくこと。こんくらいかな」
 そこで区切りがつくと、今度は彼女と一緒にいた女子が喋った。「今時チャオを飼い始めるなんて珍しいよねえ」
「俺もそう思う」と言う通に祐介も「本当に」と首肯する。
「同じ制服の人なんて見たことないし、しかも平日だし、気になったんだよ」同じような理由で祐介も彼女たちが気になっていたことを思った。向こうの同じだったのか、と。「初めてだったんだ、なるほどね。でも、なんで今日来たの?」
「ああ、妹がな」せっかくチャオを飼い始めたのだからチャオガーデンにも行きたいと駄々をこねたのだということを言う。「で俺はそのお守りで」と説明するとそれに便乗して祐介が「その道連れに」とおどけた。「おいおいお前、昔チャオ飼ってたって言うから色々教えてもらう予定だったんじゃねえか」その必要はなかったけどな、と祐介は返す。
「茜はチャオ大好きだから仕方ないよ」と笑われる。その本人は佐伯家のチャオを抱っこしているところだった。どうするとチャオが喜ぶかを教えているようだが、声は先ほど水筒を渡す時より格段に弾んでいた。
「ああ、そういや君の名前は?俺、佐伯通。こいつ、高井祐介」名前を紹介されて、軽く会釈する祐介。「ああ、私、金本紗々」と彼女が名乗ると、「藤村です」とぶっきらぼうな声がした。心のチャオを抱っこして、ゆすって喜ばせているところだった。祐介はこちらの話を聞いていたのか、と驚きつつも声の調子とやっていることの不一致におかしく感じた。彼女の飼っているチャオが自分にもやれと飛び跳ねてねだる。それに応じて茜はチャオを心に渡して、自分のチャオを持ち上げた。上下に揺らしてはしゃぐチャオ。やがて高い高いをするような上下運動になる。ハートの形になった頭の球体が飛び回るように振れる。
 昔、似たような光景を見ていたと祐介は思い出す。自分も同じようにしてチャオを可愛がり、好かれようとしていた。赤ちゃんをあやすように持ち上げる大人を見たこともある。今でも茜のようにチャオに接する人がいることに胸が締めつけられたような気分になる。ブームに助けられて爆発的に普及したチャオだが、それも昔の話。今となってはあえてペットに選ぶ人は少ない。手間がかかるからだ。週に一度は豊かな自然と接するように推奨されている。例え近くにチャオガーデンがあるとしても、毎週そこに行かなくてはならないのは負担が大きい。だからブームの終わった今となってはチャオの影はとても薄い。チャオに関心の薄い世の中で、ただこの場所だけチャオへの関心が濃く残っている。祐介の頭の中にいつか聞いた話が蘇った。チャオガーデンの入場料が安価であることについての話だ。毎週来なくてはならないことを考慮してのことだが、低価格の実現は国の支援によって成り立っている。チャオガーデンへ連れて行きやすくする理由。それはチャオが有害な生き物だからだという。他のペットを飼っている人々からすれば、チャオのキャプチャ能力は脅威でしかない。そのチャオを少しの間でも一箇所に閉じ込めるために用意された施設、世の中からチャオを隔離するための鳥かご、それがチャオガーデンなのだと。愛くるしい姿をしているこの生き物に恐ろしい能力があるのは事実で、その力が他の生き物に向けられないように国が施設を維持できるよう協力していることも納得できる。しかし祐介には今のチャオガーデンは流行の波から彼女たちを守る砦めいて見えた。きっとこちらの方が弱者に違いない。外では雨が熱を奪ってしまおうと降り続いている。ここだけが晴れているのだから。

 ガーデンから出ると、出入り口の向こうの外の暗さが目に入る。自然に囲まれ、天井には晴天の絵が描かれているあの場所にいると本当の天気との落差を意識せずにはいられない。妙に暗く寂寞として見える。濡れてしまうだろうが、空模様を仰ぎ見てみたいとも思う。作られた空と本物のそれにどれだけの違いがあるのだろう。しかし知り合ったばかりの女性が二人三人いる手前、行動に遠慮が出る。しかも二人は自分たちと同じ二年生だと言うではないか。他人でありながらどこか近さを感じさせる関係は羞恥心を多分に呼び起こした。だから結局普通に傘を差して、遠くに見える空模様だけ眺める。向こう側まで広がる灰色の雲で世界が狭く見える。傘の上では水滴が増え、重なって流れ、垂れる。下を見れば水溜りに映る世界は真っ暗だ。楽しい気分になれそうもないが、祐介はそのおかげで一つ思い出した。チャオによる被害から生物を守るためにチャオガーデンがあるという見方に否定的な人が多少いることだ。他の生き物を守るだけならばわざわざ国の金を投じることなどせず、チャオを飼うことを禁止すればいいのだ、と。だから彼らはそうまでして国民がチャオを飼わなくてはいけない理由があるのではないかと考えているらしい。国の本当の狙い、それらしいものがネットなどでまことしやかに噂されているという話だ。中にはチャオを大事にしないと災害が起こるなどという荒唐無稽な噂まであるようだ。思い出しはしたが国が何を考えているかなど祐介にとってはどうでもいいことだった。そのようなことを考えている人々の心にあるものと自分の中にあるものが同質なような気がすることの方がよほど重大で、溜め息しか出なくなった。他人にとってはどうでもいいこと。佐伯兄妹だけ駅とは別方向に去っていく。駅前で茜が集団から外れた。雨に濡れないようにチャオを強く抱き寄せているのが印象的だった。傘の存在感がなければそのまま雨の町に霧散してしまいそうに見えた。そう祐介が感じてしまうのは彼女がチャオを持っているからだ。いつか消えてしまう。今すぐにでも。祐介にとってチャオとはそういうものなのだ。残った二人。何か話した方がいいのだろうかと祐介は思ったものの、乗る電車が違ったために別れの挨拶だけ交わして一人になった。一人。安心と物寂しさが同居する。なにか面白い会話をしたかったような未練がある。寂しさや空しさがなくなればいいのにと祐介は思った。雨は彼にとって賑やかなものではなかった。
 ドアが開く。中に入る。「ただいま」そう言いながら靴を脱ぐ。玄関の扉を閉めて傘を立てれば雨音はもう耳に入らない。家である。自室に入って電気を点け、教科書やノートの入った鞄を落としてブレザーを脱ぐと世界が霞む。自分のための空間に、一人。決して広いとは言えない個室全体が彼自身の心だ。漫画単行本や小説の類、それにゲームソフトが本棚に入れられている。ゲーム機は机の上に置かれていて、学校で配られたプリントはベットの下から積まれた一部が顔を出す。クーラーはないが、窓の近くには小型の空気清浄機が置かれていた。それが目に留まる。祐介自身、その存在を確かめるのは久々だった。学校の鞄のように部屋の中ではあまり注目しない存在である。三年前から部屋の主が触れていない機械は埃で覆われている。中学生のある時期から親は部屋に入ってきて掃除しなくなった。思春期の抵抗が勝利したのだ。それからずっと蓄積されてきた埃。確かに親は入ってきていないようだと把握するわけではなく、祐介の思考はこの機械を必要としていた生き物のことを思い出していた。もうチャオは飼っていない。流行が過ぎて祐介の両親は興味を失っていたし、彼もまた飼いたいとは思わなかった。だから使う必要のなくなった道具たちは見えない場所へと押しやられ、チャオの思い出に浸るきっかけは乏しい。昔この家には観葉植物まであったものだが、家の風貌というのはチャオ一匹いるかいないかで大きく変わるようだ。その変化を噛みしめるのはひとえにチャオガーデンに行ったせいだ。変わったのは家の中だけではない。世界中、自分も含めて変化してしまったのだ。現在に三年前の記憶が重なりながら、祐介は部屋を出た。台所へ行って母親に声をかけた。「チャオの水筒ってある?」

 曇り空。日が昇るのは早くなってきているが暗い。曇天は太陽光の通り道を徹底的に封鎖しようと試みている。今にも降りだすぞと言わんばかりの低い空。祐介は長い傘を左手に登校していた。歩いていると道路は点描のように色がついていく。髪や制服にもそれが触れていることを感じ、面倒だと思いながらも傘を差した。学校に着く。下駄箱の前で傘を畳み、床を軽く叩いて水を落とす。そして布をまとめボタンで留める。濡れた手はズボンにこすりつけ、上履きを取った。二階へ行き、自分のクラスを目指す。それまでに通るいくつかの教室。そのどれかに昨日の藤村茜や金本紗々がいるのかもしれなかった。それが祐介に横目で中を確認させる。しかしそれらしい姿は発見できなかった。別のクラスなのか、まだ登校していないのか、それとも見落としたのか。気になりつつ自分のクラスに入ればそこには佐伯通。その足だけで学校まで来られる彼の登校時間は流動的だ。向こうの挙手に答え、傘立てに向かう。傲慢な態度で居座っている傘はなかった。安全な場所を探す必要もなく、祐介はスムーズに傘を入れた。
「水筒、持ってきたぞ」
 言いながら席に座り、鞄を開ける。中から小さな水筒が出てくる。子供用の物にも見えるが、水色でふた部分などが黄色いそれはチャオをイメージした物だとわかる。この配色で普通の物と区別できるようにしてあるのだ。「おお、ありがとうな」そう言い通はふたを開けてストローがあるのを見た。それからふたを閉じて「ふうん」と水筒を眺めている。昨日自己紹介などをした後水筒を買おうとした通を祐介は引き止めた。祐介の家にある水筒はおそらくもう使うことがない。だからそれをもらってくれと言ったのだ。ただで手に入れられた通は勿論だが渡すことのできた祐介も何かが進展したような心持で嬉しい。不要だといえ持ち物を手放したことに変わりはない。それでも進展したと感じるのは渡した水筒の重さだけ抜けたものがあったからなのかもしれなかった。
「しかし昨日はラッキーだったな。女子二人に逆ナンされるなんてな」と言う通。「逆ナンパと言うのかあれ」口説かれたようには感じていない祐介に「そうじゃなかったらどうして話かけてきたんだよ」と返す。「絶対一目ぼれだって」と興奮気味。
「珍しいって言ってたし、レアモンスターって感じじゃないのか」
 氷の意見が鎮火する。怪物扱いだったのか、と恋愛とは程遠い言葉にテンションが著しく低下したのだが「いやしかしこれからの付き合いによっては恋に落ちる可能性だって十分にあると俺は思う」と食い下がる。しかし祐介は「そうかもな」と熱くならない。祐介に色恋と縁があるとは思っていないのだ。「可愛かったなあ二人とも」どちらかが自分の彼女になった想像をしているのだろうか。語調から深い感動が伝わってきた。「どこのクラスか聞いておきゃよかったなあ。ガーデンでまた会えるかねえ」溜め息をつきながら祐介は応じてやる。「土日ならいんじゃないの。普通休日に行くもんだし」
「ああ、なるほど。それじゃあ一緒に行こうぜ」
「どうして」
 答えず、いいじゃんいいじゃんと押せ押せの通。じろりと思考を巡らせて言う。「チャオの世話をさせて自分は女と?」調子のいい笑顔が眉だけ歪んだ。すぐに取り繕って言う。「ついでに妹もいかが」
「ふざけんな」
 祐介は突き放すのだが諦めず噛みついてくる。「まあまあ。チャオガーデンで遊ぶと思ってさ、いいじゃん。ゲームとかしようぜ」祐介はチャオガーデンでゲームをやろうとする神経を疑った。「お前賑やかな所苦手だろ。静かだしいいじゃんか」
 彼の発言にぴたりと止まる。
「待った。なんで苦手ってことになってるんだ」
 二人は知り合ってからまだ二ヶ月しか経っていない。学年が上がってからの付き合いだ。学校帰り寄り道をする程度で、休日にどこかへ遊びに行ったことはない。それなのにどうしてそう思ったのか。尋常ならざる観察眼があるのかと祐介は驚いていた。
「だってよ、人増えるとお前影薄くなるし」
 通の知り合いグループに混ざった時に確かにそうなっていた。しかしそれは自分だけ部外者のような感覚で居心地が悪かったのだ。繋げてきたのが遠い所で祐介はほっとしていた。
「まあ、その気になったら」
 歯切れの悪い返事で話題にけりをつけた。本心では迷っている。行きたいという気持ちはない。チャオを飼っていない自分がチャオガーデンに行くことに抵抗がある。チャオは悲劇の象徴に思える。それでも行きたくないと切り捨てることはできないためらい。チャオほど彼の心を揺さぶるものがないのも事実だった。そのために結局、少しならそこに小銭を投じるのも悪くないというところに考えが流れていった。
引用なし
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童話
 スマッシュ  - 11/12/23(金) 0:02 -
  
 土曜日。週休二日と決まっているが、体は律儀に早く目覚めた。夜更かしをしない体は安定する。起きた体で思うこと。チャオガーデン、どうしようか。行って誰もいなかった場合を考える。携帯を開いてメールを打った。居間で朝食を待ち、食べ終えて部屋に戻れば返信がある。
「よし」
 携帯を充電器に戻す。机の前でぼけっとする。漫画を読む。すぐにやめる。学校の鞄からクリアファイルを引き出し、鉛筆を持った。朝から宿題をやるのは珍しいと自分で感じつつ、やることは宿題ではあるものの初めて取る行動がどこか面白かった。始めるまでの抵抗がなければ終わりも早くなるのか。やり終えて携帯に表示される時刻を見ると、時間の経過がいつもより優しい。いつもと違うことが重なってまるで寝て起きる間に自分が優秀になったように感じながら祐介は「やること、なくなったぞ」と困ってしまった。部屋を見回す。時間の潰せるもの。漫画には手が伸びない。小説は勿論。机の端にどけられたゲーム機。数秒画面を見つめてからそれを引き寄せた。プレイヤーは自分の分身となるキャラを作成して戦っていく。以前作成したキャラを選んで冒険に出かける。強いと言われている武器を入手するために走り回る。しかし敵を倒していくのに骨が折れる。元々多人数でやるゲームなのだ。一緒にプレイする当てはある。通と彼の友人たちは発売前から買うと騒いでいた。それ以外にもクラス内で買った人はいるようでちらほらゲーム名を聞いていた。人気タイトルなのだ。祐介は今、誰かとプレイすることになった時足手まといにならないように準備をしているのだ。遊んでいると色々なことに気づいていく。モンスターの行動パターン、効率のいい倒し方。慣れていくにつれて、一回の戦闘にかかる時間もみるみる短くなっていく。やがて戦いに緊張感がなくなる。ルーチン通りにこなしていくようになる。こうなってくると人々の中では作業などと呼ばれるらしい。機械的にも見える攻略になるほど自分もゲームのプログラムになったみたいだと祐介は思った。ふと感じたのはプレイ時間の分だけ楽しさが削られていくような感覚。突き詰めれば突き詰めるほどやることは単調になっていく。刺激も減る。何も感じないゲームをやり続けることは時間の無駄でしかないのではないのか。楽しみは誰かと一緒にやる時だ。一人プレイはそのための前座だと祐介は承知している。しかしその時までにこのゲームに対する熱は冷めてしまうのではないのか。わからなくなる。自分はなぜこのゲームをやっているのだろうか。無造作な落書きのような思考で黒く染まっていく。自分のキャラの体力が尽きて、現実に引き戻される。祐介は電源を切った。

 窓の外を流れていく景色に変わりはない。空の雲が一面に影を落としているが窓を濡らすことはない。晴天にはならなかったものの休日に止んだこと、世間には嬉しいことのようだった。制服姿のいない電車、若者の集まる街とは逆方向とはいえ、利用客はそこそこいる。買い物帰りのような親子連れも乗っていた。チャオを抱きかかえている人はいない。チャオガーデンの減った今、電車を利用しないと行けないほど遠くなった人もいるはず。チャオ人気は自身の想像以上に廃れているのかもしれない。現実は凍えそうになることばかり。雨が体温を奪わなくとも十分なのだ。
 駅を出ると何かを考えるような間もなくチャオガーデンに着く。受付で払う入場料。安いから何度か行っても懐は痛まないと結論していたが、払う瞬間になると小銭がもったいなく感じる。レジの中に見えなくなる硬貨、その分だけ何かが得られますようにと願うしかなかった。まるで賽銭箱。では自分は何の神に祈っているのだろう。祐介がチャオガーデンの中に入るとすぐに佐伯兄妹を見つけられた。土曜日で木曜日よりも人は多くなる。制服を着てはいないもののしかし若い集団は目立った。小さな小学生に若い男女が一箇所に固まっているのだから。
「どうも」
 遠慮がちに挨拶して輪に入る。藤村茜がいることに違和感はなかったが、金本紗々がいることに少々驚かされていた。彼女のチャオはいない。飼っていないのだろう。それなのに来ているのはチャオに興味があるからなのか。
「今よアイドルの話してたんだよ。好きなアイドル」
 通が説明する。しかし茜は自分のチャオに絵を描かせているのをじっと見ている。談笑していた風ではない。クレヨンを持ったチャオが紙に灰色をこすりつけている。
「ええと、チャオが絵を描いているところじゃないのか」
「それは別。俺チャオはあんまだから」私もと紗々。祐介は脱力した。「なんと言うかその、ここ、チャオガーデンなんだぜ」
「でもチャオは目当てじゃなかったり」と紗々が言うと、通がその通りだと深く頷いた。その妹の心は茜の傍で絵が描かれていくのを見ている。腕の中で幼いチャオが体をぼんやり揺らしている。二種類の雰囲気に板ばさみになっている祐介。居心地の悪いサンドイッチの立場を放棄して通と紗々側に座った。真正面に茜たちを見る形で。「高井君はアイドル誰が好きなの?」
「いや、アイドルよくわからないから」
 テレビは見る方ではない。ドラマも雑学も頭に入ってこない。好みのタイプに該当する芸能人が一体誰なのかもわからない。そういう会話に入れないことは寂しく思うが、それでも食指は動こうとしない。「そういやテレビあんま見ないんだっけ」通はテレビを見つつゲームをしているのだ。それを聞いた祐介はどうして器用なことができるのかと信じられなかった。そうなんだ、と紗々。
 茜のチャオが今度は青いクレヨンで弧を描いている。半円の下にアーチ状の線が何度か描かれる。傘のようだ。その様子を祐介が見ていると「興味あるの、シュンちゃんの絵」と紗々の声。「まあ」チャオ用のクレヨンなどが売られているのは知っているが実際に使っているところを見たことはなかった。少しずつ形になっていく絵を見てチャオでも絵は描けるものなのだなと改めてその高い知性を実感する。そして彼女のチャオの名前はシュンというらしい。
「そういやお前んちのチャオはなんて名前にしたんだ?」
「なんかな」数秒ためらってから言った。「リンゴって名前になった」即座に祐介は「は」と紗々は「え」と声に出していた。心の抱えているチャオを祐介は改めて見る。水色で末端は黄色。標準的な子どものチャオだ。「どこがリンゴなの」最初から赤い色のついている色チャオならばリンゴでも納得できる。通は溜め息をガーデン内に沈めた。「リンゴを食べさせたらすごくおいしそうに食ったからだってよ」気恥ずかしそうに言った。
 敷き詰められた芝生。常緑樹の緑に囲まれ、爽やかな万緑のガーデンだ。みなぎる生命力さえ感じる万緑が無言と共に通を押し潰さんとしていた。「頼むから何か言ってくれ」あまりの圧力に音を上げた。そのおかしさで場が緩んだ。
「高井君ってチャオ、好きなの?」
「そういうわけじゃないけど」
 前は大好きだった。しかし今はどうか。気にはなる程度ではないのか。そちらはどうなのかと問うと「私はそんなに」と紗々は返す。「私が好きなのは、茜だから」弾む声でそう告げると茜は心持顔を伏せた。「何言ってんの」と呆れている様子。「だって今時チャオ飼って、超夢中とか超珍しいじゃん。レアモンはゲットだよ」彼女もレアモンスター仲間だった。「ストーカーもシャバではあまり見ないレアモンだと思うけど」二人の会話に男子は苦笑いする。それをよそに紗々は幸せそうに喋る。「しかもチャオガーデンって結構穴場なんだよねえ。こんないいとこあんまないよ」首を回してガーデンの景色を見回す紗々。チュニックの上でリングを通したネックレスが踊る。
「こんだけ自然があると、あれが欲しくなるな。アスレチック。遊び場がねえんだここ」
「人が遊んでどうすんの」
 チャオに関わる話だからか。茜も混ざってきた。彼女のチャオ、シュンの方に目をやると既に絵は完成していた。灰色の雨雲、水滴がたくさん降っておりその下に一本の傘がある。その中には人間らしいものとチャオの姿があった。人間は髪が長く目の周りを円に囲われている。茜だとわかる。服は広がりの少ないワンピースとズボンの輪郭がそれぞれ灰色と黒で描かれていて、まさに今そのような服装だった。どちらも笑顔。にこにこしている。目つきからしてそのような顔よりぎろりと睨んでいる方が彼女の雰囲気が出るなどと失礼なことを考えた。彼女の雰囲気はともかくとして幼稚園児のそれを思わせる無邪気な作品だった。
「どんないい場所でも遊べないと溜り場として機能しないだろ」遊び優先な通に「溜り場じゃないからここ」と疲れを感じさせる返事をする茜。「でも面白いよね」と傍若無人な男をフォローしたのは彼と同じくチャオに興味ない金本紗々その人だ。
「ぶっちゃけ人来ないんだし、アスレチックにしちゃってもいいんじゃないの」
 あまりにもストレートすぎる発言に茜は「おい」と語気を荒げる。「そういうこと言わない」
「実際ありそうだからなあ」
 客足の遠のいたチャオガーデンがどうなってしまうのか、祐介はある程度知っていた。豊富な自然と広い土地を利用して公園になることは少なくない。ここがアスレチック施設になる日も遠くないかもしれない。本人たちは気づいていないかもしれないが、聞いている二人にとって現実味のありすぎるジョークだった。
「チャオガーデンなんだからチャオで遊べばいいじゃんか」
 そもそもお前もチャオ飼っているんだし、と祐介。「チャオなあ」乗り気ではない様子の通。妹の心は四人の会話を聞きながら抱きかかえたリンゴの体をいじくり回していた。「あ、そういや昔チャオガーデンに行った時友達のチャオ踏んだことあったわ」ええ、と紗々がサウンドエフェクトよろしく反応した。
「そしたら友達マジ泣きしてさ、大変だったわ」
 笑う通に祐介が冷静に「そりゃ泣くだろ」とつっこんだ。「転生できなくなったらどうすんだ」チャオは寿命を迎えてもまた幼生に戻ることのできる生物だ。いわゆる不老不死である。しかしそれをするチャオは少ない。幸せな一生だったと思わないとそのまま死んでしまうのではないか、などと言われている。「そういやあいつのチャオどうなったのかなあ。まあ死んだんじゃねえのかな」縁起でもないことを言う。茜が僅かに肩をすくめていた。
「しかしあの頃はどいつもこいつもチャオ飼ってたような気がするなあ」
 あの頃。祐介たちが小学生だった頃までチャオの長いブームが世の中を覆っていた。彼らが生まれる前から人気があったと言われるチャオ。何年も続くブームでこのまま普及してしまうのではないかと言われていたチャオだったが、その期待を裏切る形で落ち着いてしまった。人々の生活の中で必要とされなかったことが大きい。あくまでペットという娯楽だったのである。
「ドラマにもいっぱい出てきたよね、『ダークチャオしかいなくて』とか」
「あったあった。超暗いやつ」
 ダークチャオしかいなくて。チャオがダークチャオに進化した者同士の恋の話である。男には妻がいた。相手の女性は男の子どもと年齢が近い。「超過激なんだよねえ。歳の差すごいしさ」ただでさえ壁の大きい不倫関係に、ダークチャオに対する世間の目が拍車をかけるというドラマだ。「あの頃はチャオに夢中だった人々が大人になって結婚して子どもができてきた時代だったから」そのようなドラマになった背景を茜がそう説明した。
「ドラマだけじゃないよな。漫画にも出てきた気がする」
「絵本にまで」
 茜が絵の描かれた紙を持ち閉じて開く動作をしながら言うと、飛び上がったような声で「絵本」と紗々が反応した。「どうしたの」茜は目を丸くした。そして自分のチャオも同じような目になっていることに気づいて、撫でてなだめてやる。
「絵本、チャオの出る絵本、なんだっけあれ」
 あふたふと両手を振りながら言う。思い出せずにもどかしく感じてくるほど手の振りが速くなっていく。「ええと、あ、『チャオのかぜ』ってやつあったよね」手の振りが「あったよね」と確認するように二回ぶんぶんと振られてやっと止まる。あった気がすると三人が同意する。「どんな話だっけ」チャオへの思い入れが深い茜が覚えていなければ誰も覚えているはずもなく、「どんなだっけ」という言葉が何度も繰り返される。「わかった、チャオのかぜが出てくる」得意げな顔をする紗々。「当然でしょ」と茜が予定調和的に言って、紗々がへへへと笑う。
「そもそも、チャオのかぜってどんな風だよ」
 通の言葉で話の重心がそこに置かれた。「病気の風邪とか」祐介の発言は紗々がそのような話ではなかった気がすると言って消された。「そうじゃなくって、何だろうね、もっと特別な感じじゃなかったっけ」と言ってすぐさま「チャオの呪われし暗黒の力」と通。バトル漫画じゃないんだぞと祐介が呆れる。チャオを得意とする茜は「チャオが小動物をキャプチャした時に、動物が浮き上がるあれ、っていうのはちょっと違うか」とそれらしいものを言ったつもりだったが違和感があったために言いながら徐々に首を傾げてしまった。「おばあさんが川で洗濯をしているとチャオのかぜがどんぶらこどんぶらこと」黙れ心、と兄がぴしゃりと止める。「論点ずれてたしな、今」論点、と妹が繰り返す。意味がわからなかったようだった。誰も説明をしてやらない。ただ視線が通に集まる。その通は「しかし懐かしいなあ」と役割を放棄した。目を細めさらに視線を照射して責める茜。その口元は少し上がっていた。まるでいたずらを満喫する子どもだ。
 あ、と突然茜が声を上げた。監視カメラのように入念に首を動かしてチャオガーデン内をくまなく見る。首を限度いっぱいひねってサーチしたが「いない」と顔が戻ってきた。チャオガーデンに来ている知り合いに年齢の高い人がいるため、その人から聞けば何かわかるかもしれないということだった。その人が来るのを待つのが一番手っ取り早いということになって童話の話は打ち切られた。
「どんくらいの頻度でチャオガーデン来てるんだ、二人は」
「火曜と木曜と土日」
 週に四回と聞いてのけぞったのは祐介だ。ひたすらチャオガーデンに通う少女。只者ではないと確信した。「すごいな」と感嘆せずにはいられなかった。「茜はチャオ中毒だからねえ」と楽しげな紗々。その本人は中毒という言葉のチョイスに不満を述べつつも否定はしない。金本さんは、と通が答えを促して「大体木曜と土曜かなあ」と返答を得た。こちらもこちらでチャオに興味ないのによくそれほど来る気になるな、と祐介は思う。自分がチャオを飼っている時でも週一回か二回だったのにと比べながら。
 チャオの話はそれまでで終わった。学校の話で盛り上がった通と紗々、他はチャオに夢中になり、それらに少し混ざりながらも祐介は眺めている。心の関心は歩いたり走ったりする茜のシュンで、羨ましそうにしていた。はいはいして動く自分のチャオを持ち上げては足で立たせる。手を離すとチャオはかくんと伏せのポーズに戻ってしまう。早く歩けるようになれという念のこもったうなり声を上げる。茜はその様子にくすくす笑いながら、バッグから缶詰を取り出した。指で一口サイズにカットされている桃をつまんでシュンの目の前にぶらさげる。すると口を開けて顔を空中へ差し出すようにしてねだり始める。背伸びして前のめりの姿勢。そのためしばらく放置しているとバランスを崩す。食べ物に夢中になっては転びそうになってびっくりする。その様子を見て微笑み、二度くらい転びそうになってから桃を口に入れてやった。するとシュンは目をつぶって咀嚼する。ゆっくり味わって「んんん」と心地よさそうな声で体を震わした。快楽にひたりながらゆっくりと目を開いたチャオの目の前にまた桃がある。ぱあっと顔が輝いてまたおねだりのポーズ。今度はすぐに口の中に入る。再び幸福を味わう。その様子を見ているのは茜だけではない。心も可愛げな声を出すシュンに目を奪われていた。その視線に気づいた茜が缶詰を掲げた。「リンゴちゃんにも食べさせてみる?」佐伯心の目も輝いた。

 キーボードを叩く。情報収集にネットを利用する。ネットの存在しなかった時代、どうやって人々は情報を集めていたのか。祐介は想像できない。欲しい情報を手に入れる術が昔はなかったのではないかとさえ思う。彼らにとってインターネットとは情報そのものでもあるのだ。検索のキーワードは「チャオのかぜ」だ。結局茜の知人は来ず、その童話がどういう話でチャオのかぜとは一体どのような風なのかわからないままだった。検索すると三万件ほどの結果が表示された。通販サイトのあらすじによると、主人公の男の子がチャオのかぜというものを探しに旅に出るという話らしい。これだけではわからない。検索ワードにあらすじやストーリーなどの単語を入れながら探していく。いくつものサイトを覗く。いつの間にかモニターに近づいていた顔を離して背もたれに寄りかかった。拾い集めたものを繋ぎ合わせる。男の子はチャオのかぜというものを探しに行く。色々な人のチャオと接するがチャオのかぜはなかった。諦めて家に帰ると男の子のチャオから風が吹いていた。そのような話のようだった。青い鳥のような話ということなのだろうか。しかしそれなら虹色のチャオとかそういうものになるのではないのか。チャオのかぜという意味深な言葉が引っかかる。消化不良の感。よくわからない。それが結論だった。
「どんな話だったかなあ」
 疲労を吐き出すように呟く。子どもの頃聞いたはずの話。それが思い出せない。もどかしくてたまらない。一度得たものを手放してしまったような気がするからだ。童話の一つや二つ忘れただけならば損失はないに等しい。しかし子どもから大人になる過程でそれらと一緒に何か大事なものを手放してしまっているとしたら。純粋な心は成長と共に消えていくとよく言われる。なくなったと知覚できるならまだいい。持っていたことさえ忘れていることだってあるのだと祐介は思う。知っているはずの童話が思い出せないのだからそうだとしても不思議ではないと。何もかもが零れ落ちていく。末に何を得られるというのか。自分の部屋が次第に過去の骸で埋もれていくイメージがあった。自室でなくてよかったと祐介は感じた。リビングでパソコンを前にしている今でも部屋の中にある昔好きだった骸の姿が思い浮かぶ。現実に目にしていたら余計に消耗してしまうことだろう。チャオから離れてどれだけの量失うものがあったのか。見当もつかなかった。

 梅雨にも休みはあるのだろうか。数日間晴れの続いた木曜日。週末あたりから天気が崩れると予報され、目の前の日光のありがたさを噛みしめながら登校して通に誘われた。チャオガーデンに行かないかと。予想外のことに固まる祐介。念のため確かめると、今日行くのだと言う。さらに確認。お守りをすることになってしまったのか。そうではないと否定される。頭を抱えた。チャオに興味のない通がチャオガーデンに、それも平日なのに、行こうとしている。衝撃で、この先日本から梅雨という概念が消えるのではないか、なんてことを思ってしまう。頭の中のチャンネルを戻す。四日間で通がチャオに夢中になるような事件が起きたということなのか。「あんなに興味なさそうだったのになあ」と言ってやると「最初っから興味ありまくりだっての」と返してくる。調子のいいやつめと好意的に受け取る祐介。一緒に行ってやると約束した。しかしその直後、違和感を察知した。直感が訴えようとしていることを頭に意識を集中させて汲み取る。木曜日、チャオガーデン。祐介の彼に対する評価は一回上がったおかげで勢いよく落ちた。そして一緒に行くなどと言わなければよかったと後悔するもののキャンセルするのも面倒だと思った。せめて同行させるために謀ったのだという奇跡を思慮深くなさそうな頭に期待するしかない。
 策謀だったのだと通がねたばらしをすることはなかった。雲のない空で太陽がその身を晒しているように、彼の考えることも透き通っているようだ。気温が夏のそれに向かっていることをひしひしと感じる。付き合いは短いものの夏こそ通の季節だろうと祐介は思う。高いテンションはよく日光に喩えられる。彼の頭頂部にひまわりを突き刺したら大変似合って面白くなりそうだった。種をまいたら生えてこないだろうかと考える。食べさせたらどうだろうか。通は佐伯家を経由することなく真っ直ぐ施設の中へ入る。そうだよなあと思いつつ、彼に自分も女性に興味ありまくりの男と見られているのではないかと不安になった。少なくともこいつほど露骨ではないと思う祐介。実像と違うイメージをどう修正していくか方針を練りながらチャオガーデンに入る。そこにしっかり藤村茜と金本紗々がセットでいるから始末が悪い。男女同数というのがいやに色恋を想像させる。佐伯妹を探すがどこにもいない。最初からチャオは眼中にないということだ。あまりにも直球な行動は賞賛に値するのではと混乱する。
「そういやさ土曜日に話した『チャオのかぜ』なんだけどさ」
 どう切り出すのか。そもそもチャオに興味ない人間が二人いる中でこの話題を持ち出すのは適当なのか。迷っているまま通の勢いにつられるように口から出た。あまりにも反応をうかがおうとするために言葉が途切れ途切れになる。紗々が「あ、なんかわかったの」と言って関心を示す。栗色の髪とほのかに乗った頬紅の明るさがひたすらありがたい。話が彼女に引っ張られて進んでいくような感覚の中、報告した。
「私はもうちょっと突っ込んだところまで聞けた」
「ああ、知り合いの人来たんだ」
 おそらく火曜日に。平日が休みの人、ではなく平日だろうと来るような相当の愛好者なのだろう。このチャオにばかり目のいく藤村茜がチャオのことで質問するような人間なのだから。きっと家の形がチャオであったり、チャオが好きすぎるあまり突然変異して頭の上に球体が浮かぶようになっているのだろう。祐介の想像はよく行き過ぎなものになる。流石に現実にはあり得ないものになるまで続くことが多々ある。頭の上の球体のおかげで彼は現実に戻ることができた。「私が聞いたのもよくわからない話だったけど」けれど何か含みがありそうだったと茜は言う。チャオのかぜを男の子が探す途中、色々な人とチャオに会う。チャオを飼っている人々に「チャオのかぜってどこにあるの」と聞くと誰もが「チャオのかぜはここにあるよ」と男の子に教えるのだが、男の子にはそれが全くわからない。青年から老人まで様々な大人とそのような会話をするらしい。
「自分のチャオだと風を感じて、そうじゃないと感じないってことだよね」青い鳥のようだという意見で四人は一致する。幸せは手元にあるもの。結局それが答えなのかと祐介が思っている中で茜が溜め息をつく。「青い鳥のチャオ版じゃないかって言ったら、そうかもねってはぐらかされた」つまり彼女に話をした人物はそれとは別物だと考えているということだ。違うのではと思った自分の勘は当たっていたのだなという少しの喜びが祐介の内に生まれる。同時にどういう意味か結局わかっていない煩わしさが大量発生して感情としてはマイナスの変動となった。
「多数決で四対一でこっちの勝ちってことでよくね」
 投げやりな感さえ漂う通の発言。男二人の時でも単純な物言いをするのはもっぱら通であった。素直に同意できない祐介が「いやいや」と否定する。その後の言葉をどう継げばいいか迷った矢先に茜の発言。
「向こうの方が詳しいのは明らかだから。それに四人寄っても文殊の知恵にはならないみたいだし」
 毒が出た。祐介は声にならない低く短い呻き声を出した。通は「おおう」と動揺している。はたして意味が通じているのかどうか。過小評価の域に入る祐介の色眼鏡では通は皮肉が通じないことになっていた。しかし彼は目を見開き、気後れして表情をどう作るか戸惑っていた。一方で紗々が「一人多いのにねえ」と苦笑い。場を和らげようとした。しかし祐介は一人邪魔だと暗に言っているのではないかと深読みした。そうだとしたら一体どちらが。もう片方が通とはいえ安心できない祐介だ。
「とにかくあの人、絵本持ってるから青い鳥はやっぱ違うと思う」
 泥沼になりそうだった場の空気も関係なしに茜が喋った。流行が過ぎてもなおチャオを愛でる女、藤村茜は空気を読まない。今回はそれがいい方向に働き、走っていた緊張が消えた。
「絵本って『チャオのかぜ』?」
 頷いた。「だから絶対何かある」黒縁のフレームの中にあるのは確信の二文字だ。「絵に何かあるのかもな。ヒントとか」そう言って実物を入手するのが早いと祐介は思った。「本屋には置いてないよなあ」何年も前の本だ。しかもチャオが題材となれば望み薄だ。
「中古ならあるかもね」
 本を売るならここという店がいくつかある。古い本でも置いてあるのが魅力の一つだ。しかし探し物が必ず見つかるわけではない。あるかもわからない物を探す。そのようなことをするほど興味がないために紗々の言葉はどこか他人事だ。「まあ探すのは面倒だよな」気だるそうに祐介は同調する。チャオに関心がないのだ。「私もパス」淡々とした調子で告げる。各人の耳に意外性を伴って入った。「チャオガーデンに行けなくなったら嫌だから」
「え、小遣いで来てんの」
 祐介が驚いて言う。弁当代を小遣いとは別にもらったりそれを込みにして多額の小遣いをもらったりするのと同じようにチャオガーデンの入場料などについても親が負担することが多い。週二回行く場合でもその全てを小遣いから出すのは少年少女たちにとっては大きな出費となり得る。
「週二回分しかもらってないからそれ以外は自腹」
 大きな出費がそこにあった。本を買うのをためらうほどだ。月々の小遣いのほとんどがチャオに消えているに違いなかった。どのくらいチャオに費やしているのか聞くと月々約四千円と茜は答えた。週に二回自腹でチャオガーデンに行ったとしても四千円には届かない。チャオの間食のために餌を買ってもまだ足りない。おもちゃや豪華な食べ物。チャオのためにそのような物が買われているに違いなかった。愛されているのだなとしみじみ感じる。茜がそれだけチャオに本気であるということもまた伝わる。そういう振る舞いができることに敬意を持たずにはいられない祐介だ。同時に感じているのは儚さだ。二つが混ざってやり場のない感情になり胸中でくすぶっていた。焦り、そして苛立ちがそこから湧いてきた。それは己への怒りだ。いつか終わってしまうのだと思っている。趣味とはえてしてそういうものだから。自分がチャオから離れたように彼女もまた異端であることをやめる日が来るのだろう。それを止める気はない。しかし意識する度に空しくなる自分の心に何もできないでいることが許せない。許せないが、どうしようもなかった。無力に打ちひしがれれば後は祈るだけ。明日もまた彼女はチャオのことが好きでいるようにと。
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ヨーヨー
 スマッシュ  - 11/12/23(金) 0:03 -
  
 六月も三分の二が終わりつつある日曜日。激しい雨の音は部屋の中でも騒ぎ立てる。意識せずとも自然と聞こえてくるほどの音量に大雨であることを否応なく認識させられる。時折、ばばばば、と荒い音が鳴る。無数の水滴が風によって窓に叩きつけられたのだ。耳をすませば車が水をひいていく音も聞こえる。賑やかだ。こういう雨は嫌いではない。心地よいバックミュージックとして受け入れながら緩やかに時間を過ごしていく。綿のような一時を引き裂いたのは携帯電話だ。着信音とバイブレーションのお祭り騒ぎ。かけてきたのは誰かと表示を見ると通という文字。電話に出れば一言目に「おい今すぐチャオガーデンに来い」と言う。突拍子もない言動。慣れて驚きはしないもののそれに振り回される身になってほしいと切に思う。「チャオガーデンねえ」携帯を当てているのとは逆の耳にざあざあと音が入ってくる。「大雨だぞ」まさか知らないなんてことはないだろうと思うものの言う。
「だからこそチャオガーデンで遊ぶ」
 理解できなかった。よくあることだ。「それになんか金本さんも来てるから、せっかくだからお前もと思ってな」既に三人はチャオガーデンにいるらしい。金本紗々の正気も疑った。「わかったよ、行くよ」人がいるならば、と決断してしまう自分もまたおかしいのかもしれないと感じるが心地よさがある。変なことはえてして子どものすることとされる。まだ子どもでいられることに安堵しているのだ。それは大人になりたくない、ずっと子どもでいたい、というのとは違う。大人になりたいと祐介は思っている。しかし同時に自分ではどうしようもない強い流れが強制的に変えてしまうことが怖い。小さい頃、大人になりたいと願った時にはなれなかった。失いたくないと未練があっても子どもっぽさを捨てなくてはならない時が来るかもしれない。だから今そういうことができて嬉しい。いくつか確認して電話を切る。外を見る。雨はまるで可視化された空気のように世界に充満し降り注いでいる。ずぶ濡れ確定。こんな日に外に出るなんて、やはり断った方がよかったのかもとげんなりしながら着替える。
 酷い雨の中歩く人は少ない。車の数は少なくない。家から駅、駅から施設までの僅かな時間少し惨めな思いをした。途中のコンビニで昼食を買う。雨の日におにぎりを買うのはどうなんだろうと思いながらも他にいい選択があるわけでもなかった。コンビニの中がやけに明るく見える。いつだって変わらず便利な店として人々に光を投げかけている。外が暗い時に来れば眩しささえ覚えるほどに。以前はチャオ用のペットボトルや食べ物を買うこともできた。チャオでも人間でも遊べる設計とうたわれた小さな娯楽道具も並んでいたが今ではそれらの商品が扱われることはない。現在店頭を飾っているのはアニメとコラボした華やかな商品たち。キャンペーン期間の案内がある。六月六日から七月四日まで。二週間後の月曜日に終わるらしい。その後このアニメのキャラクターたちがここを彩ることはない。しばらくすれば他のキャラクターがこの場所にいるのだろう。いつだって流行は一時の喧騒でしかない。その中にいる人々の感情もまたそうだ。興味は次の喧騒へと移っていくのだ。一瞥して鮭おにぎり二つとペットボトルの緑茶だけ購入した。これらはきっといつまでもこのコンビニにある。食欲の確実さを祐介は感じた。

 チャオガーデンにはしっかり例の四人がいた。本当に来ていたのかと紗々のいることに目を丸くする。さらなる驚愕とそれ以上の呆れを誘ったのは一人携帯ゲーム機に必死になっている通だ。「何をしているんだお前は」そう言うしかない。通はゲームの名前を述べた。祐介がプレイしていたそれである。「そうではなくどうしてお前はゲームをしているのかと聞いた」予定調和のように進む会話に、通はわざととぼけているのではないかとすら思わされる。通はけろっとした笑顔で「だって退屈じゃんか」と言った。今日ばかりは紗々も茜や心に近い位置にいる。祐介もそうすることにした。「もしかしてあいつはずっとああしてるのか」と三人に聞く。紗々が苦笑しながら頷いた。「私が来た時にはもうあんな感じだったよ」今度はチャオの方に視線を向ける。リンゴは寝息を立てている。それより一回り大きいシュンが寄り添うようにして見守っていた。
「まるで兄弟、いや親子か?」
「親子だね。それか孫とおじいさん」
 シュンは六歳だから、と茜。チャオの寿命は約六年。つまりシュンはいつ命が尽きてもおかしくない老体ということだ。外見や行動では歳がわかりにくい。そのため祐介は「六歳なのか、こいつは」と聞き返していた。「そうだけど」と茜が言う。もうすぐ寿命、もうすぐ転生。浮かび上がる言葉を祐介は抑えた。
「つまり小学五年頃からチャオを飼い始めたってことか。デビューは遅めなんだな」
 代わりの発言に茜は首を振る。「じゃあ小学四年か」それにも首を振った。
「幼稚園の時」
 祐介は、それはつまり、とまで言って止まる。最初のチャオは今ここにいるシュンなのか、それとも転生せずに死んでしまったのか。「この子は二匹目」シュンを撫でる。頭の上の手の動きに体を委ね、手が離れると茜に擦り寄った。転生できなかったのだ。それなのにまたチャオを飼うことは珍しいのではないのか。祐介はそう考えている。チャオは転生できる。確証はないが幸せな一生を送ることが条件と言われている。もしそれが本当だとしたら。チャオが死んでしまった場合、飼い主はチャオを幸せにできなかったということになる。だからチャオの死は他のペットの死よりも重い。大きな鉛玉を胃に落とされるような苦しみ。その罪の意識を持ってなお誰がチャオを飼いたいと思うのか。
 少なくとも俺は思わなかった。
 鉛玉はまだ祐介の中に残っている。彼がその体を動かすごとに重量が存在を主張する。チャオに触れたくないと思わせる。たった一回の接触でも他人のチャオの転生を妨げてしまうのではないのかと不安でたまらない。祐介にとってのブームが終わった理由は死の重さが大きかった。茜が何をどう考えて二匹目のチャオを飼うに至ったのか気になる。その時、ゲームをやめた通が立ち上がった。その動きに反応して視線が彼に集まる。通は四人に近寄った。そして二匹いるチャオを見る。寝ているリンゴを見て、そしてシュンを持ち上げた。突然の行動に警戒心を持った茜が「ちょっと」と制止しようとしたが構わずチャオを自分の服の中に入れて言った。
「妊婦」
 絶句が四つ重なり濃厚な無言となってどろりと集団を囲う。泥のような不快な空間を通は清めることができない。いやしない。チャオがティーシャツの中で暴れてもぐらたたきのようにティーシャツが荒ぶる。もはや一発芸は芸の体にすらなっていない。しかし意に介さず「お腹を蹴ってる」などと言っている。あまりにもシュールな光景だった。チャオガーデンから切り離されたがごとく独特の空気が充満していく。水場で泳ぐチャオのバタ足の音も既に遠い。手を自らの顔に当て嘆く祐介の姿が集団を現実に引き止めていた。茜が引き剥がすようにチャオを無理やり奪い返し罵倒をしながら泣きそうになっているチャオの頭をゆっくりと撫でてあやす。徐々に空気が現実のものに戻ってくる。今度は寝ているリンゴを持ち上げようとした通。
「寝ているチャオはそっとしておいて」
 それを茜が言葉で刺した。「それだと一発芸ができない」と抗議するが、今度は視線で射落とされる。元々釣り目気味の茜であったがその威力は眼鏡によって強化されていた。そうなってやっとフリーズしていた紗々が復旧した。ふふふと叱られている通を生暖かく見ているような笑いだった。最初はそうだった。段々と声の調子が上がってきたかと思うと笑い転げた。笑うあまり座っているのも辛くなって芝生の上に倒れながら笑い続ける。あははあはは、という笑い声がしばらくすると「えへ、えへ、えへ」と息苦しさと狂気をはらんだ声になってきた。呼吸困難になりながら笑いが落ち着いてくると「やばい」だの「おかしい」だのと言っては再び笑いが戻ってくる。三分ほどその状態が続いた。完全に鎮まって喘ぐように酸素を体内にかき集める紗々。茜は大爆笑の様子を物珍しそうに注視していた。ふむ、とチャオと交互に見ながら何かを考えている。そして茜は紗々を呼び、目を自身に向けさせる。チャオの頭の上の球体を右手で掴み、左手でチャオを猫つかみした。左手のチャオだけ上下させながら言った。
「ヨーヨー」
 空気が急速冷凍されていく。通でさえも絶句していた。数秒の沈黙を置いて紗々が沸騰した。地獄再び。酸素を爆笑に奪われていく紗々を見て茜は満足げだ。何度も同じことをやってはにやけている。笑いは起こらないが意外そうな視線が茜に注がれる。常に騒がず物静か、冷静な人間だという印象が覆った。ただマイペースに生きているのだ。だからチャオが絡むことだと今回のように彼女なりにはしゃぐのだろう。そういう点では通と似ているのかもしれないと祐介は思った。「やばい、やばい」と連呼しながら笑い続けた紗々がその渦から逃れた後に「やっぱここ最高」と漏らした。
 自分の好き勝手に行動してばかり。思えば紗々だってそうだ。わざわざチャオガーデンに来て、やることは茜たちと話すだけ。茜が好きだと言ってた。気に入った人間とつるむためにこんな所にも来る。そうやって自分の好きに楽しんでいる。どこか似ている。類は友を呼ぶということか。
 では自分はどうなのか。自分はただ流されているだけだと祐介は感じた。彼女らのように原動力となる価値観がないように思われた。むしろ行動することを嫌いさえする。止まっていることを好む。流れるだけがいい。しかし何もしないことは寂しいことだということはわかっている。だから今のように知り合いと行動を共にしている。ただそれだけの生き方だ。他者の排熱で動く自分をどうして尊重できようか。彼女たちが眩しい。同等になりたいと思う反面その結果待っているものを思い浮かべずにはいられない。こういう時に祐介は昔に戻りたいと思う。無知にすがりたくなるのだ。嫌なことが未来にあると知っているから、楽しくなくなるのだから。
 茜にヨーヨーにされているシュンが彼女に身振り手振りで何かを要求していた。右腕で大きく円を描いている。茜はどこか残念そうに地面に下ろして、バッグの中からクレヨンの箱を取り出した。それを渡してどの色を使おうか選んでいるうちにスケッチブックを出して手元に置いてやった。絵を描くのが好きなようだ。水色のクレヨンで描かれたのは赤ちゃんにされた自分でもヨーヨーにされる自分でもなく寝ているリンゴの姿だった。
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デジタルオーディオプレーヤー
 スマッシュ  - 11/12/23(金) 0:05 -
  
 通からメール。内容は遊びの誘いだ。場所はチャオガーデン。土曜日だからである。時刻は十時。誘われるがままチャオガーデンへ。入場料を払いチャオガーデンに入る。茜と通が水場の一角を陣取っていた。人はそれなりにいるが活力に乏しい。老後のような大人しさ。静かな空間の秒針を噴水が動かしている。水場でニュートラルノーマルチャオが泳いでいる。シュンだ。手足の動きはゆっくりで、水の冷たさを全身で感じながら泳いでいるようだ。飼い主の藤村茜の手元には子どものチャオがいる。浅い場所で岸を背もたれにして座らせているのを溺れないよう見ているようだった。こちらは佐伯家のチャオ、リンゴだ。飼い主の一人であるところの通は寝転がってリラックスしきっていた。今日は来るんだなと言おうとしてやめる祐介。それではチャオガーデン大好き人間みたいだからだ。二日前彼はチャオガーデンに行かなかった。茜と紗々がいる木曜日は通が積極的にガーデンへ行く日だ。しかしその日彼は放課後までチャオガーデンのことを一切口に出さなかった。向こうから言ってくるだろうと思っていた祐介は慌てて「今日ガーデンは」と聞いていた。今日は行かないと言われてそれならばとガーデンに寄らず家に帰った。自発的に行く気にはならないのだ。自室で時間を持て余していた。何もしない木曜日がいやに退屈に感じた。三週間前の自分は何も感じなかった。たった二週間チャオガーデンに通っただけでこうなってしまった。いつの間にか彼の中でチャオガーデンは重要なものになっていたらしい。そのことに祐介は気づかされた。没入をよしとしないものの他にやることもない生活だ。テストが近づいてきているために勉強が優先されるべきだったかもしれない。しかし結果としてはテストというストレスから逃れるためにチャオガーデンに行くことになったのである。
「そういや妹さんは」
「いないぞ。友達と泊まりで遊ぶってんで。おかげで明日も来なくちゃならん」
 祐介は酷く落胆した。佐伯妹に興味があるわけではない。彼女がチャオより別の娯楽を優先する日が来ることを予感していた。それがあまりにも早過ぎたからだ。新しい刺激もいつか鮮度を失い無味となる。趣味に没頭したとしていつかは飽きてしまうに違いないのだ。それどころか新しい楽しみでさえ別のものに取って代わられてしまうことに絶望すら抱く。まだ二週間しか経っていないというのに。もしチャオという娯楽から新しさが消えてしまったら彼女がここに来ることはあるのだろうか。疎遠になるのは確実だ。もしかしたら一切来ないかもしれない。
 祐介は思う。はたして一過性でしかない娯楽に身を委ねることが本当に幸福と言えるのか。楽しんでいる間はいい。だが強かった刺激が無味になれば、価値の見出せなくなった道楽の遺灰を見て後悔せずにはいられない。大量の時間をつまらないことに投資してしまったように感じてしまうからだ。何も得るものはなかったと。没頭しただけ不幸が跳ね返ってくるのだ。それはとても恐ろしいことだ。祐介がそうなのだと悟ったのは中学二年生の冬、飼っていたチャオが死んだ時だった。転生することを望んでいた。寿命を迎えても生き返るところを見てみたいと、必死に可愛がっていた。人はいつか死んでしまうもの。どう生きても最後は死んでしまうのだから意味がないとも思えてしまう。だがチャオは死を否定できる。だからブームが廃れて周りがチャオから離れていっても祐介はチャオに夢中だった。チャオは期待に応えることなく死んだ。死は避けられないことを暗示するようだった。しかし人は誰もが死について諦めて生きていく。だから生きていく上で致命的な損失にはならない。彼の胸に同時に去来したのは自分の手元に何も残らない虚無感だった。六年間を浪費してしまったという念が激しい後悔を呼ぶ。終わりがあるのは命だけではなかったのだ。いつか飽きてしまう趣味に力を注ぐことは馬鹿らしいのではないかとすら思った。終わってしまえばそれまで。一方で世の中には自分と同年代で何かを成し遂げている人がいる。後悔しようと思えばどこまでもできてしまう。人々ができれば命が尽きなければいいと思うように、趣味も永遠ならと祐介は思う。一生を一つに使い込むのは美徳とされているのだ。
 チャオを見る度に少し気分を悪くするのは当時のことを思い出すからだ。しかし感情は今でも好きの方に傾いている。飼わないのは没頭する要素を持ちたくないからだ。その上また転生せずに死んでしまったら六年を再び無駄にしたことになりそうだった。まだ心のどこかで何かに打ち込むことを肯定したがっている。終わらない娯楽を探している。だから佐伯心の姿がないのであれば気になるのは必然的に藤村茜となる。十二年、流行に構うことなくチャオと接している。彼女は強い。祐介がチャオガーデンに来るのは彼女ならば道を示してくれるのではないかと期待しているからだ。その茜は水から上がったシュンをタオルで拭いている。その横には彼女に引き上げられたリンゴもいる。タオルごしの手に振り回されながらシュンは腕を振って繰り返しアピールをしている。絵を描きたいようだった。入念に拭いた茜が道具をシュンに渡す。そして今度はタオルでリンゴを撫でながらシュンの様子を見ていた。祐介には三人が誰も喋らないでいることに違和感があった。ずっと無言でいる空気に慣れていないのだ。茜はそもそも話し出すタイプではない。祐介も薄々とわかっている。通はチャオに興味がない。茜に話しかけることは少なかった。望み薄だ。
「絵描くの好きなんだ」
 結果耐性のない祐介が茜に話しかけて沈黙を破った。すると一転饒舌になる茜だ。「最初は私が描かせていたんだけどね、いつも違うものを描いて楽しいから。でもしばらくやっているうちにこの子から描きたいってねだってくるようになって」語調はクールな風を装っているもののよく喋る口がテンションの上がったことを言外に語っている。チャオはどのクレヨンを手に取るかずっと迷っている。頭の上の球体、その上に線が現れてクエスチョンマークになった。
「ポヨがハテナになったけど何を悩んでるんだ?」
 頭の上に浮かんでいる感情を表現する球体は俗にポヨと呼ばれている。経緯は不明だが言いやすいため普及したと言われている。
「いつもは楽しかったこととか気になったことを絵に描くんだけど、今日はそれがないみたい」
「何もないのに絵を描こうとしたのか」と笑う。「そっちだってチャオを見るわけでもないのに無駄にここに来るでしょ」棘が飛んできた。何度かこのように言ってくるのを見ている。「確かにそうだ」素直に認めてみると「そういう気分だったってこと」と穏やかな声が返ってくる。彼女の攻撃的な発言は敵意のないものなのだと祐介は理解する。じゃれるように適切に受ければ楽しいもの。何も話さず凝り固まっていた場に暖かさが生まれている。
 茜は丁寧に拭いた子どものチャオを通に差し出すが、両手の壁と共に「いや藤村さんに任せる」と拒否する。
「あなたのチャオでもあるんだから、可愛がればいいのに」
 茜がそう言うと通は前に出した両手を細かく振ってさらに拒否の姿勢を強くした。彼女の眉が寄った。「どうして」追い込むような声が出た。「ぶっちゃけチャオあんま好きじゃねえんだ」茜の前で言うのは気まずいのか、ばつが悪そうに言った。
「ほらチャオってダークチャオとかヒーローチャオとかそういうのに進化するじゃん。そうやって善悪を決められるのがなんか嫌なんだよ」
 それは迷信でしかないと茜が言う。チャオが天使のような姿をしたヒーローや悪魔のようなダークに進化するようになったのは人間と接するようになってからと言われている。しかしどういう基準でチャオがそれらに分かれるのか判明していない。法律に則り模範的な生活をしていればヒーローチャオが育つというわけでもない。どういう人間が善人なのかというチャオなりの判断方法があるのかもしれない一方で、気まぐれに進化している可能性も否定できないのが現状だ。だからチャオの進化で善人か悪人かわかるというのは迷信でしかない。それでも通は思いつく限り自分の違和感を話す。
「そうじゃないらしいっていうのは知ってるけどさ、でもそう聞いてもやっぱりそういう目で見ると思うんだよ。俺だってダークチャオ飼ってるやつ見たら、なんか悪いことでもすんのかな、って思うと思うし。なんかな、チャオに触れて黒くなった白くなったで見る目を変えられるっていうのが嫌なんだよ。だってよ、何するにしてもいいことだからやりたいって思うわけじゃないし悪いことだからやりたいって思うわけでもないだろ。だから、善悪を決められることでなんか、自分が縛られる気がすんだよなあ。チャオに一切触れないことの理由になるかどうかわかんねえけど、そうなんだよ」
 まるで必死に言い訳をしているようだった。それを茜は割り込むことなく聞く。シュンもクレヨンを選ぶのを止め彼を見つめて言い分を聞いていた。リンゴも彼から目を離すことがなかった。理解しているのはわからないが興味津々な様子で。茜は頷いた。「なるほどね」その相槌は決して安直に打ったものではなかった。黒一色のフレームが真面目な様に拍車をかけていた。
「それなら私が全部やるから安心して」
 ちゃんとバッグに入れるまでやってあげるから、と続ける。「何それどういうこと」祐介が聞く。いやちょっとな、と通がはぐらかそうとした。「触りたくないからバッグに入れてチャオガーデンに来てた」と茜が躊躇なく話した。「きっとバッグに入るよう必死に誘導してきたんじゃない」通の顔が伏せられた。何もそこまで言わなくてもいいではないか、という趣の発言を力なくした。
 紗々が来た。通はしょげている。しかし二人はそんな通を見て楽しそうだ。「どうしたの」問いかけながら耳かけ式のヘッドフォンを外した。流れる音量が三人の中に混じった。それまでのことをかいつまんで話すと極端だと紗々が笑った。筒抜けになっていくあまり地面の下に消え入りそうなほど通は沈んでいた。
「てか、ダークチャオ飼ってる人って悪い人だと思ってたよ私、違うんだ」
 偏見のことを知っている祐介もまだどういうものが関係しているのかわかっていないことが意外だと感じていた。何の作用で変化するのかわかれば、食べさせるとダークやヒーローになりやすくなる木の実などが作れるのではないかと言われていた。確かにそのような商品を受付の横のショップで見かけなかったことを思い出す。
「この前ちょっと出てきた
『ダークチャオしかいなくて』でもダークチャオに対する誤解が描かれてる」
「あんたたちなんて薄汚い犯罪者なんだわ、私を苦しめて殺す気なのよ」
 紗々がヒステリックに叫ぶと茜がくすくす笑った。「そうそうそんな感じで」
 首からぶら下がっているヘッドフォンは音を出している。音量が大きいため三人には僅かに音楽が聞き取れる。それにシュンが寄ってきた。「聞きたいのかな」近づけると首を上下に振ってリズムを取り出した。長い爪の指がデジタルオーディオプレーヤーを操作して音量を上げた。聞き取りやすくなる。ヘヴィメタルだった。
「チャオがメタル聞いてる、面白」
 紗々は腹の底から笑いながらもう一匹のチャオを引き寄せる。しかしこちらは顔を音源から遠ざけるようにして嫌がった。「こっちは駄目なんだ」引き寄せたのを茜に押し付ける。
「なぜメタル」
 通の疑問にテスト前だからと紗々は答えた。三人は理解できないため固まった。「ほら、これ歌詞英語でしょ。英語の試験対策になったらいいなあって」冗談めかして言う。確かに歌詞は英語のようだった。
「来週テストだもんなあ」
 金曜日から期末試験が始まる。「あんま勉強してねえや」通に同意する紗々。祐介も同じようなものだった。「なら家で勉強していればよかったのに」そう言う茜に焦燥の感は見られない。真っ直ぐと黒い髪が列を成し、同色の眼鏡をかけている彼女は優等生の風貌を持っている。試験の対策必要なしということか。祐介はそう見定める。
「問題ないな」
 冷ややかな言葉に対し余裕に溢れる通。彼がバッグの中を探ると出てきた。古典英語公民家庭科といった教科書が。暗記して挑もうとしている教科なのだろう。チャオガーデンにいる間勉強する予定だったと通は誇らしげだ。彼が活気を出せば出すほどオセロのように気抜けする茜。あからさまな溜め息が力のない抗議として出てくる。
「一緒に勉強しようぜ」
 強く瞑った目の間にしわが増えていく。茜は顔を伏せて首を振った。通の勢いに負けたようだ。皮肉の一つも出なかった。音楽を聴いているシュンの腕を取って振らせるなどしている紗々が問題を出すように頼んだ。英語の問題が出される。単語の意味を確認していく。テスト前の教室にふさわしいやり取り。それがチャオガーデンで行われている。違和感は微量。こぼれそうなほどの草と群れ生える水が澄み切った若さを思わせている。そうなのだとは気づいていないものの祐介は場違いなことをしているようでいて不思議と居心地のよさを感じていた。茜はリンゴを抱いて時折体重をかけるようにして感触を味わいながらメタルに聞き入るシュンを眺めている。彼女に奇襲の出題が飛び込む。英語の一文が読まれた。顔も動かさず無視を決め込んだような沈黙。
「もう一度言ってくれる」
 しかしやる気のようだった。もう一度読み上げると難しそうな顔をして「発音がおかしいんじゃない」と文句を言った。読んだ本人は当然そんなまさかと言う。残りの二人は頑張ればわかるとどっちつかずなフォローだ。しかし首を傾げた彼女は「ちょっとその文見せて」と言う。教科書を見せるとなるほどと答えを言った。正解だった。
「なんだとお」
 自分の発音に不備があったかのような結果に納得できない様子だ。紗々との間では問題がなかったのだ。下手としても面妖な発音になっているとは思えなかった。やけになって問題を連打する。スムーズにいけば通が読んだ時点でわかり、それで駄目でも教科書を読めばと順調だったのだがページが進んでいくと正解がみるみる減っていった。三回に一回くらいのペースで答えられなくなった。優等生ではなかったようだ。
「わからない、何それ」
 粘ることなくさばさばと言う。成績に対する執着がないようだ。「頭いいかと思ったらそんなこともないんだな」と通に言われても腹を立てている様子はない。
「もし頭がよかったらショックだった?」
「いや違って安心って感じ。人間って意外と平等にできているんだなあと」
 茜は勉強しないからねと紗々。教科書を食い入るように見る姿は試験の間の休み時間くらいなのだと言う。学校にいる間はチャオのこと考えても仕方ないからそうするのだと茜。
「どこまでもチャオすか」
 一途すぎやしないかと思う祐介。「ね、面白いでしょ」そこがまさにお気に入りらしい。紗々の表情にアジサイが咲く。「もはや芸術の域だな」通も感銘を受けているようだ。
「成績が優秀じゃないことで褒められるのは初めてです。恐悦至極に存じます」
 肩をすくめながら綺麗な大根演技をする。目線も明後日を見ている。でもさと続けた。今度は瞳の中に三人の姿が映しながら。
「学生してたら勉強なんて誰でもやるじゃん。やんなきゃいけないから自動的にやる」でも、と茜はオーディオプレーヤーの前に座るシュンの頭に手を置く。くすぐるように触るとチャオは笑顔で彼女の手とじゃれる。「こういうことは自分はやろうって思わないとできない。だからこういう時間は大切なんだと思う」チャオをいじくる手が止まる。そうして言葉を選び言った。「楽しいことがあるって忘れたくないからさ」
 空気の流れも感じない静けさ。ぽっかり空白のできるような沈黙にここが室内であったことを思い出させる。冷たい噴水の音が頭上に降り続けて数秒茜ははっとして言った。
「ごめん、今のなし。歯が浮きそう。いや、もう浮いてる」
 取り乱した。きざなことを言ってしまった自分を恥じるあまり口から絶えず言葉が噴出する。ああだのうわあだのと悶える彼女に忘れるとありがたい言葉がかかるはずもない。
「いいこと言うなあ」
 代わりに通は褒める。茜が既におかしい感じになってしまっているために心からそう思って言っているのか定かではないが「やっぱ茜は違うなあ」とにこやかな紗々は本音と遊び心が半分ずつあるようだった。とても楽しそうだ。本当に茜を楽しい人と見てチャオガーデンに来ているのだなと祐介に感じさせた。面白い人を見つけて傍にいる。そういう楽しみ方も世の中にはあるのだと彼は知った。誰かに教わることはできない。どうやれば教えられると言うのか。五感で感じるしかない。自分の知覚できる範囲がそのまま心の教室だ。だから誰と接するかで出来上がる宗教も変わる。世界を広げて救いを得る。そのために祐介はここにいた。
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テスト
 スマッシュ  - 11/12/23(金) 0:06 -
  
 六月は一足先に去った梅雨を追って過ぎ去ろうとしていた。快晴の六月最終日は木曜日だった。雲を退けて顔を出した太陽は気温を急上昇させている。教室は電気を点けずとも明るい。思わず体を外へ向かわせたくなる日だ。余計能動的になっていてもおかしくない通は前の週と同じくチャオガーデンに行くと祐介を誘わなかった。今度は「チャオガーデンに行かないのか」と尋ねることはなかった。
「明日さえ乗り切ればなんとかなるな」
 明日から期末試験であるからだ。チャオガーデンに行く余裕はない。成績にも関わる。なるべくいい点数を取りたいと思う二人だ。祐介の出す話題もこればかりになる。土曜日曜は休み。初日をどうにかやり過ごせば二日間の休日が勉強をするゆとりをくれる。
「土日にどれだけ勉強するかだよな」
 二人で予定を話し合う。試験期間中は半日で終わり。午後を勉強に使うとして土日にどの教科を勉強するのが利口なのか。通は金曜日の午後から日曜日までを使って二日目三日目の対策をしてしまうと言う。祐介は苦手教科の補強をしようという狙いでいた。しかしおそらく遊んでしまうだろうと自虐して二人は笑った。ともかく問題は明日だと真面目に戻る。
「勉強してる?」
 全然やっていないと通は答える。「チャオガーデンで英語やったくらいだな」丁度初日の教科だ。それ以外何もやっていないと述べる。
「それまずくないか」
 もう余裕は半日もない。しかし徹夜で何とかすれば、と楽観している。その次の日が休日だから負担が少ないとのことだ。その調子で作戦通り試験二日目以降の対策をやれるのか怪しいところだ。通の成績が低落する兆し。ここで見えてしまった以上自分も同じようにはなるまいと思う祐介だ。

 試験一日目。外に出て学校へ向かわなくてはならない。憂鬱である。天気は快晴。世界は急に明るくなってどうしようと言うのか。悪天候の名残のような体。日光を遮ってアスファルトを黒くしながら歩く。晴れの日だからといい気分になれるわけがなかった。誰にとっても空は遠いものだ。気分の雨雲はそれより自分に近い場所に発生する。となれば目に見える分地上に熱を照射している太陽が鬱陶しく思うこともある。最高気温が三十度を超えるだろうという天気予報がその気持ちを加速させる。いつもより早く帰ることができる利点を考慮してもテストは学生のテンションを大きく下げてくれる。ここを突破すれば夏休みは目の前。それだけを推進力にして惰性で進んでいるような時間と共に進んでいくのだ。
 祐介が教室に入ると教科書をむさぼるように見ていた通が開口一番「やべえ」と言い放った。
「いきなりどうした」
「聞いてくれよ。昨日ついゲームやってたら寝る時間になっていたんで寝たら朝になってた」
 つまりどういうことなのかと聞くとゲームと睡眠で勉強する時間の全てが潰れたのだと言う。「あほだお前は」それともわざわざ勉強するまでもないという自信の表れなのか、とからかう。
「違うんだ。聞いてくれ俺の果てのないかと思われた壮絶な戦いを」
 それよりも勉強をした方がいいと指摘してやっと通の目は教科書に戻る。やれやれと祐介。自分まで残り少ない時間を雑談に食われるはめになるのはごめんだった。最後の抵抗を続けるがまだ足りないと思うところで担任が入ってくる。自信のなさを拭えないままテスト用紙が目前に迫ってくる。通の様子をうかがうと既に灰のようになっていた。
 英語の試験。日本語とは違う形の文字が連なって文章となっている。集中しないとわけのわからない記号の羅列に見えて頭が理解しようと動かない。慣れ親しんでいないものを理解するのは難しい。今まで知っていたルールが適用できるとは限らないからだ。似ているようでも別のものなのだ。茜が答えられなかった問題を見つける。教科書からの出題であるため通の出した問題がそのままテスト用紙にある。だから祐介はすんなりと答えを書き込むことができた。茜も今頃この問題と直面しているのだろうか。あの時のおかげで答えられただろうか。それとも思い出せなくてもどかしい思いをしているのか。彼女のことが気になる。チャオを慈しむ姿が記憶から浮かぶ。あの姿も過去の自分と重なるようで重ならない。チャオを飼っている点では共通するもののそれ以外は大きく違っているように思う。僅かな一致と深い差異が祐介に興味を持たせる。しかし今は試験中。彼女のことを考えて時間を失うのは痛い。試験に集中しようと目が机に近づいた。それでも離れるまでに少し時間がかかった。
 一つの教科が終わるごとに肉体と意識の連結がカットされていた通も放課後になって復活した。打ち捨てられた人形のような感じはなくなった。その一方で「今日から勉強頑張る」と改心したのかそうでないのかわからない。家に帰ればすぐにゲーム機に飛びつきそうで成績の三途の川を行ったり来たりしている。舟には彼の心情も乗せられている。月曜日にはまた彼の精神的大出血を見ることになるかもしれない。それはそれで面白いかもしれないと祐介は思う。他人の心配はあまりしないタイプなのだ。昼間の真上から刺すような日射の方が深刻だ。汗が少しずつ浮かんできているのを感じていた。それに合わせて焦燥感もにじみ出てくる。自分は何に焦っているのだろう。そう不思議に思いながら帰宅した。

 部屋に入って寝転がる。きっと机に向かって勉強を始めればテストの点数が高くなるのであろうが体はベッドに吸い込まれた。布団の引力と教科書への反発によって大抵の人間はこうなってしまうのだ。テストが終わって学校から帰ってきてすぐに勉強に戻れる人間がどれだけいるだろう。昼食の後誰もが趣味や睡眠に引き寄せられるはずだと祐介は信じている。それを理由に自分も枠にはまっている。意思の強い人間はうらやましい。それほどまでに気分は理性を振り回す。頑なな人。茜がきっとそれだ。そう思ってはっとする。もしかしたら彼女はこの休日もチャオガーデンに行く気なのではないだろうか。そして勉強はろくにしない。そうだと仮定した時の祐介の彼女を見る目は通の時とは違う。憧れで瞳孔が開く。口元が緩む。そういう人間がいることに喜びを覚える。藤村茜は祐介にとって希望なのだ。そして自分もチャオガーデンに行きたいと思う。行こうかな、そう考えていると自発的にチャオガーデンに行こうとするのは随分久しぶりであることに気づいた。この一ヶ月自分から行ったことはない。だから三年前のことになる。チャオが死ぬ数日前に行ったのが最後だ。今祐介はチャオを飼っていない。それなのにチャオガーデンに行こうとすることに抵抗があった。流行していた時期は飼っていなくてもチャオを見るためにガーデンへ行く人はいたものだが。しかし好きでもないのに行くケースは少ない。ブームが廃れた今となればなおさらだ。チャオは好きだが近寄ることに抵抗がある。自分のせいで転生できなくなってしまうような気がする。だからこの一ヶ月、チャオと一切触れていない。死なせてしまった、と思っている。祐介は転生を見ることしか考えていなかった。そのために可愛がっていた。目当ては転生でチャオを愛しているからなでるわけではない。その行為に罪の意識がどこかにあった。だから卵が残らずに消えてしまった時不純な心を指摘されたように感じた。悪いのは自分。それが永遠はないという認識と共に脳に焼きついた。趣味もいつか興味が失せて終わってしまうもの。永遠ではない儚い行為。大多数の人間がそうだと祐介は確信している。しかしそれはその人が脆いからなのだとも同時に思っているのだ。趣味が頼りないものだから手に取らないわけではない。自分がいつかその趣味に飽きてしまうであろう人間だからできない。祐介は探している。自分を変えてくれる何かを。世界は面白さに溢れているのだと証明される日を待ち望んでいる。茜にはその素質がありそうだった。問題はそのためにチャオガーデンへ行って彼女の傍にいることの是非。チャオのための場所をそのような足で踏むことに罪悪感がある。しかし彼女の他に頼みの綱はない。迷い迷った祐介の脳裏に突如現れたのは通と紗々の顔だ。二人は自由気ままに動いている。チャオが好きでもないのにガーデンを頻繁に訪れては楽しんでいる。通がふざけて遊ぶように紗々が人と話して笑うようにやりたいことをすればいい。そう結論すればもう考える必要はない。チャオガーデンに行くことに決めるのであった。
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ゴールデンレトリバー
 スマッシュ  - 11/12/23(金) 0:07 -
  
 火曜日になった。茜がチャオガーデンへ行くらしい日だ。紗々が来ないためにこれまで通に誘われることはなかった。その通はスクールオブザデッドの様相。喉から人ならざる声を垂れ流していた。試験によってゾンビ化した彼を元に戻すのはゲームだ。一度触れれば勉強の入る隙はない。哀れなループも明日で終わる。祐介は土日を利用して最終日に備えていた。昼食もあらかじめ用意してある。財布の中身もチェックしてきた。明日もテストがある等理由はいくらでもある。やっぱりやめたとならないようにチャオガーデンに行く気満々な自分を演出しているのだ。今日は他がいない。いつもと違った彼女が見られるかもしれない。そうして自分を前進させて徐々に重くなる足を施設の前にたどり着く。これでいなかったら大損だ。茜の熱狂が常識を超えていることを祈って中に入る。昼時だからか人の姿はほとんど見当たらない。制服姿もない。足と腰と首が動きに動いて探す。いないのかと思った時にようやくシャツを来た少女とその傍に置かれたブレザーを見つけた。藤村茜、試験期間中でも通常運行のようだ。水辺の傍にいた。
「流石」
 こういう時に独り言をつぶやくのはドラマの中のことと祐介は思っていたが、今回ばかりは自然と口からこぼれた。気になることもあった。彼女の隣にはボーダー柄のティーシャツを着ている女性がいた。一つに結った髪の尻尾がとても長い。高校生ではないようだった。こちらに背を向けて座っていて歳はわからない。二人の顔の向く先は水場。そこでチャオが泳いでいるようだった。二つの背中で隠れていたチャオがするりとスムーズなクロールをしながら出てきた。チャオにはふさふさとした毛の耳が垂れていた。手足や尻尾にも山吹色の毛が生えている。それを見て仰天している祐介の姿に茜が気づいた。どう挨拶したものか。いつもは通がいたため何も考えることはなかったと思いながら、適当な言葉が見つからず無言で軽く挙手した。それに応じて茜の右手の顔の横まで挙げられた。そのやり取りで女性も祐介を見る。制服姿。ブレザーについている学校のエンブレムは茜のについているのと同じだ。それを認めてから一秒の間を置いて「友達?」と茜に聞いた。彼女は肯定した。「そうです」と答えられて一応友人として見られてはいることに嬉しさを覚える祐介だ。高井工場は友人の生産能力に乏しいのである。茜と祐介を交互に見る興味津々の顔にはあどけない丸みがない。歳の差を感じた。それで祐介は「知り合い?」と茜に聞く。
「星野です」
「あ、どうも。高井です」
 会釈を交わせば一番の関心は泳いでいるチャオだ。普通に育てていればチャオに毛が生えることはない。小動物をキャプチャさせたということになる。興味はあるが気楽に触れることはできない。世間的にはキャプチャさせることは無垢な動物を一匹殺したのと同義だ。後ろ暗い事情を思わずにはいられない。何をどう言えばいいのかわからず黙ったままチャオを見ていた。その間を茜の返答が埋めていた。彼女のユイというチャオとよく遊ばせてもらっているということを言っていた。
「珍しいでしょ。ゴールデンレトリバー仕様」
 朗らかな星野。祐介は距離感を掴み損ねた。キャプチャ能力が世間一般に恐れられているのを知らないわけではあるまい。彼女の脳みその形が、わからない。適切な言葉の選出が不可能になる。視線がさまよって彼女のチャオへ。体毛から元のゴールデンレトリバーの姿が想像できた。チャオと犬で作られたキメラのよう。キャプチャが忌み嫌われるのは、他の動物が混じっていることが不気味に見えるからなのかもしれない。祐介は少なくとも不恰好であるように感じていた。反応のない彼を見て茜が聞いた。
「キャプチャしたチャオ見るの初めて?」
 かくりと頷く。「なるほどね」と星野。「そりゃ驚くか。タブーな感じだもんね」祐介は助け舟のおかげで日本語を取り戻すことができた。「驚きました」と素直に答えつつ、どうしてこのようになったのか理由を遠慮がちに尋ねた。言えない理由があるなら無理には聞きません、と言いはするものの知りたい気持ちがそうさせる。
「可愛いかなって思ってやってみたってところかな」
 さらりと言った。笑顔が不快に歪む様子はない。ドキュメンタリーで職人が語るようなビー玉の声をしていた。元々キャプチャに興味があったのだと語る。確かに動物の命を奪うことではある。他のペットを飼っている人からすればたまったものではない。しかしそれを承知でやってみたかったのだと語る。
「どうしてやってみたかったんですか」
「なんだろうねえ。どうなるか気になってたし、別にそこまで神経質にならなくたっていいじゃん、みたいなことも思ったんだよねえ」
 他人様のペットを勝手にキャプチャするのは当然いけないこととしても、ちゃんと自分で管理してキャプチャさせる分にはいいはずだというのが彼女の主張だった。そして実際にキャプチャさせてみると体につく動物のパーツが意外と可愛らしかった。そのために続けているのだと喋った。その語りを聞いているうちに、罪悪感とは全く無縁そうな言い回しのせいで、本当にキャプチャが悪いことなのかと祐介の価値観がぐらぐら揺れる。その揺れがさらに動揺を深める。
「そうそう、キャプチャさせると綺麗なんだよ。なんかチャオと動物がきらきらってちょっとだけ光るの」
 生命の輝き。そう星野は表現した。
「神秘だよねえ」
「神秘の力で泳ぎが速くなったと」
 茜が手招きするとユイは岸に向かって泳いでくる。滑るように速い。その言い方酷いと星野にタックルされている茜の両手にその体を収めた。尻尾を振っている。人がやっている猫耳をつけるコスプレなどとは違い本当に体の一部になっているのだ。泳ぎが幾分速いのもおそらくキャプチャした影響なのだろう。環境に順応するためにあるという説を聞いたことがあった。犬をキャプチャすることでこのチャオは何に適応したのだろうか。そうしていく末にチャオガーデンなどいらない身体になることはあるのだろうか。
「高井君は抵抗ある?キャプチャ」
 混ざってこない祐介に星野は問いかける。茜がまさに耳に指を滑らせているチャオを見つめる。気持ちいいのか丸かった浮遊物がハート型に変化していた。茜の微笑から触り心地がよさが伝わってくる。緑色の優しさが牧歌的な雰囲気でもって彼女とチャオを抱擁している。チャオに犬の毛が生えていることへの違和感はある。しかしそれは慣れていないだけだ。倫理の外にいる風の光景ではない。
「よくわからないです」
 だからそのような返答になる。言葉足らずのような気がして「動物の命を奪うのはいいことではないのかもしれませんけど、でもそこまで悪いことだっていう気もしなくて」と吐露していく。対立する気はないのだと主張したいのだ。
「いやあ類は友を呼ぶものだねえ」
 彼の口が止まるのを待ってから星野はころころ笑った。「チャオ飼ってる人でもキャプチャに否定的な人って多くてさ。視線痛いんだよ。平気なの茜ちゃんだけだったんだよ」チャオ好きのママトモも全然できなくて、と苦笑いする。それで二人で端にいたのかと祐介は納得がいく。抵抗ないのか、と茜に聞くと「可愛いければそれでいいと思う」と単純な答えが返ってきた。倫理を無視した考えに祐介が唖然としなかったのはこういう人間だとわかりつつあったからなのか、それとも彼女のシンプルなこだわりに賛同しつつあるからか。
「類は友を呼ぶ、ねえ」
 自分は倫理に縛られている。表面の行動は一緒でも同類ではない。そのような気がした祐介は試しに「似てるか?」と茜に問いかけてみる。「冗談」彼女は鼻で笑ってみせた。「私のようになるにはまだまだ脳みそが硬すぎる」図星。彼女も同じように思っていたのだ。衝撃が架空の撞木となって心臓という鐘を打つ。しかしそれを気取った様子もなく「もっとゼリーみたいにならないと」と続いた。自虐したかったようだ。
「あんたの脳みそはチャオなのか」
 肩透かしを食らったようで苛立ちを微量含ませた。しかし今の返しはよかったらしい。茜の頬が上がった。「そうだったら面白かったかもね」
「いっそチャオにキャプチャされればそうなれる」言いながら光景をイメージする。チャオがキャプチャした瞬間茜の姿が消滅した。あれ、と祐介の眉が寄る。「いや違うな、それだとチャオの脳みそか」頭の中にチャオがいるのとは正反対だ。空回りを予感したが、それそれ、と星野が大きな声を上げた。
「チャオにキャプチャされるの」
 興奮気味に発言の一部を切り取った。茜の「人が?」という確認に「人が」と強く反復する。「そういうことあるかもって思ったことない?」
「ありませんけど」
 茜も首をひねった。「あれ、ない」星野の声が空転にすとんと静まった。私だけなのかと残念そうに言う。
「キャプチャさせてるからじゃないですか」
「そうかもねえ」
 星野は自分のチャオがキャプチャに慣れてより大きい動物相手にもできるようになりやがては人間さえも取り込めるようになるのではと考えたことを話した。
「でも人間キャプチャしても可愛くなさそうなんだよねえ」
「そこ問題ですか」
 外見よりも重大なのがあるだろうと祐介は主張する。人間をキャプチャできるならばチャオは人間を殺せる獰猛な獣だ。「それってチャオ好きにとっては大問題でしょ」
「そんなことはない」茜は突くように言い放った。それからチャオを撫でる手つきのような声で「可愛いって思えるなら死んでも飼うから」と言った。彼女ならそういう考えがあっても不思議ではないなと祐介は思う。しかし楽しければそれでいいと思い切るのは難しいどころの話ではない。少女に化けた仙人か。命を費やせる程に没入するできるのは羨ましい。そう感じる祐介。俺も仙人になってみたい。そうしたらこの動かない空も面白いのだろう。
「ちょっとそんなかっこいいこと言わないでよ」星野が慌てていた。私は無理、と言う。死ぬために飼うような真似は。当然の答えのように思える。しかし「自分のチャオが成長してキャプチャされちゃったってなら別にいいけど」などと付け足せてしまう。その場合ならば仕方ないと思えるらしい。やはり普通とはずれているように祐介は感じた。それはいいことなのだろうか。彼女は自身のチャオを抱き上げ毛に触れる。くしゃくしゃにしたり手櫛で梳いたり。そこに疎外されている人間の悲しみは見て取れない。それでもきっと辛いに違いないと祐介は思った。葛藤はあるはずだから。キャプチャさせる自由と他人との協調。天秤でどちらが重いか量っても片方を捨てる辛さはあるだろう。ましてやキャプチャは禁忌に近いのだ。だからそれでも星野という女性が笑顔を絶やさずにいることを覚えておきたいと思った。幸せというのはいい加減なものなのだと好意的に捉えられる気がしたからだ。
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グーパンチ
 スマッシュ  - 11/12/23(金) 0:09 -
  
 テストが終了した翌日。生徒たちの足取りはどこか軽やかさを感じさせる。爽やかな少年少女に呼応するように空は青を濃くしながら白い雲をアクセサリーにしている。しかし自然の気遣いに目を留める者はいない。試験が終わっても授業は午前中のみで終わる。アイドル、映画、ショッピング、カラオケ。解放感と共に流行という水遊びを満喫する学生は少なくない。夏休みへ向けて気楽なムードが溢れていた。彼らは波に乗るのが上手いと祐介は評価していた。頻繁に耳にするアーティストの名前は昨年とは違う。本当は彼が極めて下手なだけである。色々なものに夢中になっていく様。それに対する祐介の眼差しは尊敬が幾分多い。いつか飽きるという自覚。それは彼にとって真理ではなく呪いに近い。人の話を聞いていけば興味というのはどんなものにも向けられるのだということがよくわかる。無数の娯楽とそれらに時間を投じるそれ以上に無数の人。それらの中に入れそうにない。意味が欲しい。枯れ木になってもなお大切にできる理由。チャオガーデンの自然は快活な緑と茶色でもって人々を迎えている。しかしそれはよくできた張りぼての可能性もある。そういうことを考える。祐介の心情から見る木々はどこか空回りしていた。にぎやかに生えている様子が苦い。チャオブームはもう白い繭の中。活気はもう掻き消えるためにだけあるようなものだった。藤村茜や星野由香里、強い個性を放っていなくともそれに準ずる佐伯心などのような物好き。世界が彼女らのような人の存在を認める限り儚い余生が続く。人間は一つのことにどれくらい打ち込めるようにできているのだろう。とりとめのないことを考える暇は終わる。チャオガーデンで祐介と通は女子二人と合流した。いつもと違い昼間であっても紗々がしっかりいた。少なくとも茜はいるだろう、という判断でもってチャオガーデンに寄ることに決めた二人にとっては少なからず嬉しいことだった。特に通は大喜びで彼のテンションはロケットの打ち上げのように上昇していた。これからがチャオの食事の時間らしい。しぼんだコンビニの袋と交代するようにして鞄からチャオ用の缶詰が出てきた。タブを引いて蓋を開ける。中には薄いピンク色の果実が見える。一切れを指でつまんでチャオの口に運ぶ。歯は見当たらないのに咀嚼をしている。飲み込むまでの時間を茜が次の一つを指ではさんでいると男性の声がかかった。
「おうい藤村ちゃん」
 顔にしわが少し目立ちつつある男性だった。二十ほど年上でもおかしくない外見である。男の歩くのに合わせて白い天使のようなチャオが走ってくる。
「おっさん」
 彼のことを紗々も知っているようだった。この人は一体誰なのか、という顔をする祐介と通。おっさんと呼ばれた男性の方の男二人を見る表情は彼らと違った。二人の顔を味わうように数秒見た後、茜に「二人が?」と聞いた。茜の頷くのを見て「どうも黒田って言います」と笑顔を見せた。自己紹介をしつつ「若い人がチャオガーデンに来ると楽しくていいねえ」などと若い衆を褒めちぎる。
「ええと、この人がチャオのかぜの時に教えてくれた人」
「あ、絵本の人」
 そこが印象に残っていたのだろう。祐介が反射的にそう言うと黒田の顔が表情の定まらない中途半端な形をうろうろする。うようよと動いた眉毛は最終的に困惑の苦笑となって「絵本の人って」と力の抜けた声を出した。「他はチャオのこと詳しいってくらいしか知らなくて」祐介も苦笑いで謝罪する。その二人のやりとりを受けて茜が「黒田さんのチャスケは転生三回してるんだよ」と新しい情報をよこす。
「転生」
 祐介の反応は極めて良好。三回という回数も彼の心を動かす。チャオは大体六歳で寿命を迎える。三回転生しているということはつまり。「あれ、俺たちより年上?」人にとってはとても小さいチャオの体。それが大人並の背丈になった自分たちより長く生きていることに驚かないわけがなかった。一歳のチャオも三十歳のチャオも外見に大きな差を感じさせないのがチャオだ。
「二十年くらい生きてるね」
 黒田がそう言うと茜以外の三人が「二十歳」と驚く。「そんなに生きてたんだ。おっさん凄い」紗々の絶賛だが黒田の反応がいまいちだ。通が乗っかって「凄いなおっさん」とはやし立てると表情がさらに柔らかさから遠ざかった。「おっさんおっさん言うな」諦めのにじんだ溜め息が出ていた。
「そうそう、これ作ったんだ」
 黒田がバッグの中からプラスチック容器を出した。保冷剤の入ったその容器の中から小さなカップが二個入れられている。中身は赤が鮮やかなゼリーだ。「トマトのゼリー」女子二人がおお、と感嘆の声を上げた。カップの一つを使い捨てのスプーンと一緒に茜に渡した。それを受け取った茜はすぐさま屈んだ。ゼリーをすくってそれをチャオの口に運んだ。
「そっちなの」
 抗議に似た荒い声を紗々が上げた。さも当然のように茜は「そうだけど」と返す。黒田はチャオのおやつを作るのが趣味なのだと言う。そうしてから紗々の反応の意味をしばらく考える。「ああ」と理解すると彼女はスプーンを自分の口に運んだ。
「おいしい」
「私にも、私にも」
 多くはすくわなかった。しかし茜は彼女の口にゼリーを入れてやる。「ここでもこういうおやつ売るべきだよね。それさえあればここ遊び場として最高だよ」その主張にチャオガーデンは人の遊び場ではないと指摘するのは茜の役目だ。
「どうしても食べたいなら、食べればいいじゃん」
 そう言って差し出すのはチャオ用と書かれている先ほどの缶詰だ。「いやそれは」チャオの餌だからと拒否する紗々。「でも普通の果物だから食べられる」茜がフォローするものの紗々の腰はどんどん引けていく。眼鏡がある種の狂気を感じさせたようだ。理知的な狂気。それを見ている黒田が「別に食べても平気なんだけどなあ」と言う。チャオを飼ったことのある祐介もやったことがあると同意した。チャオを飼っている人の中では普通なのかと紗々は愕然としたようだった。「猫飼ったらキャットフード平気で食べそう」そしてそう評価した。
 黒田も自分のチャオにゼリーを食べさせ始める。口にゼリーを入れる合間に茜のシュンのことをちらちら見ていた。いくらか観察していた黒田が口を開いた。「シュンちゃん、もうそろそろかもね」突然そう言ったのでほとんどがそろそろとはどういうことなのだろうと考えを巡らす中で茜が「もうすぐ、ですか」と幾分シリアスな面持ちで確認した。黒田が「だと思うよ」と返す。静けさはあるもののこちらは緊張の様子が少なめだ。
「ええと、どういうこと?」
 通が聞くと「寿命の話」と黒田が短く答えた。続く茜が「黒田さんはチャオの寿命がわかるんだよ」と補足を始めた。何回もチャオの転生を見てきた彼は寿命が近いチャオがなんとなくわかるのだという。経験則によって僅かな違いを察知できるということらしい。眉唾に感じる者もいたが経験則と言われてしまうと疑う気が弱くなってしまう。「必中ってわけじゃないけどね。それに歳で大体わかるしさ」近いと感じてから一ヶ月以内に寿命を迎える確率は半々くらい。だから占いみたいなものだと彼は言う。「でもこいつが二回転生してからなんとなくわかるようになったよ」最初は他人のチャオの寿命が的中してそこそこ驚いたと語った。
「転生させるコツとかあるんですか?」
 祐介が問う。
「そうだなあ」
 黒田は一分ほど考えた。その間にどのような答えが頭の中に生まれては消えたのか。彼が熟考の末に出した結論は法則を見抜いた賢さを感じさせるものではなく、いたずらめいたものだった。
「生まれたらすぐにグーパンチで殴ったらいいと思うな」
 幸せを糧に転生するチャオに暴力は無論ご法度だ。常識ゆえ脊髄反射のように「それはだめでしょう」と祐介は即座に否定した。そういう冗談なのだろう。そう思っていたが、否定された黒田の笑みはギャグによって笑った形ではなかった。にやりとしているのである。
「殴ったりしたら転生できないって思うだろう?」
「そうですね」
 何やら話が不思議な方向に持っていかれそうだぞ、と感じながら祐介は相槌を打った。黒田は得意げで顔のにやにや度合いが増していく。
「だから転生がどうこうとかいう打算抜きでチャオを付き合えるんだよ」
「打算、ですか」
「恋に恋するみたいにさ、チャオじゃなくて転生を愛してる状況じゃだめだと思うんだよね」
 転生が目当てで可愛がっているだけだと、そのことをチャオも悟って自分が愛されているわけではないと思うのではないか。それが黒田の見解だった。転生を愛している。祐介にはよく理解できた。過去の自分がまさにその状態で、だからこそチャオは転生しなかったのだと思っている。だからグーパンチが彼の中で本当にいいのかもしれないと思わせる提案になってきていた。
「でも、殴っても本当に転生できるんですかね」
 根に持ち、怯えて心の傷となる。人間にもあることだ。フォローは可能なのか。黒田は「どうだろうね」と無責任そうな返答をする。「まあ転生しなくてもいいんじゃないかな」とまで言い出した。
「転生しなくていい、って」
 それはおかしい。
「転生した方がいいのは確かだろうね。だけど転生がチャオの全てじゃないことも事実でしょ」
 目をぎょっとさせた祐介をなだめるように優しい感じだった。
「進化して色んな姿を見せてくれる。ぷるぷるした体は他のペットにはないし、大っぴらにはやりにくいけどキャプチャだってある」
 生き死には忘れてそういうものだけを見ていてもいいはずである。そういう主張だ。
「そうやってチャオと楽しく過ごすのが本当に大事なことだと思うよ。だから死んでしまってもいいんだ」
 死んでしまってもいい。そう言い切る黒田にチャオはよく懐いている。ゼリーを介して触れ合っているどちら側も楽しそうだ。そしてその清々しさは茜とシュンにも分けられて、胃の中を満たしていっている。食事の光景は意外にも幸福を感じさせた。永遠に続くこと。手に入りにくいためにその魅力はとても輝いて見えていた。しかしそれに囚われているあまり他のあらゆる魅力を見落としていたことに祐介は気づいた。いつか来る終わりよりも今に価値を見出せるのならば。喜びも悲しみも心を潤す重みとなる。
「そうか」そうだったのか、と祐介は呟いた。「転生しなくてもいいのか」肩の荷が下りた気と、これが荷だったのかという驚きとがあった。
「殴るのは本当にいいかもなあ。ヒーローチャオは見飽きてきたから殴ってダークチャオにするとか」
 空気が一段落着いたところで黒田がそう言った。今度こそ本当に冗談。「サンドバッグみたいに殴らないと」と茜がジェスチャーをして見せる。チャスケは会話の内容を理解しているのか、ぷるぷると体を震えさせて怯えた。その様子に笑いが起こるとそのヒーローチャオもおどけるのをやめて笑い出した。誤った認識が本当のものなら、この人はきっとダークチャオを育てられそうだと祐介は思った。彼のような無神経さでもって今度はチャオを飼うことができればと願う。またチャオを飼おうと決心していた。
「そういやチャオのかぜって結局どういうことなんです」
 トマトのゼリーをたいらげたシュンはクレヨンを選んでいる。スケッチブックを出しながら茜が聞いた。そういえばまだわかっていないままだったなと祐介は思い出す。「そうそう、気になる」と紗々が同調していた。
「ああ、それねえ」
 んんんと視線がしばらく空を描いた天井に注がれた。「答えは君たちの心の中に」苦しい言い分に高校生四人の冷たい目が容赦なく集中すると黒田は困惑した。
「え、駄目?」
 苦笑いした黒田。今度は「本気だったんですか?」と眉をしかめた茜の言葉が向けられる。そうですよ、ときっぱり言いそうなくらい素直に黒田は首肯した。
「じゃああれ、意味なんてなかったってこと」
 無駄骨を折った。叫びにも似た紗々の驚愕の声がそう言わんとしていた。非難を浴びせるような含みもある強い声に「いや、意味はあるんじゃないかな」と黒田は四人の言うところの本気を感じさせることを言い始めた。「書いた人はなんか言いたくて書いたんじゃないの。俺にはよくわからないけど」
「作者は何が言いたかったのでしょうか、ってわけか」
 国語の問題みたい、と通と紗々がげんなりとしていた。
「そういうわけじゃないよ。別に作者の主張が絶対ってわけじゃない。自分がしっくりくる解釈をすればいいんだよ」
 だから答えは心の中にと言ったのだと黒田は言った。
「それならそういうことだと最初から言ってほしいです」
「そこは流れで汲み取ってくれよ」
「無理です。年代が違うのは拡張子が違うようなものですから」
 茜の毒にやられている黒田の姿は歳を取ることの憂いの縮図だ。しかし自分より長い人生の中で、作者は絶対ではない、と彼は言えるようになったのだろう。そのことを祐介は羨ましく思っていた。作者の言いたいこと、テーマ。そういうものは絶対的に正しく見える。本当はもっと余地があるのかもしれない。人の心を介すると、リンゴは重力を受けなくなる。では自分にとってチャオのかぜとは何か。どうしても青い鳥のイメージが祐介の中にはあった。違和感を抱えたままではあるが幸せが身近にあるという考えには賛同できる。もしかしてチャオがそれなのだろうか。シュンの描いた赤い台形の絵はその象徴かもなどと考えていた。まだ祐介はチャオのかぜを感じていない。

 夜、自室、一人。目に映る世界がとても狭くなる時。こういう時が自分の心を見つめるのに丁度いい。祐介は意気込む。チャオを飼おうと思うことができたこと。一瞬の気の迷いかもしれない。明かりを消した室内のように暗い心象風景にいる自分は弱虫だ。その弱虫に勝ちたいと思う。チャオを飼うにあたって最も突破が難しいところではある。自分の心は過去の積み重ねだ。何年何十年と蓄積してできた価値観をたった数日で書き換えることはとても容易なことではないのだ。変わろうと思っても変われない。それが当たり前ですらある。いくら進もうという意思があっても足枷はなかなか外れない。足枷が推進力に変わるように自分を見つめなおす。チャオを飼うこと。趣味に没頭すること。それを避けるようになったきっかけで思い当たるのは一つだけだ。結局チャオは転生せず死ぬから、没頭しても意味はないという理屈。それを証明するように、日々新しいコンテンツが生まれ、古いものは段々と影を薄めている。新陳代謝と共にチャオへの情熱など消えてしまうに違いない。冷たい世界。祐介はその中で生きている。そこまで整理して、彼は新しいものの見方を登場させてみる。一年に満たない短い期間で色々な価値観と触れた。チャオガーデンに入り浸る人。彼女たちはきっと、世界が冷たいことも知っている。祐介と同じに。違うのは、世界の冷たさを気にしないというところだろう。祐介はそう解釈する。チャオが転生せずに死んでしまうとして、それでも楽しいことはあるのではないのか。それを証明する手立ては多数ある。それどころか案外楽しいという感情はいい加減に発生するものらしい。結果より過程が大事、というわけではないが。その時々の自分の気持ちというのは大事にされるべきだ。人の心を動かすのは、重力エネルギーなどではないのだから。転生、生き死に。それは大事なことじゃない。暴論はしかし祐介の中でしっかり立っている。あらゆるポジティブな意見を連発してネガティブとのバランスを取っていく。不安は打ち消せない。不安を許容するだけの重みをやる気に持たせるだけだ。人にはそれしかできない。天秤をじっくり見つめる。大丈夫、彼女だっている。不快が胸の内を押しつぶす気配はない。ふう、と溜め息を思い切り吐いた。意図的に何度も出す。そうやって祐介は解放感に身を委ねていた。チャオはきっと死んでもいい。チャオのことを皆が忘れてしまってもいい。そういうものなのだろう。
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チャオのかぜ
 スマッシュ  - 11/12/23(金) 0:10 -
  
 二匹のチャオの世話をする藤村茜。世話とはいうものの大変な作業ではない。ほとんど二匹で遊ばせているのを見ているに近い。生まれてから一ヶ月ばかりしか経っていないチャオに芸を仕込むようにシュンは自分のできることを見せていく。何度か繰り返してリンゴは歌の真似事ができるようになってきた。それとなく節ができてくると佐伯心は凄い凄いとはしゃいでいた。二人以外も至近距離でないがチャオの引力の影響下だろう。まるで小さなキャンプファイヤーだ。通と紗々はチャオに興味を示すことが少なく祐介はどっちつかずなのは最初から変わっていない。しかし祐介の心にはいくらか余裕が生まれていた。一発芸をしていた時、自分も向こう見ずに混ざっていけばよかったなどという後悔ができるほどに。チャオそっちのけ組の話題は夏休みに移った。学生の中で最もホットな話題だ。
「この面子でなんかしたいな」
 通が提案する。できれば海に行きたいと添えて。そして紗々の足からホットパンツへ、そこからさらに上へ上へとボディラインを見ていく。その下心を感じたようで「海以外にどこか行きたいね」と紗々は回避行動に出た。まだ一ヶ月の付き合い。いきなり海はハードルが高いだろう。そこをくんだ祐介は「どっかの祭りに繰り出すとか?」と無難そうな案を出す。そこから話は膨らんで「この時期が一番楽しかったというオチ」と茜も冷たい言葉を入れてきた。夏休みの予定を考えて期待に胸を膨らますことのできる今。これもまた夏休みの恩恵か。祐介は長期休暇に感謝する。既に楽しくなっているからだ。
「なんやかんやでここに集まりそうだけど」
「ありそうありそう」
 紗々が笑う。その様子だと夏休みでも来る気でいるのだろう。物好きだ。他の面子はどうか。チャオガーデンに茜が来るのは言うまでもない。通は女子が来るのであれば来るだろう。
「夏休みなのに、結局普段と変わらない、と」
 揚げ足を取るような茜。彼女は夏休みをどう思っているのだろうと祐介は思った。今の発言は夏休みだから特別なことをしたいと言っているようにも取れる。しかし彼女にとっての夏休みらしいこととは平日の朝からチャオガーデンにいられることかもしれない。ただの毒の可能性ありだった。
 まあどっちでもいいか。
 そこまで考えた祐介はそう結論した。どうあれ彼女はチャオとの生活を満喫するのだ。夏休みなどは関係なく自分がチャオを飼い始めることで新しい面白みを彼女と共有できれば満足。共有。祐介は共有したい。あれ、と自身の感情に違和感を覚えた。
 別に俺がチャオと楽しくいられればいいわけなんだけど、どうして藤村さんもと思うんだろう。
 これはもしかしたら恋なのだろうか。そう思った瞬間祐介の心拍数が上がった。自分は恋をしているのだろうかという意識で胸をどきどき言わせている自分をどこか滑稽だった。通のことを笑えないかもしれないなあと祐介は内心苦笑いした。

 日曜日のチャオガーデンは木々もどこかよそよそしい。その鮮やかさも駆け回る子どものものだ。祐介の見知った顔は茜のみだった。人口密度の低い場所を見つけ岩を背もたれに座っていた。騒ぎ立ててエネルギーを発散わけでもなく緩やかに生涯を消化するわけでもない少年少女にうってつけの場所だ。そこでもたれている黒い髪は静かに流れる。服の色は明るいが灰色の落ち着きようが地蔵のようだ。祐介が声をかけると大人しい印象に少し変化が訪れる。顔が向けられることで眼鏡のフォルムがはっきりと見えてくる。声の主に目が視線を投げかけて一転、地蔵を思わせたものたちから知性の鋭さがにじみ出て弁慶らしさが出る。
「今週四回目だけど、病気?」
 来ることを想定していなかったためにそう言うまでしばらく時間を要した。
「そしたらまずあんたが病気だ」
 祐介が言い返すと、そうではなくて、と茜の溜め息が漏れる。「チャオ飼ってないのに、よく来る」現在のチャオガーデンは、チャオを飼っていない人間が来ることはまずない。チャオに無関心な人間が多いグループがここで集まっていること自体、かなりのレアケースと言える。興味なさそうなのに週に四回もガーデンを訪れることも同様だ。
「いや、飼うことにしたから」
 ぽかんとした茜はその三文字分だけ間を空けて「どういう風の吹き回し?」と聞く。どう答えたものかと考える祐介。今までの葛藤を馬鹿正直に話すのは少し恥ずかしい。そこにドラマのようなセリフを吐いてみたいというかねてからの欲求が身を乗り出してきてしまった。「転生をしなくても、いいかなって」遠い目をしながらそう言ってしまった。茜の方に向き直ると眉がなんのこっちゃと言っていた。脈絡なかったのだから当然か。そう観念して事情をかいつまんで話すことにした。前にチャオを飼っていた時、転生のことばかり考えていたこと。しかし死んでしまったこと。そのことがちょっとしたトラウマになっていたこと。
「でまあとりあえず吹っ切れたんで、もう一度飼ってみようかなっと」
「そう」
 チャオと遊んでいる子供がチャオに何かをはやし立てるだけの間があった。端正な顔はもう祐介の方を向いてはいない。その彼女の口から出た言葉は存外優しげなものだった。「今度はいい思い出ができるといいね」目線の先にはシュンがいる。絵を描いていた。恒例行事にも思えるその遊びはもう完成しかかっていた。描かれているのは飼い主の顔だ。眼鏡の形を確認してから、その通りにスケッチブックに色を塗りつけた。完成して再び顔を上げたところでシュンが祐介に気づいた。彼の顔をじっくりと観察する。祐介も祐介で自分も描いてくれるのかと期待の眼差しで見る。見つめ合う形となる。顔を逸らしたのはシュンの方だった。何事もなかったかのように絵を茜に渡した。がくりと祐介の頭は重くなった。
「こっちは描いてくれんのか」
 落胆は流された。茜はスルーしたし祐介もすぐにどうでもよくなっていた。どこからか殺気のぎらつく茜の絵だ。とりわけつり上がった目が怖い。しかし下手ながら特徴を捉えているとも言えた。何を思って描いたのだろう。飼い主の茜も量りかねて顔の下半分は笑顔を作りかけていたのに上は困惑に満ちている。こちらの表情を絵の題材としてはよさそうに思われた。おもちゃはチャオを楽しませる物だと思っていた。チャオを楽しませることで幸せにして、そして転生に近づける。しかし視線をチャオから少し遠ざければ飼い主も楽しんでいることがわかる。自分が本当に転生のことばかり考えていたのだと思い知らされる。こういうことを積み重ねれば、飼っていてよかったと思えるだけのいい思い出なるものができるのだろう。
 シュンはぺたりと座り込んだ。茜の顔をじっと見る。やんちゃな小僧を思わせるチャオにしてはやけに落ち着いた面差しだ。上目遣いの形になっていても愛嬌などはなく、ただただ注視している。その様子が妙だなと感じた二人。どうすることもできはしない。突然チャオが出したシリアスな雰囲気が壁のようにも思えてきたその時だ。壁が本当に一匹のチャオと二人の人間を隔てた。半透明の壁の正体はチャオの繭だ。チャオの頭部と同じ栗形をしたセロハンのように薄い膜が出来上がる。寿命が来た合図。黒田が近いと言った昨日の今日だ。早すぎる、あるいは的確すぎるというのが祐介の動揺だ。膜のようだったのが少しずつ厚みを増してくる。色がついているのがはっきりとしてきて繭らしい硬そうな外見に整ってくる。目を離せない場面ではあったが祐介はもう片方の興味である茜にも意識を向けた。シャープな目を時に針のようにしてより鋭くする彼女だが今は見開いて自分のチャオの最期を見守っている。夏の雲のように輪郭が膨らんだ目は僅かな透明度の変化も見逃さんとする意気込みが伝わってきそうだった。
「ねえ、これ」
 声も青々としている。興奮によるさわやかさ。祐介も同じように胸が躍っていた。繭の色ははっきりとピンク色になっていたからだ。転生の合図であるらしい暖色が二人を期待させる。「これ、本当に転生するのかな」実際に転生を目の当たりにしたことのない二人。祐介の時は白い繭だった。「転生、するのかも」白であったらそのようには言えなかっただろう。すごい。本当に。茜の口から次々と言葉が出てくる。それはチャオについて解説する時の饒舌さとは違っている。心の動きがポンプとなり彼女に喋らせているのだ。濃くなりきった繭が中身を完全に隠した。どうなっているか想像するしかない。卵へと変化しているのか。それとも消滅するのみか。どちらにせよ、どういう変化がチャオに起きているのだろうか。不思議なこと、わからないことで溢れている。ピンク色の繭に気づいた他の人たちも離れたところから見つめていた。無数の視線は架空の熱量を感じさせる。それを受けた繭は溶けるように薄くなり始めた。祐介が横目で茜を見る。いくらでも言葉を発していそうだった口は真一文字になっている。目は大きく開かれたまま。しかし目の色はいつの間にか緊張のものへと移り変わっていた。繭は大気へと変わっていくようにどんどん透明に近づいていく。繭が薫風となって散ってしまったその中、置き土産のように卵が一つ置かれていた。
「ああ」
 言葉として聞き取れたのはその二文字だけだった。茜は卵に抱きついて言葉にならない詠嘆を続けた。周りからも声がする。何を言っているかわからないが、それぞれが混ざって喜びや安堵の空気となり祐介に伝わってくる。段々と盛り上がったのが落ち着いてきて転生の最後に笑顔の茜と卵が残った。茜は嬉しさが口からこぼれるのが止まらなくなっていた。落ち着きのない彼女に合わせて黒縁の眼鏡はその楕円形から可愛らしさを出していた。クールな印象のある女の子がこうも変わる。今回ばかりではない。チャオと接する時彼女の表情は少なからず柔らかくなっていた。チャオは人の心を優しく撫でるのだろうと祐介は思った。まるで心地よい風のように。それならチャオによって様々な表情を引き出される人間の心は風鈴か。
「あ、チャオのかぜって」
 祐介はそう心の声をそのまま出した。思いついたことを彼女に聞いてほしかったのだ。これが正解だと思った。しかしいざ話してみると恥ずかしい。チャオのかぜとは人の心を動かすという魅力のことだったのだ、などと言わなくてはならないのだから。羞恥心が正解という確信を霧散させる。チャオが人の心を笑われるだろうかと祐介は不安になったがそのようなことはなかった。
「なるほどね」
 ゆっくりと頷く。三度そうして答えを噛みしめた。
「いい風」
 茜は卵をぎゅっと抱きしめて言った。室内で吹くわけのない風もどこからかやってきそうな光景。彼女は風を感じているに違いない。風がゆるりと雲を動かすように幸福感が茜の中を流れていっている。そのことを祐介は手に取るように感じ取っていた。自分の中にも風が吹いているのだとわかる。とても気持ちがよかった。
「もっと吹いてくれるといいな」
「それはだめ」
 茜はそよ風を出すように言う。
「風を吹かすのに夢中になったらまた死んでしまうから」
 そうだったと祐介は笑う。笑えたことが解放だった。やっと消化できた。よどみが消えた喜びで笑みが長く保たれた。正方向の気分で何時間もチャオガーデンに過ごし、解散となった。卵を抱えた茜と施設を出た祐介は空を見上げた。青を深めて夏に染まっていく空がどうしてだか感慨深い。ただ青が濃くなってきただけ。そうとわかりつつも季節までもが自分たちを祝福しているように感じていた。太陽も張り切ってこれからの夏休みを過ごすのだろう。祐介はその日光をできる限り浴びながら帰路に着いた。
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「チャオのかぜ」の感想コーナー
 スマッシュ  - 11/12/23(金) 0:13 -
  
感想はこちら。
あなたはチャオのかぜを感じましたか?
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はい。
 それがし  - 11/12/23(金) 5:29 -
  
確かに、のどの痛みや全身の悪寒を感じ、案の定風邪をひきました。
師走も末、独り身に吹いてくる風は、あまりにも冷たかったのです。
インフルエンザにはなりたくないものです。


まだ読んでないんで、後日感想を送ります。
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