●週刊チャオ サークル掲示板
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Deus ex machina's CHAO world〜はい、私は御都合主... DoorAurar 10/12/23(木) 0:00
1 新現実 DoorAurar 10/12/23(木) 0:04
2 チャオへの異常な愛情、又は私は如何にしてチャ... DoorAurar 10/12/23(木) 0:05
3 愛の証明 DoorAurar 10/12/23(木) 0:06
4 誰も守ってくれない DoorAurar 10/12/23(木) 0:07
5 未知との遭遇 DoorAurar 10/12/23(木) 0:08
6 いつも、あの声で目を覚ます(Always,and Always... DoorAurar 10/12/23(木) 0:08
7 小さな背中 DoorAurar 10/12/23(木) 0:09
8 勇者たちの戦場 DoorAurar 10/12/23(木) 0:10
9 天国はまだ遠く DoorAurar 10/12/23(木) 0:11
10 「話がしたいんだ」 DoorAurar 10/12/23(木) 0:12
11 偶然にも最悪な少年 DoorAurar 10/12/23(木) 0:13
後書き 君が思い出になる前に DoorAurar 10/12/23(木) 0:14
0 そして誰もいなくなった DoorAurar 10/12/23(木) 19:06

Deus ex machina's CHAO world〜はい、私は御都合...
 DoorAurar  - 10/12/23(木) 0:00 -
  
作者名:Door=Aurar
タイトル:Deus ex machina's CHAO world〜はい、私は御都合主義が大好きです〜


1、新現実
2、チャオへの異常な愛情、又は私は如何にしてチャオを愛するようになったか
3、愛の証明
4、誰も守ってくれない
5、未知との遭遇
6、いつも、あの声で目を覚ます(Always,and Always wake up to the noise)
7、小さな背中
8、勇者たちの戦場
9、天国はまだ遠く
10、「話がしたいんだ」
11、偶然にも最悪な少年
0、そして誰もいなくなった


※上から順番に読むことを推奨します。
引用なし
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1 新現実
 DoorAurar  - 10/12/23(木) 0:04 -
  
 1 新現実


 吐息が白い。
 早朝の路地に、排気音が響く。少年の右側には白くそびえる校舎があった。校舎というものは、たとえそれとわかっていなくても、雰囲気で察せてしまうものだ。なぜだろうと少年は思った。思うだけで、考えることはしなかった。
 白いわたあめの中に灰色の異物を放り込んだような空を見て、少年は冬を実感する。下手をすれば雪でも降りそうな天気である。少年の傍らに寄り添うピュアチャオが身震いした。
 その対面、ふとましい男がフルフェイスヘルメットを被った。実際には彼の体脂肪率は十八%程度であり、体重も六十キログラムの誤差五キロ範囲を維持している。
 では、なぜふとましく見えるかと言えば――わざわざ言及するまでもない事だが――着膨れである。

 ふっと吐く息に白が混じる。風にあおられ、黒縁の眼鏡のレンズがくもった。ぼんやりとした視界は、しかしすぐに色を取り戻す。
 少年は爪の先に強烈な痛みを感じて、手袋をして来なかったことを真っ先に後悔した。
 膨らんだジャケットをぱぱっとはたいて、男はフルフェイスヘルメットのシールドを下ろした。もごもごとした声色で、彼はつぶやく。
「昔、冒険好きの青いハリネズミがいたらしい」
「その話は三度目になりますね、先輩」
 ふとましい男がフルフェイスヘルメットの奥で笑う。まあ聞け、と少年を手で抑え、男はバイクのハンドルを捻った。
「そのハリネズミみたいになりたいと、俺は思った」
「まあ、なれないんですけどね。先輩は人間ですから」
 排気音で少年の言葉はかき消される。わざとだ。少年の嫌味もわざとならば、ふとましい男の排気音もわざとである。
「で、カオスエメラルド。遠い昔にあったらしいな、七つ集めると奇跡を起こす石のことだ」
「なくなりましたよ、それ。世界中の研究機関が虱潰(しらみつぶ)しに探し回ってますけど、十何年、手がかりは全く無しです」
「考えたことはないか?」
 ふとましい男はハンドルから手を離して、両の手を擦り合わせた。彼もどうやら手袋を忘れたらしい。
 それとも、元々持ってくるつもりがなかったのだろうか。それとも、元々持っていないのだろうか。どんな理由にせよ、この寒天の下、手袋をしないのは愚か者だと少年は思う。
 バカにしているのが通じたのか、男がじろりとヘルメット越しに睨みつけて来た。なぜ分かるか? 勘である。習慣とは恐ろしいもので、同じようなやりとりを繰り返していると、相手がどのような行動をするか、どのように考えているか、容易に見当が付いてしまうものだ。
「そんなすっげえ石を手に入れたなら、いざって時のために隠して置いた方が都合が良い、とかな」
「そんなすっげえ石を隠せるのなら、世界的に考えても目を瞠(みは)るほどの情報隠蔽能力を持つ組織なんでしょうね。それで、どこに行くんですか?」
 どうせまた戯言だと少年は聞き流した。聞こえているけれど、聞こえていない。しかし男は真剣そのものである。いつもとは調子が違っていたのだ。
 けれども、そんなことは少年と何の関係もない。恩があるから、見送りには来た。だがそれだけだ。他意はない。
 男は肩をすくめて、ハンドルを握った。
「ダチに頼まれちまったんだ」
「何を?」
「ちょっくらエンジェルアイランドに行って来る」
 ――幻の大陸。浮遊する島。あるいは、巨大な柱を内包する遺跡。
 そう呼ばれていた。
 カオスエメラルドの力を完全に制御するために使われたマスターエメラルドが保管されているという、浮遊大陸。
 それが現実のものとしてこの世界に存在したことが確認されているのは、少年の生まれ出でる遥か昔。古い文献の中においてのみ、生きる大陸。
 少年は笑った。少年の右手あたりにあったピュアチャオのポヨが、その雲を吹き飛ばすような大胆な笑い方に驚いて反応する。
「ないですよ、そんなもの。ありえない」
 てっきり、軽口だと思ったのだ。
 てっきり、少年はいつもの軽口だと思って聞き流していたし、真剣に捉えていなかった。もちろん、現実の中に非現実性というものはあるだろう。だが結局は曖昧なもので、夢物語(ファンタジー)が目に見える形で現れるのは、夢の世界だけなのだ。
「急すぎると思わないか。科学の発達がだよ。あの『仮想現実システム』といい、『チャオガーデン・プロジェクト』といい、どうにも胡散臭いものばかりだ。人の心をトレースして機械に人格を生成する、ってのもだな」
「22世紀には、猫型ロボットが一般的になるはずだった、らしいですよ。有名なマンガの話ですけどね」
「ま、そんなことはどうでもいい。それよりも――いいか、ここからが大事だ。よく聞け、浅羽(あさば)」
 フルフェイスヘルメットの奥で、彼はどのような表情をしているのだろうか。いつものしかめ面だろうか。それとも、したり顔だろうか。
 浅羽和利(あさばかずとし)は考えてみた。彼があまりに深刻そうな、重苦しい声をしていたからである。
 長い笑い話の前座だろうか、とも考えた。真剣な声色でばかばかしいことを話せば、面白おかしく見えるだろう。それである。
 だが。
 何か違うような気がした。
 ふとましい男は続ける。
「これから話すのは独り言だ。いいか、独り言だからな。答えるなよ」
「なにを」
「人の持つ最大の武器は、その適応力だ。どんな状況だってその武器は効果を発揮するんだ」
 和利は口を閉じた。
「具体的な環境にだけじゃない。例えば平和そのものにだったり、上手く言えないが……適応するんだ。慣れてしまう。嫌なことも続ければ、いつの間にか嫌じゃなくなったり、人を信じないままの人間はいつまでも人を信じられない」
「言いたい事は分かりますよ」
 少し間を置いてから、和利は答えた。
「そうか、ならいい。俺はもう行く。忘れるなよ浅羽。自分に疑問を持つな。他人に疑問を持つな。そういう自分に慣れるんじゃないぞ。慣れてしまったら、二度と元には戻れない」
「しっかりと。憶えておきます」
 きっと忘れるだろうな、と和利は思って、排気音に備えた。案の定、ふとましい男はハンドルを思い切り捻って、ぐんぐんと進む。
 和利はその姿が点になるまで、背中を見続けていた。
 自分に夢を運んでくれる人はいなくなり、再び自分は退屈な日常を送ることになる。それが果たして良いことなのか、悪いことなのか。和利には分からない。
 そのすぐ隣で、ピュアチャオのポヨは「はてなマーク」を形作っていた。


 恐らく、という言葉を和利はよく使う。
 少し信憑性に欠ける、という意味合いを含めて使うことが大半ではあるものの、それが癖になっている感じがするのは否めない。いわば慣れである。
 ピュアチャオが木の実をねだる。呆れた表情を作りながら、和利はかばんの中からチャオの実を取り出した。
 がたん、と電車が揺れる。人の姿はまばらだった。
 学校は既に冬休みであった。だから、普段は孤独な高校二年生に準じる和利であっても、今は一介の小国民にすぎない。
 ひゅう、とどこからか隙間風が流れ込む。鼻をくすぐる。早朝というものは新鮮であると同時に、なんだか自分だけ別の場所に来たような、小さな非日常の世界へと連れて行ってくれる時間だ。
 余談であるが、今年は例年に比べると気温が低いらしい。チャオが発するCAS(無意識下におけるキャプチャー能力の効果が適用される空間)の影響で、大気中の熱が、あるいは日光がキャプチャーされているためではないかと言われているが、立証はされていなかった。
 そもそも、それであれば様々なものを同時にCASに取り込んでいるはずだから、極端に寒くも暑くもならないはずである。
 ふと目をやったところには、優先席のマークがあった。お年寄り、妊婦、けが人には席をゆずりましょうという暗黙の了解というべきマナーが形になったものである。
 こういう親切の強要というものが、和利はどうも好きになれない。
 マークの「けが人」のすぐ隣、チャオのシルエットが見えた。チャオ同伴の方のための、優先席である。
 問、チャオは社会的弱者であるか?
 否、チャオは社会的弱者ではない。
 チャオは愛でるべき存在であり、ペットの延長線上に位置する。和利にとっては、まさに生きる理由とも言えるだろう。チャオの実を食べるピュアチャオの頭に、右手をそっと乗っける。
 こういうチャオへの愛を勘違いした人たちが、チャオを不幸にするのだと和利は思った。
 車掌のアナウンスが入って、電車が停止する。
 駅ごとに異なる独特のBGMが、開いたドアの外から寂しく響いて来る。
 乗客が減って、増える。
 和利の向かい側に帽子を被った男が座った。角の切れた新聞紙を読んでいる。今の時代、新聞紙というのは非常に珍しい。電子書籍がメインとなった今では、紙媒体の需要は低いのである。
 男の帽子は茶色いチェックのベレー帽だった。
 フレームのない眼鏡をかけている。
 ブラウンカラーで統一された服装に、薄汚れた革靴を履いていた。
 なるほど、旅の人なのかもしれない。というか、いかにも旅の人である。
 そう考える理由は二つほどあった。一つは色だ。茶色というのは目立たない。景色に溶け込みやすいのだ。もし彼がデジタルカメラを持っていたとしたら、そこには風景を強調された彼の写真が何十枚も保存されていることだろう。
 もう一つは薄汚れた革靴である。ローファーというのは傷むことはあっても、汚れることは少ない。もし汚れたとしても極端なものだ。加えて見かけから推測するに二十代の後半といったところ。革靴を汚したまま会社に行くというのは、少し考えにくい。
 電車が発車する。
 がたん、とやや揺れて、和利は帽子を被った男の姿に、違和感を覚えた。
 強烈なものではない。
 あるいは、既視感であったのかもしれない。
 表現しがたい感覚が、和利を襲った。
 気のせいだろう。
 和利は自分にそう言い聞かせる。
「ちゃうー」
 隣から寂しそうな声が聞こえて、和利はたまらなくピュアチャオを膝の上に乗せた。
 ――お前は変わらないな、エモ。
 たかだか十六年しか生きていない、物心ついてから換算すれば十三年もない、そんな人生でも、懐かしさを感じられずにはいられなかった。ほんの数年前まで早朝の電車はものすごく混雑していたのだ。今の状況では、とても信じられたものではない。
 進化という。
 進歩という。
 けれど、人はちゃんと前へ進んでいるだろうか。人はちゃんと正しい方向へ進んでいるだろうか。誰にも分からない。誰かにしか分からない。その誰かが分からない。
「君のチャオ、名前はなんていうんだい?」
 重たい空気を感じて、和利はエモを抱きかかえた。対面の席に座っていたはずの帽子の男が、いつの間にか席を立って目の前にいる。和利は驚いて言葉が出なかったが、少しそんな自分を情けなく思って、いつもの調子を取り戻した。
「エモです。エモート」
「良い名前だ」
 和利はあやうく腰を抜かすところだった。
 まるで物語の登場人物である。『良い名前だ』なんて言う人が実在した。それ以上に、彼の言葉から感じられる壮絶な違和感が驚きを加速させる。
 台本を読んでいるかのように一字一句はっきりした言葉。
 伝えもらすことのないように、一字一句はっきりした言葉の羅列だ。
「浅羽和利君」
 警戒心が沸き起こる。とはいえ既に動いてしまった電車の中だ。逃げようがない。
 しかし、そういった危機感を覚える中で和利は本当に物語の登場人物と対面している錯覚がしてならなかった。下らない発想。いつもなら愚かだと切り捨てることも出来ただろうが、見ず知らずの人に名前を知られているなんてことがありえるだろうか。
 ぎゅっとエモを強く抱きしめる。こんな状況でもポヨはハートマークになっていた。
「君はチャオを愛しているかい?」
「は……はい」
 なにを言うのかと思えば。和利の緊張は一瞬にして解けた。
「当たり前です」
「そうか。なにがあっても、だね」
「なにがあっても? そんなの当たり前じゃないですか」
 帽子の男の目が和利を試す。だから和利もしっかりと見返す。
 電車の音だけが際立って聞こえて来た。周りの音は耳に入らない。真剣な帽子の男の表情が、更に和利を緊張させる。
 試されている。それは分かった。しかし何の為に? 何の目的があって?
「願わくば、それが本物の愛であることを祈ろう」
 不思議な感覚だった。目の前の知らない誰かの声が、懐かしい響きを帯びているように感じた。かと思えば聞きなれているような、そんな感じもする。
 何より、違和感がある。
 この声は、何か違う。
「本物じゃないってことですか?」
 口だけで男はにやりと笑った。ちょうどそのタイミング。電車が揺れる。ただの揺れではなかった。衝撃。強い衝撃である。照明が明滅して、消える。
 和利はチャオを抱きかかえて、強く抱きかかえたまま、死を覚悟した。
 揺れはおさまらない。
 目を開けているのも辛かった。視界がぐわんぐわんと揺れ動く。誰かの声が聞こえた。叫び声だった。聞こえただけで、声は多くの音の中に囲まれて行った。
 浅羽和利、十六歳。 
 十二月二十日の出来事である。


 寂しそうな声が耳に心地よく響く。それは和利にとって、何よりもかけがえのない、自分を現実につなぎとめる楔だった。
 目を開ける。立ち上がろうとして、足に力が入らない。何より眩しい。何時だろうか。どれだけの時間を眠っていたのか。いや、長くて十数分程度だろう。長い時間の失神に耐えられるほど、人の体は強くない。
 エモの心配そうな目を見て、和利はようやく笑みを取り戻した。
「大丈夫?」
「ちゃうう」
 エモの頭を軽く撫でながら周りを見渡す。
 惨状、だった。
 道端に倒れる人、人、人。瓦礫だらけの線路。人のうめき声すらしない。和利は目を瞑りたかった。赤い液体が飛散している。かすかな悪臭が更に不快感を運んで来た。
 後ろを見た。電車が横たわっている。自分は窓から投げ飛ばされたようだった。道理で体の節々が痛む。
(俺はどこへ行こうとしていたんだっけ)
 世紀の大発見、ジュエルピュア誕生祭。その当地、チャオフェスタ会場に向かっている途中だった。
 空気の冷たさが肌を劈(つんざ)く。
 頭痛がする。
 漂う鉄の臭いが、痛みを増幅させる。
 ――慣れるなと先輩は言った。慣れるわけがないと和利は思った。こんな地獄のような環境に適応できる人間なんていない。いるはずがない。
「チャオ所持者を確認!」
 唐突な生きた声。
 あまり良い雰囲気ではない。目の前から向かって来る集団。外面だけみれば、まるで軍隊だ。その軍隊らしき人物が、物騒な声で言った言葉はなんだったか。
 チャオの所持者を確認。
 すなわち。
「エモ!」
「ちゃっ」
 和利はエモを抱えた。崩壊した電車の中を通って、反対側に突き抜ける。後ろから何らかの叫び声が聞こえて、内容はうまく頭に入って来なかった。
 とにかく逃げるしかない。
 そう思った。
「速やかにチャオを渡せ! 抵抗するならば射殺する!」
 瓦礫の山を乗り越えて進む。行く当てはない。だが走らなければ殺される。
「なんでっ……」
 自分が呼吸しているのか、自分はちゃんと走っているのか、自分の目はしかと現実をとらえているか。わけがわからなくて、今すぐにでも眠りにつきたかった。
「なんで俺がこんな目に遭ってんだよ!」
 エモを差し出すわけにはいかない。どうしてたった一人の家族を差し出さなければならないのか。
 あんな人間たちに。
 あんな人間どもに。
「抵抗は無駄だ! 十数える! それまでに渡さぬ場合は、容赦なく射殺する!」
 ――ふざけるな。
 叫びたかったが、声が出なかった。喉から空気が出ただけである。物陰に隠れ、角を曲がって、道も分からぬまま進み続ける。後ろは振り返らない。見る余裕はない。
 どうしてこんなことになってしまったのだろう。
 確かに鬱屈した毎日を過ごしていた。けれどそれでも必死に生きていた。なのにどうして、こんな最悪の形で。
 相手の目的はなんだ。チャオ――つまりエモ。自分は? 発砲して来ないところを考えて、出来るだけ殺すなという命令を受けているのかもしれない。
 そうなれば。
 相手の目的は。
 エモだけだ。
「四! 三! 二! 一!」
 和利は足を止めた。発砲はない。エモのポヨがはてなマークになっている。その頭をゆっくりと撫でて、和利は息切れしながら振り向いた。
 軍人と思しき人物が三人。銃を構えて照準をこちらへ定めている。
 ゆっくりと来た道を戻る。
 エモさえ渡せば、殺されはしない。
 エモさえ渡せば。
 自分だけ助かることが出来る。チャオはまた買えばいい。けれど、自分が死んでしまったら。全てが終わってしまう。自分がなくなる。
「よし、そこにチャオを置け」
 和利は立ち止まる。選ぶべき道は二つ。一つ、殺されてエモも奪われる。二つ、エモは奪われるが生き永らえる。
 どちらでもない道は選べない。
 なら。
 それなら。
「いやだ」
 とっさに口をついて出た言葉は、考えていたはずの答えとは違っていた。
「嫌だ!」
 もしここに先輩がいたら、鳩に豆鉄砲を食らったような顔をしたことだろう。十六歳にもなると、自分が他人からどういうキャラクターで見られているのかがよく分かって来る。
 いつでも冷静沈着。皮肉屋。嫌味ったらしい。場合によっては、勉強できるぐらいでチョーシに乗ってる、なんて思われることも。
 自分でも、自分がこんなに叫べるなんて思わなかった。
 言いたくなかったことが、言わないで済んでいたことが、堰を切ったように。
 止め処なくそれは流れ、溢れ出す。
「大体、お前らなんだよ! 一方的に! 話し合おうともしないで! 自分が間違ってるなんてつゆほども思わないんだろ!」
 銃口が三つ、和利を向いている。
 構わなかった。
「うざいんだよ、どいつもこいつも! お前らは俺より劣ってるんだから一生部屋の中で縮こまってりゃいいんだよ! 消えろよ、邪魔なんだよ! 目障りなんだよ!」
「チャオを渡す気はないと?」
「お前らは」
 発砲音が甲高く響いた。
 死を覚悟する時間的猶予はない。一瞬で和利は脳天を撃ち貫かれ、即死する。
 事実、和利は体をつめたい何かが通り過ぎたような、そんな感覚がした。
 そして、それが彼らの描いた、間違えようのない予測だった。
 和利に銃弾が当たる寸前。
 それは起こる。
 大気が歪曲し、銃弾は停止する。驚愕に顔を歪ませる暇はない。
 陽炎を幾重にも重ねたようなそれが、銃弾を弾き返す。そうしてそれは、銃弾の放たれた道筋をなぞるようにして、軍人の胸部を貫いた。
「こっちだ!」
 その声がどこから発されたものなのか、和利には分からなかった。気が付けば手を引かれて走っていた。
 どうやら自分はまだ生き永らえているらしい。
 辛うじてそれだけは理解することが出来たが、良い気分にはなれない。
 ここで死んで置けば、楽だったろうから。
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2 チャオへの異常な愛情、又は私は如何にしてチ...
 DoorAurar  - 10/12/23(木) 0:05 -
  
 小さな少女だ。背丈も小さければ、握る手も小さい。そんな少女に、和利は手を引かれている。
 困惑していた。整理が追いつかない。今、なにが起こっているのか。自分には何一つ分からない。分かりたくないだけだと認めるのが嫌で、分からないふりをする。
 所詮、世界の一部でしかない自分。凡人でしかない自分。誰かの手を借りなければ大切な家族一人さえ守れない自分。そういった情けない自分の姿。
 たまらなく悔しくて、嫌で嫌でしようがなくなって、和利は少女の小さな手を強く握り返した。


 2 チャオへの異常な愛情、又は私は如何にしてチャオを愛するようになったか


 瓦礫の山を越えた先に、一層高い瓦礫の山を見つける。少女はあたりを見回してから瓦礫の山の隙間に潜り込んだ。
 聞きたいことはやまほどあるのに、なぜだか口を開くのがためらわれる。そんな異様な空気の中で、エモは周囲を好奇の目で見ていた。
「ここは建設途中の高層ビルです。建設予定だった、ですね。篭城にちょうど良いので使わせていただいています」
 やがて少女に連れられてやって来たところは、小さなドーム状の空間である。こんな空間があの『衝撃』から自然に出来るはずがない。
 まるで瓦礫の山の中を内側から無理やり広げたような。気のせいだろうか。とても気のせいだとは思えない。
 銃弾を跳ね返したあれ。不思議な瓦礫の内部空洞。それを発生させたのは、目の前にいる表情のない男だろう。短く髪を整えた男。背丈は和利よりやや高い。機械的な印象を持ち合わせていた。まるで人ではないような……。
「落ち着きましたか」
「……はい」
 助けて下さってありがとうございます、という言葉すら出ないのは、余裕がないからか。
 なにを口にして良いのか、なにから口にすればいいのか。和利は未だ困惑の中にいた。とてもじゃないが落ち着ける状況ではない。
「錦織と申します。兄の浩二です。こちら妹の愛莉。あなたは?」
 兄妹。道理で似ていると納得する。互いに表情のないところが瓜二つだ。
「浅羽和利です。先程は、ありがとうございました」
「いえいえ、妹のたっての頼みですから」
 浩二は言って、妹を示した。瓦礫の一部に腰掛けて首から提げた緑色の宝石のようなペンダントをいじっている。少女に一礼して、和利は頭の中を整理する。
「なにが起こっているんですか?」
 突如として起こった強い衝撃。崩壊した住宅街。瓦礫の山。倒れ伏せる人々。仮に局所的なものだとしても、自然災害とは思えない。
 あの軍隊。チャオを狙う軍隊。自然災害に乗じて、チャオを奪取しようとしていた。恐らく狙われたのは自分だけではないはずだ。
 そこまで考えれば、あとは単純な話である。強い衝撃を起こしたのはあの軍隊で、チャオを奪取する為に逃げ道を封じ混乱させる必要があった。
「大規模なチャオの回収運動です。今一つ状況が掴めませんが、そういうことでしょう」
「俺を助けてくれた時の、あれはなんですか?」
 歪曲した大気。銃弾をいとも容易く弾き返したあの現象。
「それを話すために、まず今起こっていることを整理しましょう」
 浩二は後ろで手を組み合わせた。
「現状、この世界は仮想現実(バーチャル・リアリティ)と融合しつつあります」
 仮想現実(バーチャル・リアリティ)。人類が次のステップへ進むための驚異的な技術とうたわれる、仮想的な空間のことだ。
 その空間は精密機械によって発生させることが可能であり、非常に高価な技術ではあるが、一部のアトラクション、アミューズメントパークなどでは既に実用化されていた。
 端的にその空間を表現するならば、『思ったことを実現することの出来る空間』である。
「私は仮想現実の開発に携わっていたので、これの扱い方はよく分かっています。例えば今いるこの場所。これもただの瓦礫の山に内側から強力な圧力をかけることによって持続している空間なのです」
 恐ろしい話のように聞こえた。ごくりと生唾を飲む。話題を変えることにした。
「なんでチャオが」
「それは分かりません。確かなのは彼らは実力行使に及ぶほどに切羽詰っているということでしょう」
 言葉を途中で遮られる。予想できていた問いだったのだろうか。振り返ってみれば真っ先に思いつく疑問かもしれない。
 そうだ。
 自分がチャオを連れている以上、明確な敵が存在してしまうことになる。それも、凡人の力ではどうすることも出来ない相手が。
 チャオさえ捨ててしまえば。エモさえいなくなれば。少なくとも命だけは助かるのだろう。
 否。
 どちらにしろ、こんな状況では同じことだ。エモがいなくなっても命が助かるわけじゃない。
 平穏な生活は戻って来ないのだ。
 それも恐らくは、永遠に。
「これから」
 聞くのは躊躇われた。はっきりさせてしまったら、選ばなくてはならない。少し休む時間が欲しい。だが、現実問題として休む時間などどこにもなかった。
 どうにかしなければ、いずれ追い詰められる。その間、浩二に頼りきりで行くのか。そもそもどうして自分を助けてくれたんだろう。こんな状況だ、放置した方が良いに決まっているのに。
 色々考えなければならないことはある。時間はない。なら。
「これから、どうするつもりですか?」
 隙間風の不気味な音が響いた。立っているのも辛かったが、矜持の為に何とか立っていた。こんなところで座り込んでいたら、もう二度と立ち上がれなくなりそうだ。
「仮想現実(バーチャル・リアリティ)にリセット、という機能が付いているのはご存知ですか」
「初耳です」
「仮想現実内において、何らかのバグが発生し人体に影響が及んだ場合。人体を仮想現実起動時の状態に戻す機能です。異常がなければマザー・コンピューターに搭載されています。私はこれからそれを探すつもりです」
 前言を撤回する必要がある。平穏な生活が戻って来る可能性はあった。しかし可能性である。
 そもそも彼は真実を述べているのだろうか? 半信半疑のまま和利は貪欲に尋ねる。
「場所は分かっているんですか?」
「見当は付いています」
 次の質問をしようと口を開いたが、言葉はでなかった。
 もはやたずねることはない。そろそろ身の振り方を考えなければならないということだ。
 エモを連れ歩く限り安全な場所は、否、既に安全な場所など、エモを連れていなかったとしてもありはしないだろう。
 かと言って、たった一人の家族をみすみす手放す気はなかった。守らなくちゃいけないと思う。それは確かな、間違いのない感じ方のはずだ。
 だが。組織という圧倒的な力を前にして、個人の持つ力は塵に等しい。現実に創作物のようなヒロイズムは存在しないのだ。英雄はいない。待っていても助けは来ない。組織を凌駕する力を個人が持つことは出来ない。
 本当にどうにかしたいと思っているのなら、結局は自分の力でどうにかするしかなくても、その自分の力にすら限界がある。
 ところが、錦織浩二。彼はそうではない。もしかしたら組織に打ち勝つ力を持っている。仮想現実のシステムを利用できるというのは大きい。仮想現実を自由に使えたのは、本当に開発に携わった人間くらいのものだろう。
 一般市民は制限のかかったシステムを使わせてもらっているにすぎない。
 そういえば。
「どうして仮想現実が融合してるんです?」
「分かりません」
 さっきから分かりませんばっかりだな、と和利は思った。最も、分かったとして自分に出来ることなんてたかが知れているというものだが。
 他に何かたずねることはないだろうか。解消すべき疑問は。無駄だと分かっていても、和利は時間稼ぎをしたがった。
 決めたら進まなきゃいけない。死地に赴かなくてはならない。いっそここでずっとじっとしていられたら、どれほど良いことか。
 それが希望的観測だとは理解していた。
「浅羽さんはどうするおつもりで?」
 答えられなかった。『付いていっていいですか?』と頼み込むのは、足手まといを一人増やしていいですかと言っているようなものだ。
 他に方法があれば良い。しかし、この状況ではあるはずもなかった。それ以前に、付いていってどうするのか。錦織浩二は信用に値する人間なのか。たかが一度助けられたと言うくらいで?
「すぐには答えられないでしょうね。私と妹は暗くなるまで仮眠を取るつもりです。もし共に来られるのであれば、多少危険な道のりになるとは思いますが」
 分からなかった。高揚感は次第に消え去ってゆく。浩二の言葉の意図がつかめない。
「集団行動の方が幾分生存確率もあがるでしょうし、何より妹のたっての頼みです。出来ることなら共に来ていただけませんか?」
「夜まで。夜まで、考えさせてもらっても?」
 浩二は頷いた。


 たった一人の家族。
 水色の肌を撫ぜる。さっきまで明るく周りを見回していたエモだが、さすがに疲れたのか、ぐっすりと眠ってしまった。
 遠ざけて置くこともなく、常に寄り添って生きて来たエモ。
 手放せれば楽なのだろう。けれど手放してしまったら、これまで生きて来た意味が、これから生きて行く意味がなくなってしまう。
 エモさえいればどこへでも行けると思っていたはずなのに。
 エモがいなくならないと、自分に未来はない。
 そもそも最初から運が悪かったのだ。生まれたときから最悪だった。唯一の幸運はエモと出会えたことくらいで、それ以外は最悪の一言だ。
 旅に出た先輩はどうしているだろう。まさかあの人のことだから、死んでいるということはありえない。
 いろいろと必要のないことを思い出して、考えていく。しかし現実は優しく待っていてはくれない。出来る限り早く、答えを出さないといけないのだ。
 目を閉じてみても、眠れるはずがなかった。こんな状況で。
 死ねば、楽になるかもしれない。
 できるだけ安らかに死ぬ方法を考えて、そうだ、錦織浩二。彼に殺してもらおう。仮想現実の世界と半分くらい混ざっているのだ。痛みもなく眠っているうちに消えてしまえるはずだ。
 そうすれば悩むこともない。
 リセットすれば元に戻るのだろうし、ちょうどいい。
 エモも彼に預けたほうが都合がいいだろう。自分よりも遥かに優れている彼のことだから、恐らくは完全に守りきってくれるに違いない。
 そうだ。エモさえ生き残っていれば、自分はどうなってもいいんだ。
 だけど浩二は信用できるんだろうか? 確かに助けてくれはした。放って置けば死んでいたし、エモは奪われていたんだから、味方というのは間違いない。
 でも、一時的なものだとしたら?
 リセットするとは言っているが、その目的が嘘だった場合は?
 分かろうとしても結局、分からない。分からないばっかりだな、と和利は自嘲した。
 冷たいコンクリートの上に寝転がる。目を瞑る。寝て起きたら自分の部屋であって欲しい。そんなことはありえない。
 段々と体があったかくなっていく。外は明るいはずなのに、この場所は薄暗い。
 体が現実感を失う。
 地面に磔にされたように体が重たくなる。
 何も考えなくていいのは楽だった。いっそのこと、何も思えなくなればいいのに。
 そう思った。


「ちゃっちゃー」
 エモの楽しそうな声が聞こえる。体の重さが消えていた。地面は冷たいままだった。
 紫色のカーディガンが体の上にかかっているのを見て、和利は慌てて起きる。
「ちゃお!」
 エモが目を覚ました和利に気づいて明るくあいさつをした。目をやると、隣に浩二の妹の愛莉が目を伏せてしゃがんでいる。遊んでもらっていたんだろうか。
「あ。これ、ありがとう」
「い、いえ」
 愛莉は目を伏せたままカーディガンを受け取ると、丁寧にたたんで自分の腕にかけた。
 淡いピンク色に染められたロングスリーブのワンピースには埃一つ無い。不思議と言うか、異常性を感じずにはいられなかった。
「あの」
 消え入りそうな声で、彼女はつぶやく。
「えと」
 しどろもどろになって、目をきょろきょろとさせる。
「その」
 段々と声が小さくなっていく。
 ――言いたいことがあるなら、はっきり言え。とは、さすがに言えなかった。聞けば自分を助けてくれる要因となったのは彼女のようだし、まがりなりにも恩人である。フォローすべきだろう。
「カーディガン、洗って返そうか?」
 なにを言っているんだ、と自分でも思った。寝ぼけているのかもしれない。洗える状況なんて、これからあるかどうかも分からないのに。
「い、いえ、そういうわけじゃなくて」
 愛莉はゆっくりと深呼吸をした。
「エモちゃん」
「エモ?」
「エモちゃんは……その……何歳、なの?」
 そんなことかと和利は溜息を付く。
 深刻な雰囲気をかもし出していたから、責め立てられるのかと思ったが、これは彼女の性格の問題らしい。
 和利は一気に脱力してしまって、眠る前の重たい心が嘘のように晴れていた。
「転生を一回しているから、六歳半くらいだよ」
「そ、そうなんだ」
 最初こそ兄妹共に機械的な印象を受けたが、中身はまるで別人だ。人を演じているかのように見える兄、浩二に対して、妹の愛莉は実に人間らしい感情に満ちている。
 しどろもどろで、自分の意見なんて露ほども言えそうにない。恐らく兄に引っ張られて来たのだろう。
 自分を助けてくれたのは、実質的に彼女であるといっても良い。お人よしでもあると思えた。
「言うのが遅れたけど、助けてくれてありがとう。お陰で助かったよ」
 そんなこと、本当に心の底から思っているのか。軽く自嘲して、和利は対面だけのお礼の言葉を述べる。
 俯いて頭を左右に振る愛莉。
 もっと優しい人間なら、ここで彼女に感謝してもしきれないほどの思いを抱くのだろうが、和利はどうもそういう気分にはなれなかった。
 なぜ助けたのか。
 ただお人よしという、それだけならいい。けれどもし、他に目的があったら。
(やめよう。考えすぎだ)
 仮にも助けてくれた人間に対し、失礼というものだろう。だが、これは本心ではない。失礼なんて思ってもいないし、もっと言えば助けて『くれた』とも思っていない。
 単純に興味がなかった。どうでもよかった。自分に危害を為すやもしれぬ相手に、好意は抱けない。
 ただ助かった。
 それだけのことだ。謝辞の言葉は、単に体裁を整えたにすぎない。
 思ってみれば、この兄妹は和利とエモに酷似している。
 非常に人らしい感情に満ち満ちている妹。好奇心旺盛で、子供のように無邪気なエモ。
 機械的で人間とは思えない兄。真人間ならふつうに抱く気持ちを持つことの出来ない自分。
 方向性は違っても、性質は似たもののように感じた。
「そういえば、ご両親は?」
 頭を左右に振る。
「そっか、いないんだ」
 兄と妹の二人で暮らしてきたのだろうか。だとしたら、とてつもない苦労を重ねてきたに違いない。
 想像することはかなわないが、自分なんかよりも、ずっと。
 まさか他人を哀れむ余裕があるとは和利も思っていなかった。自分で思うより、自分はかなり人情に厚い人物なのかもしれない。
 浩二は妹を守る為に生きて来たはずだ。自分と同じように。まるで映し鑑のようだ。妹を守ることこそが生きがいであり、その意味。そうでなければ、どうして生きて来られただろう。
「浅羽くんは……ご家族は?」
「エモだけだよ」
 そうだ。自分にはエモしかいない。生きる意味。理由。この子を守って生きていくと思った日から、エモはずっと家族だった。
 この思いだけは、確かなものである。よこしまな気持ちなどかけらもない。ただ純粋な思いのはずだ。
 和利の内心を慮ってか、俯いたまま愛莉は答えなかった。
 エモが愛莉に撫でられて頬を緩ませる。和利は一度でもエモを渡そうと思ってしまったことを後悔し、嫌悪した。忘れるはずがない。生きる必要のなかったあの日々に、中身をくれたのは他でもないエモだ。
 今こそ、その意味を発揮すべきときだろう。
「その、お兄ちゃん、言ってたから」
「え?」
「チャオが好きな人に、悪い人はいないって、だから」
 和利はやや離れた場所でこちらに背を向けて眠っている浩二を見た。
 ――なぜ助けたか、の答えだろうか?
「大丈夫。エモを見捨てるつもりなんてないよ」
 愛莉が小さく、口元を綻ばせた。和利は続ける。
「俺にとって、たった一人の家族なんだから」
 自分はまだ、諦めるわけにはいかないのだ。家族を失うわけにはいかない。なんとしてでもあの平穏な日々にエモを戻してやらなければいけない。そうでなければ、自分は。
 何の為に生まれてきたのかさえ、分からなくなってしまう。
「決めた。君たちに付いて行かせてもらうよ。足手まといにならないように努力するから、よろしく」
「……うん」
 状況は絶望的なのに、気分は晴れやかだった。先輩の影響かもしれない。少なくとも今までの自分は、こんなに能天気にはなれなかった。
 エモの頭に手を乗せる。
 失うわけにはいかない。
 見捨てるわけにはいかない。
 絶対に。
 それだけが、和利の生きる全てで、理由だった。
「それでは、さっそく行きましょうか」
 のそりと浩二が起き上がって、顔を和利へと向けた。ゾンビみたいな起き上がり方に、和利は気味の悪さを感じて少し後ずさる。
「どうやら『あちら側』は、優秀なチャオ用の生体センサーを持っているようですね。そうでなければ、予想以上に融合の進行速度が早いということでしょう」
「この場所がもう見つかったってことですか?」
「期待してますよ、浅羽さん。私だけでは少々心もとない。運動は苦手でして」
 仮想現実空間を思い通りに出来るくせに、と和利は思って頷いた。
 だが、期待にこたえないつもりはなかった。和利は立ち上がって服装を整える。季節は冬。身軽になりたいが、上着を脱いだら最後と思った方がいいかもしれない。
 もちろん、運動はあまり得意な方ではなかったが。
「向こうの裏口から出られます。行きましょう。後ろには気をつけて下さい」
 エモを抱きかかえて、和利は覚悟を決めた。
 死ぬ覚悟をではなく。
 どんな手段を使ってでも、生き抜く覚悟を、である。
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3 愛の証明
 DoorAurar  - 10/12/23(木) 0:06 -
  
 3 愛の証明


 どれくらい歩いただろう。隠れ家を出発してから軽く三、四時間は歩いている。運動が苦手と言いながら、疲れ一つ見せない浩二に怖気を感じつつ、和利は何とか早めに歩き続けていた。
 この兄妹は体力がありすぎる。妹の愛莉も疲れた様子を見せない。魔法でも使っているのだろうか?
 エモは歩いているうちに眠ってしまっていた。和利はさきほどちゃっかり眠っていたからか、さっぱり眠気がなかった。
 否、眠っていなかったとしても、緊張と不安で眠りになどつけないだろう。
「マザー・コンピューターはジュエルピュア誕生祭の会場に保管されていると考えられます」
 ジュエルピュア誕生祭。その響きに懐かしさを感じるのは、恐らく色々あったせいだ。本来なら誕生祭で伝説のジュエルピュア誕生を祝うはずだったのに。
「朝には到着するでしょう。それまで頑張ってください」
 和利はエモを抱えなおす。へこたれている暇はない。下半身が疲れで痛んでいるが、仕方がない。そもそも同行を決めたのは自分自身だ。
 迷惑をかけるわけにはいかないし、そのつもりはなかった。
 深夜。月は雲に隠れて見えない。道路はところどころ隆起し、陥没しているところもあった。建物と言う建物は崩れているし、住民はどこかへ避難しているのかもしれない。
 あるいは、あの軍隊に捕まってしまったか、だ。
 後者の可能性の方が高いように思える。チャオの所持率は全国的に数多く広まっていたし、回収運動と称して住民を拉致している可能性も否定できない。
 浩二に聞けば解決するのだろうが、和利は怖くて聞くことが出来なかった。
 それに。
 自分の命が惜しくてチャオを渡したなんて話を、自分から進んで聞きたくはない。
「ジュエルピュア誕生の話は、浅羽さんも詳しいことでしょう」
「はい、まあ。その話題で持ちきりでしたから。学校とか」
「では、そのジュエルピュアが人以上に高い知能を持って生まれた、という話はご存知ですか?」
 思わず立ち止まってしまったが、すぐ歩き出す。
「聞いたこともないです」
「世間ではどう知られているのです?」
 まるで自分は世間にいない人のようだな、と思って、和利は答える。
「何百年も前に墜落した人工衛星の内部にあったタマゴが孵化したって聞きました。それ以外はなんとも」
「なるほど」
 ――違うのか?
 和利は顔をしかめた。前を歩く浩二の表情は見えないが、良い思いをしていないことは口調からなんとなく察することが出来る。
 しばらく沈黙が続いた。足音はしない。自分がたまに地面を擦って発される音があるだけで、浩二と愛莉は足音がなかった。
 借金取りか何かにでも追われる生活をしていたのか。
「ジュエルピュアは人工的に造り出されたものです」
「は?」
「私に理由は分かりません。ただ、チャオを研究する過程で、その人工衛星にあった何かがきっかけとなって、ジュエルピュアは生み出されました」
 なにを思っていいか、分からなかった。和利はその場で立ち尽くしては歩き出す。
 人工的に造り出されたチャオ。正規の方法で生まれなかったチャオ。人の世界で、それをロボットと呼ぶ。そのロボットが人格を持って生み出されたとしたら。
 第三者は褒め称えるかもしれない。造った本人はそれを聞いて有頂天になるだろう。もっと造るかもしれない。
 それで、生み出された方はなんと思うだろうか。
 生まれて来たかったのか。
 実験動物のような扱いをされて、生きていたいと思うのだろうか。
 分からない。
 倫理的な問題だし、結局は当事者の問題だ。だからここで問題とされているのは、そこではない。
「ジュエルピュアは人よりも高い知能を持っています。不死に近い寿命を持ちます。人の都合で生み出され、人によって世界に晒されようとしていた」
 まるでおもちゃ扱いだ。
 チャオにも意識はあって、知能はある。チャオを実験の道具にする、なんて話は、遥か昔に終わったはずだ。チャオの権利問題になるからと。そのはずなのに。
 なんでそんなものが生まれてしまったんだろう。
 人の身勝手な都合だけで生み出されてしまったのだとしたら。
「動機は十分でしょう」
 和利ははっとした。
 折れた標識が目に入る。大規模なチャオの『回収運動』。人命を意にも介さない行動。
 崩れ落ちたマンション。地震対策のされたこの国で、あの程度の揺れでここまで崩れるだろうか。
 仮想現実世界と融合しつつあると言う現実。実質的に、なんでもできるということだ。
「私はこの一連の事件を、彼が起こしたものと考えています」
 ――こういうチャオへの愛を勘違いした連中がチャオを不幸にする。
 どうしてその動機を否定できようか。確かに人なんていらないとは思った。自分も同じように感じていたはずだ。その自分が、どうして同じ気持ちを持つものを否定できると言うのだろう。
 エモを抱きかかえたままで、こぶしをつくる。爪が肌に食い込んだが、痛みは感じなかった。
「でも、仮想現実と融合させるなんて、そんなことが出来るんですか?」
「理論上は可能です。人以上の知能を持ったジュエルピュアならば造作もないでしょう」
 全ての人に復讐する、ということである。ジュエルピュアはオープンより一足早く会場に搬入されているはずだから、『震源地』はチャオフェスタの会場。
「場合によっては、彼を消滅させる必要があるかもしれないということだけ、頭に入れておいて下さい」
 どちらが正しいのだろうか。人の為に、人の都合で生み出されただけのチャオを犠牲にする。チャオの為に、人を見捨てる。
 なんてことを、和利は考えたりはしなかった。エモは自分と一緒にいて幸せだったはずだ。そのエモを失うなんてこと、できるわけがない。
 同感は出来たが、同意は出来ないということだ。
「分かりました」
 ためらいは少しもなかった。


「ちゃおー!」
 エモがまばゆい朝日に目を細めて、大きく背伸びをした。
 疲れを通り越して感覚が麻痺しつつある足をこうまで酷使できたのも、ひとえに愛莉が疲れを気にせずぐんぐん進んでいるせいである。この少女、見た目よりタフだ。
 和利は大きな溜息をついた。薄暗い、薄明るい空を見上げて、エモの額を撫ぜる。
 巨大なチャオフェスタの会場がもやのかかった先に見えて来た。あと十分といったところだろう。到着した達成感で思わず座り込みそうになったが、なんとか持ちこたえる。
「湿気が凄いですね」
「雨でも降るんじゃないですか」
 この会話だけを切り取れば、日常のワンシーンにでも聞こえてきそうだが、いかんせん周囲には崩落した建物の残骸が山のように積み重なっている。廃墟、廃村と言われても仕方のない光景だった。
「ここまで人っ子一人見なかったけど、なんでですか?」
「これだけの騒ぎですからね。生き残りは軍の指示に従ってひとまとめにされているでしょうし、そうでない人は回収されているでしょう」
 そうでない人……和利は電車が事故を起こしたときの、あの倒れた人の海を思い出して、吐き気をもよおした。
 意識して唾を飲み込む。
「休憩は? 予定より早く付いたので、取れないことはないですが」
「大丈夫です。早く行きましょう」
 こんな小さな少女でも歩き続けているのに、自分が折れるわけにはいかない。
 愛莉は俯き加減に和利をうかがっていた。この子のことだから、本当に大丈夫か心配しているのだろうか。ならば、心配させないようにしないといけない。
「段取りはどうなっているんです? 会場に着いたら?」
「マザー・コンピューターがあるとすれば、地下でしょうから、まずは地下へ続く階段を探します。何らかのシステムロックがかかっているせいで、厳密な位置の特定が難しいのですが」
 そういえば仮想現実イコールなんでもできるという印象が強すぎてすっかり聞き逃していたが、瓦礫のドームにおいても浩二は軍の接近を感じ取っていた。
 恐らくそういった位置情報を読み取っているのだろう。仮想現実のシステムから情報を盗み見ている、とでもいうのか、よくは分からなかったが。
 やがて歩いて行くうちに、チャオフェスタ会場の入り口が鮮明に見えて来る。透明な自動ドアが見えた瞬間、和利はなぜだか安堵した。
 しかし浩二は無表情を険しくして、呟く。
「出来る限り姿勢を低くして、駆け足で入り口を突破します」
「え?」
「行きますよ」
 こちらがだっと駆け出すと同時、瓦礫の影から軍服の男たちが一斉に飛び出し、発砲する。
 和利は息を呑んで、エモを強く抱えたまま入り口まで駆けた。
 続く鼓膜を震わせる発砲音。
 銃弾が当たらないことを気にしている余裕はない。
 浩二が先導して、入り口を突き破る。ガラスは気体化し、消滅。和利が会場内に入ったと同時、入り口に重厚な鉄の塊が出現した。
 緊張と恐怖で息切れし、その場に座り込む和利。とは対照的に、兄妹は冷や汗ひとつかいていなかった。
(人間かよ、こいつら)
 矜持だけで立ち上がって、エモを抱えなおす。おなかがすいたのか、甘えた声で鳴いていた。
「もうちょっと我慢してて。すぐ終わらせるから」
「ちゃうー」
 ふう、と一息つく。入り口前で見た男らは何者なのだろう。そういえば、チャオを回収していた軍隊と似たような服装である。同じ服装ではなかったとあいまいな記憶の中で和利は思った。
「浅羽さん、そのまま動かないで下さい」
 和利は正面に向き直る。
 広大な会場。その中央に巨大なステージ。本来、ジュエルピュアが紹介されるはずだった場所に、見たこともない機械が地面から生えていた。それは地面を突き破って出ているものだったが、和利の視線からは、生えているようにしか見えない。
 よく見れば、床には赤黒い『あと』がある。『染み』とでも言い換えられる。もう一度唾を飲み込もうとしたが、口の中はからからだった。
「罠、ですか」
「ようこそ、ジュエルピュア誕生祭へ」
 機械の裏側から、その生き物は歩いて来る。
 水色の光沢は、手足の先端に向かうにつれ、変色していた。頭の上についた三本の角の先は有色透明。天使の輪っかの内側には紫色に燃え上がる炎。
 声は、その生き物から発されている。
「目的は分かっている。コンピューターにアクセスしようとしていたのは君だったか。いや、機械に君というのもあれかな」
 一言も聞き漏らすまいと、和利は耳を傾ける。その動きに集中する。相手を普通のチャオと思ってはいけない。
 この事態を引き起こしたかもしれない、大犯罪者だ。
「マザー・コンピューターにアクセスさせていただけませんか。あなたはやり過ぎた。仮想現実と現実世界を融合させて、なにをするおつもりですか」
「神様になってみようと思ってね」
 素っ頓狂な声をあげるところだった。和利はエモをぎゅうっと抱きしめる。守らなきゃいけない。ここで怖気づいてはいられない。
「自分のしていることが正しいと信じて疑わない人間を矯正するには、まず地獄を見てもらわなければならない」
「出来れば話し合いで解決したい。あなたがしているのは無益な復讐です」
「だから?」
 ジュエルピュアはゆらりと動く。演説する大学教授のように、手を指し示した。
「身勝手な事情で僕を造ったのは人だよ。だから僕も身勝手な事情で人を消した。作り直すつもりだ。もう二度と愚かな人間を生み出さないためにね」
「同情はします。ですが矛盾している。あなたも結局は同じ穴の狢(むじな)だ。それではあなたも愚かということでは?」
 無機質なジュエルピュアの顔が、チャオの仮面をつけただけに思えて来る。
 これはチャオの姿をした別の何かなのではないか。これがチャオの本性なのか。いや、あれはチャオじゃない。別の何かだ。全てのチャオがあれと同じわけではない。
「今の世の中は理不尽に溢れている。僕はチャオにとっての素晴らしい世界を造りたいだけだよ」
 緑色の目が、和利の目と交わされた気がした。
 冷たい何かが体を貫く。怖気づいちゃいけない。そう思っても、体が言うことを聞かない。
 あれはチャオだ。
 チャオなのに。
「自らの快楽の為に犠牲をいとわない人間の、どこに正当性がある? お前もそう思っているだろう、浅羽和利」
 怖くなんてない。そう思っている。なのに怖い。逃げたくなる。どうしてか。意味が分からなくなって、歯を食いしばる。
 自分の意志とは無関係の何かがはたらきかけて、自分の体と心を支配しているようだ。
「人間のチャオに対する愛は偽物だ。お前の愛こそが本物だと思っていることだろう」
 その通りだ。
「だが、本当にお前の愛は本物か?」
 当たり前だ。
「ならば、証明してみせるといい」
 口が動かなかった。体が重たい。エモを抱きかかえる感触だけが、自分を支えていた。
 たった一人の家族なんだ。守らなきゃいけない。エモがいなくなってしまったら、何の為に生きていけばいいのか分からなくなる。だから、エモだけは守らなきゃいけない。
 ふっと、体の重さが途切れて、床に体を叩きつけられる。エモが腕から離れて、投げ飛ばされるかたちになった。
「ジュエルピュア。彼は一般人です。無意味な圧迫はやめていただきたい」
「彼は人間だよ。自分に嘘をつき続けている人間だ。彼も愚かな人間の同族さ」
 倒れた体を辛うじて起き上がらせる。エモが心配そうな表情で駆け寄ってくる。頭がおかしい。まるで高熱のときのような。
 でも、これに負けるわけにはいかなかった。エモを抱きかかえて、立ち上がる。
 ただ一人の家族を守るためだけに、ここまで来た。その目的を達成するためならなんでもしなきゃおかしい。
「頼む。俺はどうなってもいいんだ。だから元の生活に戻してくれ。せめてエモだけでも」
「元の生活に戻れば、その子は幸せなのかい?」
「当たり前だ」
「どうしてそう言える? 君の家族の身代わりだからか?」
 胃が抓られたように痛む。
「君に都合の良い愛を与えてくれるものだからだろう」
「それは……」
「暴力を振るう父親と、すぐ逃げる母親に嫌気が差した。その君がチャオを救ったつもりになって、チャオを幸せにしたつもりになっているだけじゃないのか?」
「違う」
「自分は必要ない! 愛されない! こんなのは家族じゃない。『俺の家族はこの子だけで十分だ』!」
「違う!」
「なにが違うというんだ? 現実の辛さから逃げ出したくなった君の、都合の良い依存先がその子だったというだけの話だろう」
 都合の良い依存先。間違っていると言えばいい。お前は間違っていると。でも。
 自分が間違っているだなんて、露ほども思わない、自分はそんな人間とは違う。だから。
 だったら。どうすればいいんだろう。
 エモの表情が不安そうに歪んでいる。慰めればいい。撫ぜればいい。エモは撫ぜられるのが好きなんだから。
 本当にそうなのか?
 餌をくれるから、居場所をくれるから。それが理由じゃないとどうして言い切れる? 自分が単に都合のいい存在としてエモに依存していたように、エモは自分を都合のいい存在としてみていたとしても不思議じゃない。
 ――俺は他の人間とは違う。
 一方的でもないし、話し合おうとしてる。自分の間違っている部分をちゃんと認められるし、自分勝手でもない。やるべきことはきちんとやっている。
 最悪の環境で、ここまでやっているんだ。
「ジュエルピュア!」
 浩二が声をあげる。
「僕は事実を言っているだけだよ。さあ、エモートくん。彼の愛は偽物だ。僕と共に、チャオのための世界をつくろうじゃないか」
 はっとして顔を上げた。エモがジュエルピュアの元に歩いて行っている。浩二と愛莉は床に倒れ伏せていた。
 さっきまで、一体なにが起こっていたのか。いや、そんなことよりも、今はエモが先だ。
 和利は走って、エモを抱えようと手を触れる。

 ぱしっ!

 その手が水色の柔い小さな手に、はじかれた。
 愕然と立ちすくむ。しかしエモはなんでもないふうに歩き続けた。
「待て……待ってくれ! なんでもする! だからエモは、エモだけは」
「お前も愚かな人間と同じなのか?」
 ジュエルピュアの能面のような顔が和利を見据える。
 都合の良い依存先ではないと、どうして言い切れるんだろう。絶対にエモを愛しているのだと、どう証明すれば良いのだろう。
 そんなこと、できるわけがない。
「返してくれ」
 体が重たい。
「お願いだから」
 足が竦む。膝を付く。呼吸がしづらい。涙が視界を遮る。それでも言わずにはいられなかった。
 エモの体に、ジュエルピュアの手が触れる。
「返してくれよ!」
 はらりと、エモの体が消えた。
「……え?」
「お前の愛したというエモートくんは僕が消してあげたよ。残念か?」
 ま、次はお前たちの番だけどね――そう呟いて、ジュエルピュアはその手を和利へと向けた。
 ぞくりと背筋が凍りつく。赤黒い煙がその手から噴き上がっていた。
「エモートくんはお前の生きる意味だ。なら、もう死んでもいいだろう?」
 そう、その通りだった。
 エモは死んだのだ。消えてしまった。いなくなった。結局、エモを守ることはできなかった。生きる意味はもうない。生きていく意味も。
 だから、死んでも構わない。
 どうしようもないのだ。
 恐怖しか残っていなかった。
 もう家族はいない。
 たった一人の家族は、もういない。


「浅羽くん!」
 避けられたのは、生物的な本能と、愛莉の叫び声のおかげだった。
 右手の方向に、飛び込むようなかたちで赤黒い煙をかわす。床にぶち当たったそれは、ごっそりと質量を削って行った。
 ジュエルピュアが舌打ちする。
「目障りだから消えてもらおうと思うんだけど、避けないでくれる?」
 呼吸困難に陥りそうだ。
 和利は床にたたきつけた右腕をおさえつつ立ち上がる。
 せめて浩二と愛莉だけでもと、ぼーっとした頭で考えて、倒れている二人の体重を自分にかけるかたちにして、引きずっていく。
「私たちはいいから、浅羽くんだけで!」
「くそ!」
 重たい。走れない。もう限界だった。
 生き残ることはできそうにない。和利は後ろを振り向いて、迫る二度目の赤黒い煙を見る。熱気が顔にあたって、和利は全身から力が抜けるのを感じた。
 唐突に赤黒い煙が消える。
「ん?」
 ジュエルピュアの怪訝そうな声が耳に残った。
 コツコツと、足音だけがその場に響く。
 和利は腰を抜かして、その場にへたりこんだ。浩二と愛莉の体を両腕で支えて、目をまじまじと見開く。
「その『赤黒い煙』の動力源はカオスエメラルドの力だよ。恐らく。仮想現実システムより、遥かに発生効率がいい」
「なるほど、道理で解析できないはずです」
 すっと浩二と愛莉が立ち上がった。どこかで聞いたような、懐かしい声が後ろから聞こえる。
 眼鏡の位置を直して、和利は後ろを振り返った。
「お前は?」
 ジュエルピュアの疑問を無視して、帽子を被った男は続ける。
「とりあえず今は退こう。状況は不利だ。態勢を立て直す」
「分かりました。して、どこへ?」
「良い隠れ家がある」
 三度目の赤黒い煙が、ジュエルピュアの右手から噴きあがっていた。和利は慌ててそれを報せようとするが、口からは空気が漏れただけで、声が出ない。
「また会うことになるだろう、ジュエルピュア。恐らくね」
「人間風情が、何様のつもりだ」
「ではまた」
 緑色の光が幾重にも四人を包み込む。
 赤黒い煙は四人がいた場所を貫通し、壁を突き破って行った。
 外壁が崩れ落ちることはなく、そのまま巻き戻されるかのように元の壁を形成する。あとには静寂だけが残った。笑うことも、怒ることもなく、ジュエルピュアは佇む。
 佇んでいる。
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4 誰も守ってくれない
 DoorAurar  - 10/12/23(木) 0:07 -
  
 助かった、だった。
 目の前からあの化け物がいなくなったのを見て、まずはじめに思ったことは、『助かった』だった。
 その自分が嫌になる。死んでしまいたくなる。これじゃあ自分が間違ってると思ってきたものと全く同じだ。何一つ変わらない。結局自分のことしか考えていない。
 助かった?
 誰が?
 助かってない。一番助けたかったものが助かっていない。自分のせいだ。分かっていた。これは自分自身で招いた結果だ。
 エモがいない。
 家族がいない。
 もう二度と帰っては来ない。
「どうして助けてくれなかったんだ!」
 口をついて出た言葉は根拠のない叱責だった。兄妹は俯いて、ブラウンカラーの外套を着た男は帽子を目深に被りなおす。
 謂れのない責任だとは分かっている。それは他の誰でもない自分の役割だった。
「そんな力を持ってて! なんでエモだけ死ななくちゃならない!?」
 けれど止めることは出来なかった。
「なんでエモが、なんで誰も! 何も! してくれなかったんだよ!」
 頭が茹っていた。呼吸が荒い。喉の奥に何か詰まっているような。エモが消える。思い出したくない。思いたくもない。
 全ては夢だったと思えればいいのに、脳は現実を正確に捉えていた。
 死んだのだと。
「は――っ!」
 声を出そうとして失敗する。分かっていた。悪いのは――本当に自分だろうか。そもそも自分は足手まといだった。助ける立場になかった。どちらかといえば、助けられる方だったのだ。
 何の力も持っていないし、それは兄妹も重々承知していたはずだ。だが二人は何もしてくれなかった。どうにか出来る力を持っていながら。
 悪いのは、本当に自分だけか?
 旅装のようなブラウンのコートに身を覆う男。チェックのベレー帽。フレームのない眼鏡。間違いない。自分はこの男に電車の中で出会っている。
「お前、こうなることを分かっていたんじゃないのか?」
 憶測ですらない。だけど、根拠がないわけでもない八つ当たりだ。
 だって、おかしい。自分と同じ電車に居合わせて、自分に話しかけてきた人物が、その上再会する。天文学的確率だろう。でも、もしこの男が全て分かっていたのなら?
 あの電車が事故を起こすと分かっていて乗り込んだ。
 どうして、とは考えなかった。考える余裕はなかった。
「分かっていたが」
「なんで」
「あの場面で助けに入っていたら、恐らくエモート君は助かった。だがお前と二人は助からなかっただろうな。元々私の力は」
 と、旅装の内側から緑色に透き通る宝石の破片を取り出して見せて、一瞬のうちにそれが塵と化す。
「このように急造のものだ。防護服の内側になければすぐ塵になってしまうほどね。いまや仮想現実システムの全てを支配したあの子を相手には出来ないよ」
「でも、助けられたんだ! なのにそうしなかった! お前は」
「一匹の命と、三人の命。天秤にかけるまでもないだろう」
 その言い方で和利は何も考えられなくなった。殴りかかろうとして振り上げた右手を、ぐっと押さえる。
 一匹の『命』。確かに他人から見ればそうだ。ただの命である。しかも、浩二と愛莉は知り合いらしい。だから、エモが優先されないのは当たり前だ。
 ――そうだ、自分はこいつらとは違う。他人を命という単位でしか見ないのがこいつらのやり方だった。それに言及するのは、それはもう今更だろう。
 愕然としたことでかえって冷静さを取り戻すことに成功した和利は、舌打ちを一つして座り込む。
「それで、フィールさん、ここは」
 フィール。和利は男の呼び名に引っ掛かりを覚えた。どこからどう見ても日本人だ。本名じゃないのか。それとも日系の人なのか。
 呼ばれた当人は余裕の笑みを崩さずに答える。
「ジュエルピュアが生まれた島だよ。正式にはカオスエメラルドの研究施設」
 まあ、無人だけどねと付け加える。
 和利は興味のない振りを続けたまま、あたりをちらりと見る。一見すると、ただの工場にしか見えない。無数のコンテナにクレーンやダンボール。
「恐らく地下にその施設があると思う。あの子……ジュエルピュアが生まれた施設だ。もしかするとカオスエメラルドの手がかりが見つかるかもしれないし、隠れ家としても打って付けだ」
「なるほど」
 浩二が答えて、ぱらぱらと塵になった破片を指先で弄る。
「行こうか。俺が、いや、私が先に行くから、付いてきてくれ」


 4 誰も守ってくれない


 和利は自暴自棄になっていた。
 どうせエモはいないのだ。もうどうなろうと知ったことではなかったし、ただ楽に死ねる場所がなかったから付いて来ているだけである。
 自分は被害者だと思っていながら、その被害者である自分に感傷的になって、酔っている。そういう見方も出来るだろう。だがどうでもよかった。
 ひょいひょいと明かりが上下する。フィールの『来い』という合図だ。
「足元に気をつけるんだ」
 狭い通路だった。暗がりでほとんど何も見えない。辛うじて人の姿が捉えられるくらいだ。彼がライトを持っていなかったら歩くことさえままならないだろう。
 最初に愛莉が足早に狭い通路を駆け抜けると、躓いて転倒した。額を押さえて立ち上がる愛莉が足元を見て、一歩退く。
 和利が近づいてよく見ると、それは人の腕だった。
「だから足元に気をつけろと言ったのに」
 死体(の破片)を見ても、和利は全く動じなかった。その動じない自分にやや驚いたくらいである。
「無人じゃなかったのか?」
 非難するように尋ねた。
「死体はカウントしてないよ。そういう意味での無人だ。そもそも自分を生み出したやつらを、あの子が見逃すはずないだろ」
 そういう意味での、という言葉を聴いて、愛莉が肩をすぼめる。
 怖がっているようだった。最も、だからといって優しい言葉をかけるような和利ではなかったが。
「さあ、早めに進んでしまおう」
 通路を小走りに駆け抜けて、明かりを頼りに進む。仮想現実と融合しているようだから、たぶん、彼らにとってはこんな場所、地図を見ながら歩いているようなものなんだろう。
 こんな暗がりなんてものともしないのだ。人間離れしている。どうして仮想現実なんて作ったんだろう。必要あったか、こんなもの。
「階段だ。転ぶなよ」
 誰にともなくフィールが言って、一段一段慎重に降りて行く。踊り場を経由して、地下のドアを開けた。
 ばちばちと電球から火花が散っている。
「電気は通っているようですね」
「地下施設には予備電源がある」
 暗に電気は通っていない、と言っているのだろうか。
 ゆっくりと進んでいくうち、歩いてばかりだなとうんざりして来る。疲れで倒れそうだが、それでも倒れてしまいたいと思えないのは、どうしてか。
「あった」
 突然フィールが立ち止まった。重厚な、扉という漢字が表すとおりのとびらが薄暗い中に見える。
 そのとびらは外見に反して難なく開いた。フィールがすっと入り込んで、その部屋にだけ明かりがつく。安全を確認したのか、フィールが手招きをした。
「手術室?」
 思わず和利はあっけに取られた。まるで手術室のような様子だったのだ。もちろん実物を見たことはない。だが、テレビ映像で見た手術室の様子と、この部屋は酷似していた。
「実験室だよ」
 フィールが答える。その声からは、どこか苦々しいものが感じて取れた。
「ジュエルピュアが生まれた場所だ」


 フィールと浩二が手術台の痕跡を調べている間、和利はガラスで仕切られた棚に近づいた。
 『人工的なカオスエメラルドの作成』、『ジュエル遺伝子』、『チャオの繁殖』――その棚の右端に、ジュエルピュア製作日誌、というものを和利は見つけた。
 その書き方に苛立ちを覚えた和利は、溜息をつきながらそれを取る。
(俺、どうしてこんなことしてるんだろうな)
 エモは死んだ。より正確にはジュエルピュアによって消されたのだ。
 自分の生きる意味。生きて来た意味とは、その、たった一人の家族を守り抜くためだった。他に理由なんてなかったのだから、もう自分は死んでいいはずだ。
 でも、事実として自分はまだ死んでいない。復讐を考えているわけでもないのに。
(結局、死ぬのが怖いのか)
 タイトルをなぞりながら、自分に失望する。
 仲良しごっこに身をやっし、自己利益のために平気で他人を見捨てるような、そんな他人とは違うと思っていても、根本的な部分では同じだった。
 そういうことだ。
 あの両親と自分には、何の違いもないのだ。
「あ……浅羽くん」
 愛莉がぼそりと呟く。いつの間にか隣に愛莉が立っていることに驚いたが、表には出さずに応える。
「なに?」
「エモちゃんの、こと……ごめんなさい」
 心臓の音が聞こえる。息が詰まる。
 ――そうだ、お前たちは守る力を持っていながら、守ろうとしなかった。お前たちのせいだ。エモが死んだのは。お前たちが悪いんだ。俺は何にも悪くない。俺のせいじゃない。エモを、返してくれ。
 そう、言おうとした。けれど声にはならなかった。
 どうして謝れないんだ――そう言い合っていた醜いあいつら。自分が悪いと分かっているはずなのに、いつまでもいつまでも自分の非を認めないあいつら。
 あいつらと自分には何一つ違いなんてない。
 結局、最後まで自分のことしか考えていない。
「ごめんね……」
 うっすらと目に涙を浮かべて、愛莉は何かを訴えかけようとしているように見えた。
 それは慰めでもあるのだろうし、あるいは励ましでもあるのだろう。少なくとも敵意や悪意ではなかった。
 悪いのは誰だろうか。
 力がありながら守らなかった浩二か。愛莉か。エモよりも人の命を優先したフィールか。ジュエルピュアか。それとも、自分自身か。
 思うことは山ほどあった。
 だが、これは分かりやすい問題なのだ、きっと。
 あいつらと同じか、そうでないか。自分で自分の姿を選ぶことが出来る機会なのだ。
 認めるのは苦痛でならなかった。
 でも、必死で頭を下げる愛莉を見て、和利は決める。
「君、」

 ――お前のせいだ。

「君の! せいじゃ、ないよ」
 握り締めた本の形がゆがむ。食いしばったせいで、顎が痛む。けれど、言わなければならなかった。
 自分は違うから。
「俺が守ってやらなくちゃいけなかったんだ。だから、だから」
 涙が表紙に零れ落ちる。
 エモが死んだのは、エモが死んでしまったのは。
「俺の、せいなんだ」
 握り締めていた日誌が落ちて、和利はがくっと膝をついた。泣いたってどうしようもないのに、涙は流れ続ける。
 ぎゅうっと、頭の後ろに手を回されて、和利は愛莉の腕の中、声を噛み締めながら、泣き叫んだ。


 『十一月十五日』・ジュエル遺伝子に対するエネルギーの定着に成功。
 『十一月十七日』・人工カオスエメラルドのエネルギーが暴走。ジュエル遺伝子にピュア遺伝子の兆候が見られる。
 『十一月二十日』・脳波パターン2320を記憶させた遺伝子を孵化直前のタマゴに移植。01、成功。02、成功。03、成功。プラントへ移行する。
 『十一月二十一日』・孵化直後、カオス遺伝子を移植。高い知能を持っていることが判明。成長加速装置を利用し、三種のカオス形態が実現。
 『十一月二十二日』・三種のカオス遺伝子と特殊ジュエル遺伝子を移植。ジュエルピュア誕生。


「ずぼらな人だったんだな」
 フィールがぼそりと愚痴を吐く。日誌の中は空白ばかりで、まともに続いている日がなかった。あるいはジュエルピュアによる改変がなされているのかもしれないが。
 和利は何ともいえない気分だった。エモを『消した』張本人である、ジュエルピュアの出生が、あまりにも哀れだったからだ。
 恐らく、生まれるまでに多くのチャオが犠牲になったのだろう。
(こいつらがいなければ、こんなことには……)
 考えて、頭を振る。今は考えない方がいい。ふと愛莉を見る。
 あいつらと自分は、少し違うだけで、あとは同じだ。でも、愛莉とあいつらは全く違う。彼女は、どういうふうに思っているのだろうか。
 目が合う。
 愛莉は小さく微笑んで首を傾げた。
 照れくさくなって、和利は目を逸らす。
「人工カオスエメラルドというのは、今はどこにあるのです?」
「分からないな。用心深いあの子がエネルギーの塊を放置しておくわけがないし。だけど、恐らくあの子は本物を探すはずだ」
「本物って……」
 思わず和利は反応する。
 本物のカオスエメラルド。
 七つ集めると奇跡が起こると云われる石。
「この世界は仮想現実と融合しつつあるから、難しい話でもない。完全に融合すればカオスエメラルドくらい、いくらでも造ることが出来るだろう」
「昨日から、ずっと言ってるけど。いつになったら完全に融合するんだよ」
「逆、ですね」
 浩二が顎に手をやって思案顔をする。
「完全に融合させるためにカオスエメラルドが必要なのでしょう」
「でも肝心のカオスエメラルドがどこにあるか分からないんじゃ」
「心あたりがある」
 自信満々といった顔で、フィールが声を張り上げた。
「何百年も前に墜落した人工衛星。研究所の人たちはそこから何かを見つけて人工カオスエメラルドを造り出したんだ。だったら、本物があってもおかしくはない」
 ごくりと生唾を飲み込む。
 何百年も前に墜落した人工衛星。なにが住み着いているかも、なにがあるかも分からない。和利は今更ながらに恐れ戦く。
「では行きましょう」
「その前に」
 その視線を和利へと向ける。その視線がどこか気に食わず、むっとしてしまう。
「足手まといになるなら、来なくていい。まあ、恐らく良い死に場所にはなると思うけどね」
 言外に、邪魔だと言っているのだろう。いや、と和利は考えた。
 もし邪魔だと言っているなら最初から来るなと言えばいいだけだ。わざわざ遠まわしな言い方をする理由……。
 和利は愛莉を見た。自分は彼女に恩がある。二つもだ。
 自分が死ぬのはいい。それが一番楽だ。
 どうせ自分には生きる理由がない。エモだって、二度と会うことは出来ない。やめよう、やめようと思うほど、心はずしんと重たくなる。
 死んだ方がマシだ。
 だけど、その二つの恩を返す方が先だと和利は思った。
「行くよ。足手まといにはならない」
「自信があるようだな」
「ないけど、良い死に場所になりそうだから。断られても付いていくつもりだ」
 皮肉に皮肉で返す。
 そうだ。エモが死んだからといって、自分も死んで、何にもなるはずがない。むしろ生きて償うべきだろう。なにを、とはあえて考えなかった。
 エモが死んだのは自分のせいだ。
 エモは自分を必要としてくれていたのに、自分は何にも出来なかった。たった一人の家族だったのに。こんな蟠(わだかま)りを抱えたまま、死んでしまっていいのか。
 それは、だめなことだ。
 だから少なくとも、自分を思ってくれる人だけは。
 何とか守り抜いてみせたいと、和利は思った。
引用なし
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5 未知との遭遇
 DoorAurar  - 10/12/23(木) 0:08 -
  
 休憩する暇が欲しいと思わなかったわけではない。足は既に棒のようだし、瞼は開いているのさえ難しい。しかしエモを失った和利を、何かが支えていた。それが何かは本人にも分からない。
 勿論、ある類のプライドでもあったろう。愛莉が歩いているのに、自分だけが立ち止まるわけにはいかない。そんなちっぽけなプライドだ。
 溜息を付く。大きな溜息である。呼吸が上手に出来なくなっているのは、疲れか。それとも。
「空気が淀んでいるんだ」
 フィールが溜息を察する。
 ここは人工衛星。かつてそらにあり、地上へ墜ちた人工衛星である。何があっても不思議じゃない。
 ところがそんな場所なのに、人が住んでいた様な形跡が見て取れる。草木が生い茂った通路の中にいくつもの手すりや階段がある。本当にこれは人工衛星だったのだろうかと和利は思った。
 それに、おかしなことは他にもあった。
 仮想現実システムを利用してワープのような真似をしたから実感がわかないが、この人工衛星は海に浮かんでいるのだ。もっと色んな生物が住み着いていてもいい。
 けれど、さきほどから生物は愚か虫の一匹すら見ない。フィールの言うところの『淀んだ空気』のせいなのか、それは分からないが。
「浅羽くん、だいじょうぶ?」
「うん」
 自分より小さな少女に心配されるのは少し自尊心が傷ついたが、悪い気はしなかった。
「それにしても、さっきから本当に何にもない場所だな。もう調べが入っているんだから、エメラルドはないんじゃないか?」
 気を紛らわすために生意気な子供らしく減らず口を叩いてみる。答えたのはフィールだった。
「恐らくだが、あると思うよ。エメラルドを見つけられるような優秀な人間が研究所にいたのなら、それ以前にジュエルピュアの反乱を許していないだろう」
 なるほど最もだが、カオスエメラルドがあるという確証にはいたらない推測である。
 素直にエンジェルアイランドでも探した方がいいんじゃないかと考えて、和利は思い出した。
 先輩は今頃どうしているだろうか。バイク一つで今もエンジェルアイランドを探しているのか。この騒ぎに巻き込まれて死んだ、なんてことはさすがにないと思いたい。
「妙です。人の気配を感じます」
 浩二がそう言うと、ほぼ同時だった。
 どこかに隠れていたのか、軍服の男が四人の背後に揃い立つ。見れば前にも勢ぞろいしていた。確かに隠れる場所はいろいろあるだろう。そもそもが廃墟のような場所であるし、そこら中に瓦礫が散っている。
 では何がおかしいのか。和利はそれに気が付いた。浩二が今になって『人の気配を感じる』といったことがおかしいのだ。すぐ近くにいたのなら、気づくのがあまりにも遅すぎる。
 だとしたら、それは彼らが人ではないことを表している。和利はそう直感した。
「あー、諸君、ここは立ち入り禁止である。命までは奪わない。立ち去りたまえ」
 壮年の男が荘厳な声色で『忠告』した。恐らく彼が一行のリーダー格なのだろう。
「こちらも事情があってね。申し訳ないが通していただきたい」
「何の用かね?」
「そちらこそ、何の用でしょう」
 男が右手を上げると、まわりの軍服が細長い銃を構えた。
「すまないが立場を理解してもらおう」
 変だ。和利は思った。この軍服がチャオフェスタの会場の入り口で攻撃して来た彼らなら、問答無用で発砲してくるだろう。この人工衛星に大切なものがあるなら、よほど。
 ジュエルピュアに姿を見せてしまったし、こちらの容貌は伝わっているはずだ。なら余計に。
 しかもこの軍服は、少し記憶と違っていた。チャオフェスタの会場で発砲して来た一団とは違う種類の軍服――そう、チャオの回収運動をしていた方の軍服である。
 和利は考える。状況的には不利ではない。こちらは化け物が二人いるのだ。だが、向こうも仮想現実のシステムを利用できないと決まったわけではない。
 一手を間違えれば終わってしまう。どうすればいいのか。
 試すしかなかった。
「お前らは会場で俺たちを殺そうとして来た奴らじゃないか!」
 全員の視線が一斉に向けられるのを感じて、和利は身震いする。銃口がこちらを向いているのが分かった。
「どうせジュエルピュアの命令で俺たちを殺そうとしているんだろ! なら早くやれよ!」
「ジュエルピュアだと? なぜそれを知っている?」
「とぼけんじゃねえよ! お前たちの親玉だろうが! 俺たちを殺そうとしやがって、ふざけんな!」
 ――どうだ?
 和利が叫び終わったあと、男が軍服の一人と囁きあった。沈黙が痛々しい。
「我々はジュエルピュアとは無関係だ。君たちこそ、彼の刺客ではないのか」
「少し待って下さい。私たちはジュエルピュアの目論見を阻止するために来たのです」
 一息つく。彼らの言っている事が本当だと証明する手段がないが、これで一つ先に進めたような気がした。
「あなた方はチャオの回収運動を行っている集団では?」
「そうだ」
「では会場で発砲して来た人たちとは」
「会場? チャオフェスタの会場のことか? ……軍のものがいたのか?」
 よし、と和利は呟く。恐らく、自分は正しい想像をしている。この推測は間違っていない。
 咳払いをして注目を自分に集めてから、和利は空気を吸い込んだ。
「恐らく、チャオを回収している軍人と、攻撃して来た軍人は別ものなんだ。この人たちがジュエルピュアと通じていたら、もうあいつはここに来てる」
「なるほど。して、あなた方は?」
 男は大きく溜息を付いた後、帽子をきゅっと被りなおして、一歩下がる。もう一度彼が右手を上げた。銃口が揃って下を向く。
 ――エモ、なんとかできたよ。和利は心の中でそう呟いて、ほっと心をなでおろした。
「我々はジュエルピュアの世界変革に対抗する為に活動している軍隊だ」


 5 未知との遭遇


 緑が生い茂る。塩の臭いは全くしない。明るい場所。こんな場所を和利は知らなかった。
 多くのチャオが、チャオ同士で遊んでいる。ちょっとしたジャングルにでも来た気分。
 良い場所だなと思った。でも、和利は良い気分じゃなかった。だから目を背けてしまうのだ。
「先は申し訳ない。私は柊と申します。あなた方は?」
「俺、いや、私はフィールです。これは浅羽。こっちの二人は兄妹で」
「浩二です。妹の愛莉。こちらも失礼をしました」
 手を振って構わないと言う柊。実を言うと彼らにあまり良い印象を持っていない和利だが、仕方ない。ここで彼らを敵に回して良いことなんて一つもない。
「どうしてチャオの回収運動を?」
「ジュエルピュアの目的をご存知か?」
 和利は座り込んで頬杖をついた。話は長くなりそうだったし、疲れていたからだ。
「ええ。チャオだけの世界をつくるんでしたね」
「チャオだけの世界をつくる。仮想現実との融合により世界の構造を修正する。人類に復讐する。その三つだな」
 フィールが訂正した。
「それで構わない。しかし仮想現実システムはそこまで優秀ではないのです。世界に散在するチャオのデータを参照できるほどの能力はマザー・コンピューターにない」
「だから一度全てのデータを初期化するか、全てのチャオを集めるしか方法はないってことですね」
「そうだ」
 どうしてチャオだけの世界をつくろうと思ったのだろうか。確かにうんざりするほど醜い世の中ではある。理不尽だ。不当だ。何が信じられるかも分からない。
 ジュエルピュアは人のチャオに対する愛が偽物だと言った。そうかもしれない。そうだと和利は思った。自分も結局、生きるためにエモを利用していただけなのだ。だからあの時エモはジュエルピュアの元へ行ってしまったのではないか。
 違うと言えるだけの言葉を和利は持っていない。
 『自分のしていることが正しいと信じて疑わない人間を矯正するには、まず地獄を見てもらわなければならない』――自分もそう思っていた。だったらエモがいなくなった今、ジュエルピュアに味方すべきじゃないのか。
 ジュエルピュアは何も間違ったことを言っていない。
 人が勝手に造って、勝手に祀り上げた。増長していたのだ。その反動が来た。それだけの話だ。自らの快楽の為に犠牲をいとわない。ならばジュエルピュアが自らの快楽の為に犠牲をいとわなくて、何もおかしくはない。
 正しいことを和利は追い求めて来たつもりだった。これは正しい。これは間違っている。
 あの日、エモと出会った日から、エモが必要としてくれた日から。でも、必要としていたのは自分だけだったのだろう。家族の身代わり。ずしりと心に響いた。
 他の人間とは違わない自分。自分の為にエモを犠牲にした自分。
 本当にこれで良かったのか。そう思わずにはいられなかった。もっと別の方法があったのではないか。自分はこういう人間だからこうしなければならない。それは間違っていることなのか。
 分からない。
 分からないんだ。


 ふっと目が開いた。
 ――しまった。
 唐突に頭が醒める。眠ってしまったようだった。そんな暇はないのに。足手まといにならないつもりが、しくじった。
「そう何時間も経ってないよ」
 フィールの声。隣を見れば、彼が腕を組んで立っている。
「みんなは?」
「浩二は柊と一緒に探索に行ってる」
 それだけ言って、フィールはあぐらをかいた。帽子を目深に被っているせいで輪郭がぼやけてしまう彼だが、間近で見ると、そう自分と変わらない年頃に見える。
 ふっと、彼が微笑んだように見えた。和利はその視線の先を見る。
 愛莉とチャオたちが触れ合っていた。彼女は、そうだ、そういえばチャオが好きだった。純粋に好きだった。彼女の笑顔は綺麗にうつった。いいなと思う。あんなに純粋な『好き』は自分にはないのだろうから。
 しかし、フィールの微笑みは何か違うような気がしてならない。
 いいな、ではない。
 どこか憂えるような、慈しむような、哀れむような。そう、懐かしむような。
 気のせいだろう。
 和利は眼鏡のレンズに付着した汚れをシャツでふき取って、かけ直した。
「全ての人間が、彼女のようだったらいいのに」
 彼のぼそりと呟いた一言が、和利の心に突き刺さる。
「どうして勝手な奴らばっかりなんだろうな」
 彼のことが気に食わなかった理由が分かった気がした。
 エモを助けてくれなかったからではない。いや、もちろんそれもあるのだろう。でも違う。彼は似ているのだ。自分と。自分を少しオトナにしたら、ちょうどこんな感じになるんだろう。
 現実的で、命を天秤にかけるような人間。一匹よりも三人を優先するような人間に。もちろんそれを悪いとは思っていない。むしろそうするのが当然であるのだ。
 もし同じような状況で、最も大切な一人と三人の他人がいて、三人を見捨てて一人を助ける人間がいたら、和利はその人間を否定するだろう。自分のことしか考えていないと。だから自分も『あいつら』と同じなのだし、否定する資格を持たない。
 けれど気に食わないのだ。
 同じだから。
 似た者同士だから。
「ちゃー」
「ちゃおー」
 彼女と触れ合うチャオたちは、どこまでもひたすらに笑顔を振りまいていた。
 自分たちは幸せであると訴えかけるようだった。
「報告します」
 軍服のうち一人が駆けつけてきて、敬礼する。フィールが立ち上がって尻の汚れをはたいた。
「衛星の奥に空洞を見つけたとのことです」
「分かった」
 手を振り上げて愛莉へと合図する。彼女は察して、名残惜しそうに走ってきてくれた。
「案内をしてもらう。休憩は済んだな?」
「大丈夫だよ」
 チャオたちの楽園。もしそれがあるとすれば、こんな場所になるのだろうか。
 ジュエルピュアがつくろうとしているのは、こんな場所なのだろうか。
「ばいばい」
 隣では、愛莉がチャオたちと別れの挨拶をしていた。


「まさか衛星の中にこんな穴があるなんてなあ」
 フィールが空洞を覗き込む。暗い空洞である。暗闇。落ちてしまったらどこへ付くのか分かったものではない。
 まわりにはふるい機械の残骸、のようなものが散乱していた。ここは何かの入り口だったのかもしれない。
「行ってみましょうか」
「仮想現実システムを稼動すれば安全に降りられましょう」
 恐怖を感じずにはいられなかった和利だが、相変わらずの愛莉を見て、どうしても強がってしまう。この子より弱いわけにはいかない。そんなふうにだ。
 どこに繋がっているのか分からない空洞。地獄まで繋がっているんじゃないかというくらい、深い底。
 いっそのこと落ちてしまうのも悪くはないかもな、と考える。
「着地時に衝撃を霧散させます。私の後に付いて来て下さい」
「え?」
 浩二がそう言って、空洞の中へ飛び込む。続いて愛莉が一旦座ってから少しためらって飛び降りた。柊と軍服の男たちがその後に続いて降りる。
 残ったフィールと和利は顔を見合わせて、一斉に飛び降りた。
 胃の底が抜けるような、思わずひやりとする感覚が体中を駆け巡って、目の前を暗闇が通り過ぎて行く。怖い、と感じる余裕もなかった。まだ落ち続ける。どこまで続くんだ、と思ったところで、景色が変わった。
「おわっ」
 何事もなかったかのように地面に着地する。仮想現実って便利だなあと思わずにいられなかった。
 呼吸を整えて、まばたきを数回する。
 変な場所、だった。
 七本の折れた柱が崩れかかった高台を中心として、円を描くように建っている。そこら中に砂埃が散らばっていた。見れば見るほどおかしい場所。神聖な印象を受ける。神聖、いや。どことなくオカルトチックな、そんな印象だ。
 誰も、何も言わなかった。
 ここは一体なんという場所なのか。
「我々が先行しましょう」
 柊とその部下らが前を歩く。慎重に進む。和利は怖気づいていた。彼を立たせているのは安っぽい矜持だけで、何か嫌な予感が彼の脳を支配する。
 高台に近づくにつれ、何か光るものが見えて来た。それは各々に光を放ち、無残なかたちで放られている。
 七つの、石。
「カオスエメラルド……本物ですかな?」
「恐らく、本物だろう」
 七つの石は、七つそれぞれに光を放っていた。
 そこに存在するだけで、圧倒的な存在感を発する。意志を持っているように思えた。それは物であったし、人でもあった。触れてはならない何かを感じる。嫌な予感、という意味ではない。
 抵抗。強い抵抗だ。七つの石が自分から遠ざかった。そんな錯覚がする。和利は頭を振った。意識を保たないと呑み込まれそうで、たまらないのだ。
『私か、全、もよ』
 唐突に、声が響く。
「動くな。じっとしていろ」
 呼吸の音がやけに大きく聞こえた。何が起ころうとしているのか。この声は一体、なんなのか。足が竦む。自分の弱さに泣きたくなる。そして、まだ余裕があることを再確認する。
『私から、てを、った、かしい』
 次第に声が大きくなる。
 それは、どこから発されているものなのか。身近なようにも思えたし、すごく遠くのようにも思えた。
『私から、全てを、奪った』
 ノイズがはしる。声が途切れる。フィールがだいじょうぶだと言って、和利は大きな溜息をついた。頬を冷や汗がつたる。
 何も起こらなかった。
 いつの間にかあのおぞましい感覚も消えていた。本当にもう大丈夫なのだろう。
 そう安心しきっていた。
「かつてこの衛星の主は、カオスエメラルドの力を以ってこの星を破壊しようとしたらしい」
 全員が一斉に振り向く。七つの石がその声に呼応し、光を増して浮遊していた。
「人の愚かさに、人の身勝手さに苦しめられた人間の、最後の悪あがきだった」
「構えっ!」
 柊が右手を上げる。部下が銃口をジュエルピュアへと向けていた。しかし余裕の笑みを崩さないジュエルピュアに、柊は苦悶の表情を浮かべる。
「私から全てを奪った愚かしい人間どもよ。同じ絶望を味わうがよい」
「ジュエルピュア、なぜそうまでして」
 なぜそうまでして人間に復讐するのか。
 ところが和利は、その疑問に対する答えを自分の中に持っていた。
 全てを奪った愚かしい人間は、自分が同じ目に遭う事でしか誰かの気持ちを分かることが出来ない。だからこそ同じ絶望を味わうのだ。そうすれば、自分の愚かさが身にしみて分かるから。
 ――ここまで来て、また自分はおかしなことを考えている。
「どうしてここが分かった?」
 フィールが尋ねる。その言葉の裏には、仮想現実システムはまだ完全ではないはずだ、という確認が含まれていた。
「チャオが導いてくれたのさ」
 自分の中の正しいことを振り払って、和利は前を向く。カオスエメラルドはジュエルピュアの手にある。仮想現実システムもそのほぼ全てが彼の手中にある。
 けれど、ここで折れてしまったら。
 また、エモのときと同じようなことになってしまう。
 和利は必死で考える。
 どうやって逃げるか。そもそもカオスエメラルドはどれくらいの力を発揮できるのか。時間稼ぎをすることは出来るか。カオスエメラルドを取り返すことは出来ないか。
 しかし、どれだけ考えたところで自分の無力さを思い知るだけだった。せめて仮想現実システムを使えれば、せめてカオスエメラルドの力を使えれば。
 無理だ。
 どうしても出来ない。
 勝ち目が、ない。
「やあ、エモート君を失ったにも関わらずまだ生きているのかい?」
 どくんと心臓が高鳴った。
「結局君も生きることに固執しているだけだったんだね」
「違う! 俺は」
「何が違うんだい?」
「ジュエルピュア!」
 浩二が叫ぶ。ジュエルピュアは確かに笑っていた。表情のない顔の奥で、確かに笑っている。
 あんな小さな体なのに。
 チャオなのに。
 自分は、ジュエルピュアを恐怖していた。
「カオスエメラルドを手に入れた以上、もう用は」
「撃て!」
 放たれた銃弾が消滅する。柊が一歩後ずさった。
 こいつはチャオじゃない。ただの化け物だ。そう思っているかのように、和利には見えた。
「無い、と言おうとしていたんだけどね。どうせだから死んでもらうよ」
「逃げろ、ここは俺がやる!」
 フィールが声を張り上げる。
 和利はその場から動けなかった。頭の中は誰かの助けばかりを欲して、何も考えられなかった。悔しさも、苦しさもなかった。ただ逃げたい。それだけだ。
「何やってる、早く逃げろ!」
 視界が光に包まれる。
 頭がぼーっとする。
 意識が遠のく。
 最後に見たのは、ジュエルピュアがふっと、悲しげに笑った姿だった。
 
 
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6 いつも、あの声で目を覚ます(Always,and Alwa...
 DoorAurar  - 10/12/23(木) 0:08 -
  
 いつも、あの声で目を覚ます。
「    」
 いつも、あの声で目を覚ます。
「    」
 いつも、いつも。
 あの声が鳴り止まない。
 耳を塞いでも。
 目を瞑っても。
 聞こえて来る、あの声。
「    」
 いつも、いつまでも聞こえて来る。
 俺は何もしていないのに。
 だからこれはきっと、俺のせいなんかじゃない。


 目を覚ます。
 朝の七時。カーテンを開ける。やや暗めの日の光が部屋に差し込んで、つい瞼が閉じる。
 頭がぼーっとしている。昨日は何時に寝たのか。あまり憶えていない。机の上には鞄が無造作に置いてあった。無機質な部屋。何かあったような気がする。何かは思い出せない。
 いつもの通り音を立てずに洗面台まで行って、歯を磨く。両親の朝は遅い。場合によっては仕事に行かない日もある。そういう日は決まって機嫌が悪いから、関わり合いになっちゃいけないのだ。
 着替えを済ませて、登校の準備をする。教科書の類は全て学校に置いてあったはずだ。
 今、何月だったっけ。
 そうだ、冬休みが終わって。新学期が始まる。三学期。今年の冬は遊んでもいられない。もう高校三年生になる。そうなれば受験勉強が始まるのだ。
 うかうかしていられなくなる。
 友達と遊ぶなんてことはなかったが、それでも暇がなくなってしまうのは辛いものだ。心の余裕がなくなる。どことなく嫌な感じである。
 なんだか、何かを忘れている。
 それが何かは思い出せない。
 鞄を肩にかけて、忍び足で家を出る。ここに来てようやく一息つけた。両親を起こさずに家を出るのはもう手馴れたものだが、もしおきてしまったらと不安でたまらない。
 自転車に飛び乗って、鞄を籠に放り投げる。
 何か忘れている。
 それが何かは思い出せない。


 二年二組。窓際から二列目の、後ろから三番目。それが浅羽和利の席である。
 教室に入った自分を見て、また自分たちで談笑を始める。内容の大半は誰かの陰口だ。この世界の人間のうち九割はクズとゴミで構成されている。
 人は陰口を言い合って生きるものだと理解はしているものの、納得することは出来ない。
 普段は仲がいいのに、笑いあっているのに、どうして本人がいないところで否定の言葉が出て来るのだろう。
 何が楽しいんだろう。
 どうしても分からない。
 この世界の人間のうち九割はクズとゴミで構成されている。
 あいつらがクズとゴミなだけで。
 だからこれはきっと、俺のせいなんかじゃない。


 授業をぼーっとしてやり過ごす。50分といえど、時間が経つのはわりと早い。頭のいいグループが授業を進めてくれるから、余計に楽に感じる。
 休み時間は学年のたった一人をターゲットにした陰口が盛んである。
 今月の流行は隣のクラスの澤田光義。地味で目立たない生徒の一人だ。
 本当に自分勝手だ。自分たちが楽しければそれでいい。それは子供だから許されるのだろうか。じゃあ、大人になったらこれはなくなるのか。自分はその答えを知っている。
 クズだから仕方が無いのだ。
 この世界の人間のうち九割はクズとゴミで構成されているのだから仕方が無いのだ。
 彼らは今日も自分たちのために誰かを犠牲にして生きている。
 誰も、彼も、どうすることなんて、出来ない。
 だからこれはきっと、誰のせいでもない。


 コンビニで購入して来たおにぎりを机の上にずらりと並べて頬張る。
「    」
 いつもの声が聞こえる。陰口の時間が再開した。浅羽和利は黙々と食べる。耳を塞いでも、目を瞑っても、どうせそれは聞こえて来る。
「    」
「    」
 哀れに思ってはいる。けれど仕方の無いことだ。
 自分にはどうすることも出来ない。力が無いのは誰でも同じで、運が悪かったのだ。流行が去るのを祈るしか無いだろう。
 醜いな、と思った。
 クズとゴミは死滅すべきだとも思った。
 彼らはどう思っているんだろう。
 きっと何とも思っていないんだろう。
 自分以外は目に入っていないし、頭にも入っていない。
 自分が良ければそれでいい。
 その通りだと思った。
 それがお前たちの生き方なら、そうしていればいい。
 お前たちが九割であることに変わりは無いのだ。


 偏差値的には多少高いはずの学校なのに、図書室には誰もいない。
 図書委員さえいない。
 少し心安らげる時間であった。
 ここには声が届かない。
 何かを忘れている気がする。その何かは思い出せない。何かが足りない。足りない何かが違和感になる。
 本を開く。何の本だろうか。分からない。自分は何の本を読んでいるんだろう。
「    」
 声が聞こえる。自分に対するものだ。
 誰だろう。
「    」
 機械的に答える。
 どうして話しかけて来るんだろう。
 九割は九割同士で九割らしい話に花を咲かせていればいいのだ。
「    」
 分からない。
 何を考えているんだろう。
「    」


 それは放課後に起こった。
「    」
 声である。
 何か悪質な、非難の声。白羽の矢が立ったのは、図書室で話しかけて来た人だ。
 同族同士の諍いである。
 争い事は同じレベルのものでしか起こらない。
「    」
 自分には関係が無い。
 まだ陰口じゃないだけマシだ。
 憎みたいのなら、正面から憎みあうべきなのだ。それを回り道のようなやり方をするから何かがおかしくなっていく。
 どちらにしても、結局、九割であることに変わりは無いのだから。


 家に着いていた。どうやって帰ったのかは記憶にない。
 車があった。今日は機嫌が悪いみたいだ。音を立てず、気づかれないようにして家に入る。
「    」
 怒号だった。二人の声。
 嫌になる。食欲は無い。早く寝てしまいたい。そうすれば聞こえない。
「    」
 もう聞きたくない。
 同じような声ばかり。同じような音ばかり。同じような話ばかり。
 憎みあいたいのなら、自分たちだけの世界でやればいい。
 そうやって自分のことしか考えていないから、お前たちは永遠に九割なんだ。
「    」
 今度は自分に白羽の矢が立つ。
 怒号が飛ぶ。
 殴られる。
「    」
 いくら呼んでも叫んでも、助けは来ない。
 そう、だから、きっと、俺は何も悪くないんだ。
 これは家族じゃない。こんなのは家族じゃない。
 俺の家族は、たった一人しかいないのだ。


 目を覚ます。
 学校にいた。四時間目の授業が終わったところだった。声が聞こえない。静かだった。まるで誰もいないみたいに、静かだった。
 けれど、その静かな時間は続かない。
「    」
 今月の流行は――――だ。
 ――――は図書室で話したことがあるだけで、面識はほとんどない。――――がなにをしているかも、また、どんな人間であるかさえ、知らない。
 所詮九割の仲間じゃないか。
 同じ事をしていたろう。
 同じ事を見てきたろう。
 九割は九割同士、つぶしあえばいい。
 俺には何の関係もない。


 目を覚ます。
 ――――は学校に来ていなかった。
 別に、だからなんだというわけではない。九割の一人が一割に脱落しただけの話だ。誰のせいでもないし、――――のせいでもない。同族同士の戦いに負けた。それだけだ。
 図書室に向かう。
 本を読む。
 何の本なのかは分からない。
 ただいつも誰かが隣にいたのを、すごくよく憶えている。
 それが誰かは思い出せない。
 だけど。


 いつも、あの声で目を覚ます。
 繰り返される怒号と罵声。何かが割れる音。何かが落ちる音。それから逃げるようにして、布団を被る。耳をふさぐ。目を瞑る。
 そうだ、学校に行かなきゃならない。
 身支度をする。
 憎みあう偽者の家族から逃げるように家を出る。
 何か、忘れ物をしている。
 それが何かは。
 自転車に飛び乗って、鞄を籠に放り投げる。
 たった一人、家族がいたはずなのに。どうしても思い出すことが出来ない。
 道をすれ違う人たちが、何かと手を繋いでいる。何かと笑いあっている。
 その中に笑いあう九割の姿があった。
 とても楽しそうに笑いあっていた。
 これが家族だと思った。
 本物の家族。
 家においてあるような、怒号と罵声を繰り返すだけの置物ではない。
 たった一人だけでもいい。
 本当の、本物がいてくれたら。
 俺はきっと生きていける。


 目を覚ます。
 すごすごと昼食の準備を始める。
 今月の流行は浅羽和利だ。
 争いは、同じもの同士でしか起こらない。
 けれど。
 もし――――が救われるなら、九割になってみてもいいかもしれない。
 それに、俺にはたった一人の家族がいるから。
 他には、何もいらないんだ。
 だから、これはきっと俺のせいなんかじゃない。誰かのせいでもない。


 たった一人の家族がいた。
 ずっと一緒にいたはずだった。一緒に笑いあって、一緒に生きて来た。生きる意味だった。理由だった。本物の家族だった。
 置物とは違う。
 九割でもない。
 本物の家族だった。真に思いやっていた。愛情があった。一心同体と言っても良かった。
 それが何かを、俺は思い出すことが出来ない。


 6 いつも、あの声で目を覚ます(Always,and Always wake up to the noise)


「いいから、逃げろ!」
 フィールの声がする。
 痛む体を押さえて、思い切り立ち上がる。足ががくんと落ちたが、なんとか持ち直した。
 踵を返し、全速力で駆ける。赤黒い煙が視界を通り過ぎていく。何が起こっているかは分からなかった。ただ、一刻も早く逃げたかった。もう嫌だった。
「チャオは、本来カオスエメラルドに守られていたんだ! この意味が分かるか!」
 ジュエルピュアが叫ぶ。
「お前たち人間が持つ小さな力では、チャオを守ることは出来ない!」
「フィールさん!」
 浩二が叫ぶ。
 その浩二たちの元へ、走って向かう。
「後から行く!」
「っ、しかし!」
「後から行く!」
 なんとか辿り着いて、足をもつれさせて、転倒した。

 同時に、視界が入れ替わる。

 鋼鉄の地面。強風が疲れた体に心地よくなびいていた。耳を劈くほどの音が響き渡る。
 ――助かった。
 そう思って、項垂れる。
「浩二さん、愛莉さん、浅羽さん、お怪我は?」
「問題ありません」
 柊の尋ねに浩二が答えた。
 身を起こして、みんなの姿を確認する。いないのはフィールだけだった。いくら和利でも、彼の言った『後から行く』という言葉が偽りだということくらいは分かる。
 仮想現実システムの効果も、カオスエメラルドの力も分からない。だが、それは分かった。確信に近かった。
 自己利益の為に他人を平気で犠牲にする。
 吐き気がした。
「ここは?」
「我が軍の飛行戦艦です。さあ、こちらへ。少し休憩しましょう」
 柊に手を差し伸べられて、頭を振るう。
 助かったと思った。この次は変わろうとしたのに、結局、自分は変わることが出来なかった。自分が生き残るのに必死で、逃げるのに必死で。
 フィールが自分で望んで残ったのだから、気に病む必要なんてない。そう思ってはいても、納得は出来ない。
 恐らく、身に染みて分かってしまったのだ。
 自分はこの世界の人間のうちの九割にカテゴライズされる人間でしかない。
 もう、どうでもよかった。
 ジュエルピュアも、自分も、浩二も愛莉も、この現実がどうなっても。
 俺は何にも悪くないんだから。
引用なし
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7 小さな背中
 DoorAurar  - 10/12/23(木) 0:09 -
  
 飛行戦艦。どこの誰がこれほどの財力でジュエルピュアに対抗しているのかと疑問に思ってしまうほどの巨大な飛行する戦艦である。
 軍服の兵士が並び、柊に向かって敬礼をする。軽めに手を上げてそれに答え、柊は三人に椅子をすすめた。
 黙って和利がそれに座ると、兄妹もそれにならう。
「我が軍は五十年に一度訪れるという、ある彗星の戦力に対抗するため創られたものでしてな」
 柊が帽子を脱いで壁にかける。
 壁には歴代の司令官――と思しき面々の写真が並び立てかけられていた。
「こういったものまで用意してあるのです」
 名目上はどこの国にも属さない私設軍隊である、と柊は語った。
「こうなってしまった以上、事態は一刻を争いましょう」
 優しげな表情のおじさんから、厳格な軍人の表情へと一転する。
「カオスエメラルドを手に入れたジュエルピュアの戦力はどの程度だと予想されるか?」
「幸いエメラルドは仮想現実世界との融合に使われるでしょうから、戦力自体は変わらないと思います。ですが」
 浩二は言葉を濁した。
 仮想現実を牛耳られているというリスクは大きい。大きな戦力であったフィールが脱落した今、まともに対抗できるのは浩二と愛莉だけである。
「では世界の融合に際する時間的猶予は?」
「短くて一日。長くて二日でしょう」
「結構」
 すっと椅子に座って、柊は書類を取り出す。部下の一人に何か言い含めてそのうち一枚を渡してから、人の良い笑みに戻って言った。
「みなさんもお疲れのこと。しばらく休息を取りましょう。三時間後、こちらまで来ていただきたい」


 7 小さな背中


 監禁されている気分だ、と和利は思った。無理もないことである。
 飛行戦艦には個室というものが少ないようで、控え室のようなベッドが置いてあり、窓が付いてるだけの鋼鉄の空間に案内されたのだった。
 しかし、それで十分だとも思った。
 ベッドに寝転がって、目を瞑る。もう何も見たくなかった。聞きたくもない。
 自分の無力を味わうのも嫌だった。自分があいつらと同じだということをこれ以上感じるのも嫌だった。
 結局、決意は全て無為に終わり、いつの間にか消えてしまっている。
(エモ……)
 会いたかった。もう会えないとは知っていても、諦めることが出来なかった。エモさえいれば何にもいらなかったのに、どうしてこうなってしまったのか。
 そもそも運が悪かったのだ。生まれた環境が悪かった。親が悪かった。学校が悪かった。であった人間が悪かった。
 頑張って来たつもりだ。
 ただの人間でしかない自分がここまで来ただけでも、褒められてしかるべきだ。
 悪いのは自分じゃない。
 誰も俺を責めはしない。
 涙は出なかった。いっそのこと泣き叫びたかったが、それも出来ない。
 頭の中が真っ白で、何も考えられなくなっている自分がいる。
 苦しいのに、それを解消する方法が分からない。
 眠ってしまおう。
 それで、永遠に起きられなくていい。
 その方が幸せだと思う。
(エモ……)
 あの声が聞きたい。
 ずっと一緒にいて、ずっと一緒に来て、笑っていた。『偽物』の声におびえて布団を被っていたあのときも、『九割』の人間に失望しつくしていたあのときも。
 エモとずっといたのだ。
 いつからか思い出せないくらい。
 一緒に笑っていた。
 でも、もうエモはいない。
 全部、奪われてしまったのだ。
 けれど、悪いのはジュエルピュアじゃない。
 ――本当にそうだろうか。
 ジュエルピュアの逆恨みではないとどうして言い切れるのか。ジュエルピュアは自分よりも不幸であるとどうして言いきれるのか。
 ――なら、お前はどうなんだ。
 エモと共に生き、笑いあい、生きて行くはずだった。
 それが本当に笑っていたのだと、本物の愛だと、なぜ言いきれるのか。
(エモ……)
 言葉なんてなくても通じ合えた。
 二人でがんばって生きて来た。
 そう思っていたのは、自分だけだったのだろうか。
 エモは、そう思っていなかった。
 本当に?
 何が本当なんだ?
 今となっては、確かめるすべもない。
 空はすっかり暗くなっていた。
 まともに眠っていないはずなのに、眠ることが出来ない。
 和利は起き上がった。


 ドアを開ける。少し重たくて、あけるのに苦労をする。風が吹き込んで来た。下に見える景色がとても遠くて、怖くなる。
 上を見上げると、満天の星空が広がっていた。
「う、わあ」
 感嘆の声をあげてしまう。思わずである。
 普通に暮らしていたら絶対に見ることのできない星空だ。すごく近くて、手を伸ばしたら届きそうな距離だった。本当はそんなことがありえないと分かっていても、なぜか手を伸ばしてしまいたくなる。
 出来れば。
 エモと見に来たかったと思う。
 涙が出そうになって、余計に空を見る。
 このまま飛び降りたら、すごく気分がいいことだろう。
 星空の中に飛び込むような、そんな気分になれるだろうか。
 いっそのこと、飛び降りてしまおうか。
 その方が、きっと楽なんじゃないか。
「浅羽くん……?」
 はっとする。
 いきなり現実に引き戻されるような感覚がして、和利は声の方を向いた。
 声が出なかった。
 何を話せばいいのかすら、分からなかった。
「浅羽くん」
 優しげな声が聞こえる。
 ずっと、ずっと聞いていなかった声。
 物心が付く前に、薄ぼんやりとした記憶の海の中にある、小さな思い出。幸せだった日。まだ家族が家族であった日。
 いつからか、自分はいないもののように扱われることとなった。なってしまった。
 だからかもしれない。
 慣れていないのだ。
 優しい声なんて、かけられることはなかったから。だから。
 きっと、今、心配されてしまったら。
 優しい言葉をかけられたら。
「だいじょうぶ?」
 抑えているつもりなのに、涙が溢れ出て来る。情けないと思っても、どんなに嫌でも、泣くことがとめられない。
 愛莉の体に寄りかかって、少しよろける。
「もう嫌だ」
「え?」
「もう嫌なんだ」
 一度言葉にした思いが止まることはなかった。
「なんでいつも」
 押しつぶされてしまいそうだった。
 現実は見たくも無い光景ばかりを見せて来る。救いは無い。それなのに、自らに前へ進むことを強要する。一体、彼らが自分に何をしてくれたのか。彼らは自分勝手に生きているだけで、自分が何かをすべき理由など無い。
 うんざりしていた。
「エモがいなくて、俺には生きる理由なんて、もう」
 息が苦しくなって、立っているのも辛かった。
 エモがいないことが辛かった。
 何よりも、自分自身が嫌だった。
 九割と同じではない自分、九割よりも優れた自分、あいつらとは対比される存在である自分。なのに、何も変わらない。何一つ変わりは無い自分が、嫌でいやで仕方がなかった。
「俺、何にも分からなくて、何も出来なくて、いっつもそうで、なのに」
 どうすればいいのか。
 どうしたいのか。
「なのに!」
 ふっと、愛莉が微笑む。
 その微笑みに惹き込まれて、引き込まれる。
 風が止む。
 言葉が止まる。
 思いの波が止まる。
 時間が止まったような気がして、それは錯覚だと気づく。
「だいじょうぶだよ」
 言葉をつむぐ。
 その姿が、たった一人の家族と重なる。
「わたしもそうだから」
 目を合わせる。
「わたしも何にも出来ないよ。誰も守れないし、和利くんと一緒で、ただチャオが好きなだけ。どうしたらいいのか分からない」
 引き込まれそうになる。
「でも、きっとだいじょうぶ」
 惹き付けられる。
「信じてるから」


 風が歩む。言葉を進ませる。思いの波が走る。時間が動いたような気がして、それは錯覚だとは思わなかった。
 誰を、とは聞かない。何を、とも聞かない。
 恐らく、全てを信じているのだろう。
 『一割』の彼女だから。
 最初から分かっていたことだ。
 寄りかかった腕を離す。涙を拭く。愛莉は優しく微笑む。
「ごめん」
「だいじょうぶ」
 静かな空間だった。風の音と、空を飛ぶ船の音だけがここにはあった。呼吸の音もしなかった。
 何も言わない。
 言葉が出ないわけじゃなかった。
 ただ愛莉が何も言わないから、たぶん、何かを言う必要なんてないのだ。
「俺、エモとずっと一緒だったんだ」
「うん」
「親、仲悪くて。友達もいなかったから。エモと一緒に生きて来たんだ」
「うん」
「だからってわけじゃないんだけど」
 だから、エモが好きだというわけではない。
 一緒に生きてこなくても、ずっと一緒でなくとも、きっと好きだったろう。
 だから二度と会えないということが辛くてたまらない。
 けれど。でも。だとしても。
「次は絶対」
「うん」
「守ってみせる」
 何がとは言わない。
 恐らく、信じてくれるから。
 いや。
 絶対に、信じてくれると、信じているから。
「じゃあ、ゆっくり休まないとだめだよ」
「分かってる」
「うん。おやすみなさい」
 伝えて置かなければならない言葉はない。
 いつでも伝えられる。
 そうなれるようにするのだ。
 愛莉が背を向ける。
「あの、ありがとう」
 でも、言っておくことにした。
 振り向いて、笑う。
「こちらこそ」


 一人だけになった。
 ここから落ちたら、楽に死ねるだろう。満天の星空に飛び込むような、そんな錯覚があるかもしれない。
 天国に昇るような、そんな気分になれるかもしれない。
 けれど、そんなことはどうでもよかった。
「俺は、あんな小さな子に寄りかかっていたのか」
 小さな背中。
 エモより少し大きいくらい。
 だけど自分よりずっと強い。
 そんな『一割』。
 あの場所に辿り着くまでに、どれだけの時間がかかるのだろう。どんな努力をすれば、あの場所に辿り着けるのだろう。でも、きっと辿り着けるはずだった。
 自分は九割なんかじゃない。
 自分は九割なんかじゃ、なくなるのだ。


「我々はジュエルピュアの本拠地であるチャオフェスタの会場に飛行戦艦ごと突撃をしかけるつもりだ」
 柊がその重たい声を余分にはきはきとさせて言う。威厳のある声だと和利は思った。
 しかし突撃。その言葉に浩二が反応する。
「待って下さい。危険です。仮想現実システムは、全力稼働なら飛行戦艦の質量くらい」
「全力稼働している間は、ジュエルピュアは無防備です。カオスエメラルドも仮想現実世界との融合の為、使えない。ですな?」
「それで聞きたいんですけど」
 声をあげたのは和利である。
 浩二と柊は大した驚きも見せず、すっと視線を和利に向ける。そのあまりのスムーズさに驚いた和利だったが、こほんと咳払いを一つしてから、続けた。
「仮想現実システムは強力であるほどシステムを圧迫するんですよね」
「そうですね。マザー・コンピューターの全システムを扱えるといえど、そんなに連続性があるわけではありません」
 と前置きして、
「しかも現実世界との無理な融合の為にかなり圧迫されている状況ですから、全力稼動でも飛行戦艦の質量を消すのが精一杯でしょう」
「みんなが使える、その、仮想現実のやつはマザー・コンピューターを通して発現するんですよね」
「基本的にはそうですが、マザー・コンピューターのホストはジュエルピュアです。ある程度なら制限もかけられてしまいます。アクセス途中に逆アクセスされてこちらが動けないなんてことも」
 和利は以前チャオフェスタの会場で浩二と愛莉が全く動けなかったときのことを思い出した。
「つまり、最大限圧迫をかけた状態で突撃をしかければ?」
「質量を消失させなくとも、単純に別の手段で防いでくる可能性もあります」
 そうだ、そりゃそうだよなと和利は一人で納得した。
「じゃあ陽動作戦で、まずチャオフェスタの会場に乗り込んでジュエルピュアの相手をする。で、それまで最大限飛行戦艦の存在を隠しといて、ある程度ジュエルピュアを消耗、油断させたら突撃とか?」
 沈黙する。このアイディアもダメかと別の作戦を考え始めた和利だったが、柊がそこへ割り込んだ。
「ジュエルピュアを抑える方法ですな、問題は」
「あ、いいのか。それは俺がやります」
「無茶です」
 浩二が鋭く指摘する。その無茶には、不可能というニュアンスが隠れているように思えたが、あえて気づかない振りをした。
 くすりと愛莉が笑った。見透かされているような気がして、和利は不思議な気持ちになった。
「恐らくジュエルピュアは俺に対して、精神的な、えーっと、攻撃? をしてくると思います。それに乗っかって、時間が経ったら」
「もし精神的な攻撃でなかった場合はどうなさるのです」
 しばらく思案する。だが、他に方法がないのも事実なのだ。
 そもそも飛行戦艦を突撃させる理由は、仮想現実システムを圧迫するためである。そこに隙が生まれる。エメラルドを奪取してしまえば後はこちらのものだろう。
 そして飛行戦艦の突撃をより安全に完全な状態で達成するためには、何らかの方法でジュエルピュアの注意を逸らさなければならない。
「そういえば仮想現実システムって相手の考えていることとか覗き見できますか?」
「うっすらとは分かりますが」
「じゃあそれもなんとかしないと駄目ですね」
 溜息が聞こえた。浩二のものである。――いたって冷静、機械的な彼が溜息など珍しい――柊が目を丸くしていた。
 額に手をやって、浩二が言う。
「仕方ありません。私がサポートします」
「じゃあ、わたしも手伝います」
 愛莉が小さな声を出した。和利は少し苦い顔をする。自分にも仮想現実システムが扱えればいいのに、と今ほど強く思ったときはなかった。
 だが、今更である。自分には自分の出来る範囲で戦うしかないのだから、他に方法はないのだ。
「作戦は決定した。会場組に兵をつけましょう。ジュエルピュアの軍隊がいると思われる」
 和利はほっとして一息ついた。
 後は自分次第である。


 何度目かのワープ。この感じには恐らく一生慣れないだろうなと思って、頭をがつがつと叩く。一瞬で視界が変わってしまうから、頭が変になりそうだ。
 朝日が眩しい。
 しかし甘ったれたことは言っていられない。
 三回だ。
 愛莉に助けられた回数。
 三回も、である。
「今回は、前回のような奇襲は出来ません」
 浩二が言った。チャオフェスタの会場は目と鼻の先――というほど近くはないが、すぐそこにある。
 今日は、かつてのようにもやはかかっていない。
「システムを使って来ましたからジュエルピュアも『来ている』ことは分かっているでしょう」
「大丈夫だよ。兵隊さん、入り口の人たちをお願いします」
 怖くないはずがなかった。足は今にも竦んで動けなくなりそうだし、大して寒いわけでも無いのに歯ががたがたと不協和音を奏でている。
 そのたびに思い出す。信じていると言ってくれた愛莉の笑顔を。最後の最後まで自分に出来ることは何もないのかもしれないけれど、最後の最後まで何かをしてみたかった。悪あがきでもいいのだ。結果に繋がらなくてもいい。
 たった三回きりの価値は一生分である。
「私が先導します。可能な限り守りますが」
「いや、俺が先に行くよ」
 特に意味はなかった。特に意味はないのだが、そこから何かを察してくれたのか、浩二はそうですかと一言で納得を示す。
 ぎゅっとこぶしを作る。仮想現実システムは使えない。もし前回のように軍隊が隠れていて、発砲して来たら、そうして銃弾がもし当たった場合、自分に命はないだろう。
 だが、だからなんだという話である。
 銃弾に当たりたくなければ、弾が当たるより先に走り抜ければいいだけの話なのに。
 思いより懸念が先立つなんてことは、あってはならないことだ。
(駆け足に自信なんてないけど)
 ふう、と息を吐く。
(今の俺は一足違うと思いたいな)
 どこからともなく、発砲音がして、和利は駆け出した。
 音は耳に入らない。
 敵は目に入らない。
 ただ走るだけ。
 入り口に向かって走る。息を止める。全速力だ。前のめりになる。あともう少し。破壊された入り口が鮮明に見えた。まるで、目の前にあるみたいな錯覚がして。
 そこに飛び込む。
 会場の中に入った瞬間、ずしんと大きな音がして、入り口を鉄の塊がふさいだ。すぐに身を起こす。
 静けさに満ちていた。
 何も無い。
 ステージも、ゴミの一つさえ、なかった。
 一切がなくなった会場内の真ん中に立って、浩二が下を指し示す。
「突き破ります」
「え?」
 地鳴りがした。自分たちのいる場所だけ綺麗な四角形に切り取られたようにして、地面が抜ける。
 巨大なモニターが見えた。その両側にはスピーカーにも似た何かが取り付けられている。自分と同じくらいの大きさのコードが絡まり、壁という壁に繋がっていた。
 それがマザー・コンピューターだと察した和利は、そこに駆けつけようとして止められる。
 よく見ればモニターのように見えたそれには、カオスエメラルドが埋め込まれていた。
「ようこそ、ジュエルピュア誕生祭へ」
 水色に光る肌。その生き物は神様みたいに、ふわふわと空中に浮かんでいる。
 日光が差し込む。
「そして、新しい世界へ。歓迎するよ」
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8 勇者たちの戦場
 DoorAurar  - 10/12/23(木) 0:10 -
  
 8 勇者たちの戦場


 ジュエルピュアは水色の光沢を持って生まれた。ポヨの代わりに天使の輪を持ち、燃え盛る煉獄の炎をも持っていた。
 その姿はまさに三位一体であった。三種のカオスの形態を一つにまとめられた、その集合体。それでいて、体のいたるところが変色していた。
 有色透明に、あるいは黒く、白く。
 カオス遺伝子と日誌には書いてあった。
 人工的に造り出され、生み出されたチャオ。
 どんな気持ちだったのだろう、と和利は思った。最初に思ったこともそれだったはずだ。だから、大切なことはそれだけなのだ。
 人の都合だけで造り出され、人の都合で人の為に人の世に出る。
 生まれたいと願って生まれたのならいい。
 でも彼は違った。
 彼は単なる実験の成功例として生み出されたに過ぎない。
 プラントと書いてあった。
 失敗例の行く末である。
 恐らく彼はそれを見た。
 和利は見ていない。だから分からない。
 けれど想像に難しくない。
 廃棄されたチャオたち。
 遺伝子実験の廃棄物。
 物扱い。
 そういった全てに憤りを覚え、自分がそうなるかもしれなかったことに恐怖し、激怒した。
 だから悪いのはジュエルピュアじゃない。
 人なのだ。
「仮想現実との融合はほぼ完了しているよ。今更何をしに来た?」
「世界の修正の為です」
 チャオの仮面を付けただけの何かが笑う。赤黒い煙と、会場の『染み』を思い出して、和利は身震いする。
「人間はこういった方法でしか変わることは出来ない。いつまでも同じことを繰り返すだけだ」
 その通りだと思った。
「自分の都合しか考えていない。そのくせ他者を哀れみ、高等生物のような真似事をする。傲慢な人間どもを訂正する為には、これが最も効率的で最善な手段だよ」
 その通りだと思った。
「お前もそう思っているはずだ、浅羽和利」
 そう、そして自分は同じ事を思い、考えている。
 今も和利に信じることなんて出来なかった。
 もし元に戻ったとして、それが何になるのだろうか。ジュエルピュアがいなくなっても、また同じようなことは起こるだろう。そもそもリセットして、ジュエルピュアがいなくなるわけじゃない。
 どうせ、人が変わらないのなら、世界自体が元に戻っても同じことだ。
「何をしに来た? お前の心無い愛を与え続けたエモート君は既に消滅している。システムのリセットを使っても元には戻らないよ」
 そうだ。何をしに来たんだろう。
 今更することなんてないはずだ。出来ることなんてないはずだ。リセットしても人間が変わるわけじゃない。『廃棄物』は量産されるだろう。成功例を糧として、悲しい思いをするチャオが増えるだろう。
 人の身勝手な都合で。
 そして、それを正しいと思うのか?
「チャオの為の世界。すばらしいとは思わないかい? 純粋な思いだけが溢れる世界だ。そこで人は罰を受ける。今までの傲慢の罰を」
 それは正しいとは思えない。
 どちらが得をしても、損をしても、どの道を選んでも、正しいなんて思えない。
 だから、自分のことだけ考えていればいいんだ。
「エモを返してくれ」
 ジュエルピュアは仮面の奥で嘲笑する。
「まだ言うか。エモート君は存在しないよ。君のせいで死んだんだ。君が本物の愛を持つことが出来る人だったら、エモート君は君の元に居続けたろう」
「でも、俺にはエモが必要なんだ!」
 自分のせいで死んだ。そうだと思った。他の誰かのせいなんかには出来ない。それは自分が背負うべきものだし、人任せには出来なかった。
 ジュエルピュアの言う通り、自分がもしエモを幸せに出来ていたなら、エモはあのとき、ジュエルピュアの元になんか行かなかったのだろう。
「言ったろう?」
 ずしりと心が重たくなる。
「お前は家族の身代わりとしてエモート君を育てていただけだ。自分にとって都合の良い愛! 自分が見下すのにちょうどいい存在! それがエモート君だっただけなんだよ!」
「違う!」
 そうかもしれない。
「お前の愛は偽物だ。違うというのなら、証明して見せればいい。簡単なことだ。そしてお前はそれに失敗した」
 そうだ。失敗した。
「自分は違うと思っているのか? 愚かな人間の同属では無いと思っているのか? だとしたらそれは大きな間違いだ」
 間違いだった。
「お前はただの人間だよ。お前の嫌う自分の為だけに生きる人間と同じだ。違うのなら、どうして僕に敵対しようとするのか。エモート君の幸せを思うのなら、チャオの世界を望むべきだ」
 その通りだ。
「依存を愛と誤解し、自分の家族を否定する材料としてエモート君を使っていただけだろう」
 言い返せない。
「お前の愛は偽物なんだよ、浅羽和利」
「違う」
「本当に自分勝手だ。人間は生きるために平気な顔をして誰かを犠牲にする。時には罪悪感すら覚えない。悪いことだと思わず、自己を正当化し、原因を他者に押し付ける!」
 ジュエルピュアは正しいことを言っている。
「違うはずが無い! だから僕は造られた!」
「違うんだ」
「じゃあどうして僕は造られなくちゃならなかったんだ! なんで生まれさせられた! 僕は生まれたくて生まれたわけじゃない!」
「違うんだよ」
 浩二が動く。その動作を見逃さず、ジュエルピュアはふっと手を上げて浩二の動きを止めた。
 がくりと腰を落とす浩二。重力が倍になったかのような、そんな苦痛の表情を浮かべていた。
「機械風情が僕に何様のつもりだ?」
「ジュエルピュア、彼は一般人です」
「フン、AIにも感情があるのか?」
「私にはありません」
 和利は思わず声を上げそうになった。そうして思い出す。以前、ここに来たときにも、ジュエルピュアは浩二のことを機械と呼んでいた。
 どうして今まで忘れていたんだろう。
「ほう、お前は知らないのか」
 ジュエルピュアが和利に目を向ける。
「お前が仲間だと思っているそこの二人は、仮想現実システムの制御AIだよ。単なる機械さ! 人間じゃあないんだ!」
「……二人?」
 心が揺らぐ。二人。ジュエルピュアはそう言った。浩二も、愛莉も何も言わない。
「なぜ人の姿を取っているのかは知らないが、大方、僕がシステムを乗っ取る前に脱け出していたんだろう。誰の人格をトレースしたのかは分からないけどね」
 ばっと振り向く。愛莉は俯いていた。
 嘘じゃない、のか。
 確かに思い返してみれば、おかしなことはあったはずだ。どう見ても自分より小さな少女が自分よりも体力があるなんて馬鹿な話、あるだろうか。
 息切れ一つしていなかったし、普通の人間が仮想現実システムを自由自在に使えるわけがないじゃないか。
「お前が信頼を寄せているそこの制御AIも、ただの人工知能だよ! 感情の無い! 単なる機械さ!」
 ただの機械。
 だから『九割』とは違っていたのか。
 そうだ。当たり前だ。人間じゃないから、『九割』じゃない。
 感情がないから、『九割』じゃない。
 それを彼女だからと勘違いしていただけだったのか。
「これで分かったろう。人間は全て、須らく――!」
 ジュエルピュアが声を止める。
 音がしていた。何の音かは分からない。小さな音。その小さな音は、ここに近づいているように、段々と大きな音になっていく。
「なんだ?」
「ジュエルピュア」
 和利が言う。
「機械だの何だのと、そんなこと、愛莉には何の関係もないよ」
 溜息を付く。
 時間稼ぎは終わった。
「何を?」
 轟音。ジュエルピュアが仮面の奥で驚きの表情を浮かべた気がした。


「整備班! 何をやってる! 全力稼動だ! 出力を全てそっちにまわせ!」
 柊が怒鳴る。飛行戦艦は会場の天井を突き破り、落下の慣性を保ったまま地下へと激突する。
 同時、何らかの相殺エネルギーが発生して、減速していた。次第に艦のかたちがひしゃげていく。
「隊長! 私にもあの子のような息子がおります!」
 軍服の男が叫ぶ。轟音が響いているが、それよりも大きな声だった。
「ああ! 私にもいるさ! だからこうしている!」
「では隊長、行ってまいります!」
「軍曹!」
 男は体の二倍はある大砲を担いで、斜めになった甲板を下る。ターゲットサイトはない。しかし外す気はしなかった。
 標的はマザー・コンピューターである。
 弾数は一発。これを当てなければ意味がない。
「軍曹! 何をしている! 持ち場へ――」
 爆音。発射音と同時、甲板が粉々に砕け散ったのだ。柊が苦悶の表情で壁に寄りかかる。
「くそっ!」
 だが、砲弾は届いていた。


 爆風が吹き荒れる。愛莉の体を庇うように立つ和利は、その爆風と衝撃で走ろうにも走れない状態だった。
 天井が落ちて来る。地盤が歪む。
 しかし、ジュエルピュアは奇襲を受けたせいで防御に全ての力を使ってしまっているように見える。
 今ならエメラルドを奪取できる。けれど歩くことすらままならなかった。
「私が行きましょう」
 浩二が立ち上がって駆け出す。
 ぞくりと、嫌な予感がした。優勢のはずなのに、何かおかしい。背筋が凍りつく。
「浩二!!」
 ジュエルピュアの視線が体を貫いたような錯覚がした。
 浩二がカオスエメラルドを手に取った瞬間、まばゆい光がジュエルピュアを包み込む。
 とっさの判断で、愛莉の体を押さえつけたまま頭を伏せる。
 耳の奥で巨大な音が響いた。
 壁を突き破る。天井を崩す。一面が崩壊し、会場の辺り一帯を吹き飛ばした。戦艦が不時着しているのが見える。砂埃が舞う。浩二が水色のカオスエメラルドを持ったまま倒れていた。
「浩二!」
「あと少しで融合が完了するところだというのに」
 六つのカオスエメラルドがジュエルピュアを中心に旋回している。
 今のはエメラルドの力なのか。
 ごくりと唾を飲み込んで、和利は浩二に駆け寄った。
 右手に持った水色のカオスエメラルドを取って、手に掴む。
「止めておけ。お前には使えないよ」
「やってみなくちゃ、分からないだろ」
 喉がからからだった。緊張で声がうまく出せない。でも、やらなくちゃならなかった。そうじゃなきゃ、本当にどうすることもできない。
 願う。なんでもいい。ジュエルピュアを倒せる力。カオスエメラルドを握り締める。頼む。今、出来なきゃ、みんな無駄になってしまう。
 だから。なんでもいい。
 カオスエメラルドは何も反応しない。
 答えない。
「くそ、なんで、くそ!」
「こう使うんだよ、人間!」
 驚く余裕もなかった。いきなり体を浮遊感が包んで、瓦礫に激突する。痛みはそれほどでもなかったが、衝撃で体がぼろぼろになったような錯覚があった。
 痺れてうまく動かせない。
 カオスエメラルドは、と前を見ると、ジュエルピュアが七つ目のカオスエメラルドを手にしているところだった。
「フン、人間風情が」
「待て、待って……」
 がくりと腰が折れ曲がる。
 逃げたい。痛い。もう嫌だ。またこんな目に、またこんなことに、なんでいつも、こんなことばっかり。
 なんとか歩く。ジュエルピュアは無表情だった。その無表情には、本当に何の感情も浮かんでいなかった。笑うことの出来ないジュエルピュア。
 怖い。
 もう十分頑張っただろう。
 いい加減休んでもいいはずだ。
 だって俺はただの人間なんだから。
 ただの人間なのにここまでやったら、褒められてもいいくらいだろう。
 逃げたっていいはずだ。
 どうせこれで全部終わりなんだから。
 もうどうすることも出来ない。
 諦めるしかない。
 だから、そう、だからきっと、悪いのは――
「制御AIの分際で、一丁前に人間を守ろうという魂胆か?」
 和利の目の前を小さな背中が覆っていた。
 声は聞こえない。
「わたしに感情がない? 馬鹿にしないで」
「誰かの感情パターンをトレースでもしたのだろうが」
 声が聞こえる。
「死にたいというなら、止めはしないよ」
 もういいんだ、止めろ。
 守ってどうなるんだ。
 守られてどうすればいいんだ、俺は。
 体の節々が痛む。強烈な痛みだった。なのに嫌な予感だけはひしひしと沸いて来る。そして、俺の嫌な予感は当たる。
 赤黒い煙が愛莉の目前で止まる。同時に、愛莉が頭を抑えてよろけた。
「システムを使用したらこうなるってことが分からないから、お前たちはAIでしかないんだ」
 ジュエルピュア。
 チャオの姿をした、化け物。
 勝ち目のない相手。
 現実。
 敵。
 赤黒い煙がジュエルピュアの真上に生み出される。それは次第に肥大化し、エメラルドのエネルギーを受けて光り輝く。
 もう死んだっていいと思った。
 どうせ何をやっても失敗するのなら、最初っから何もしないでも同じことじゃないか。
 そう思った。
 ――三回。
 体が動いたのは、とっさのことだ。愛莉の体を押さえつけるようにして、右側に飛びのく。体に力が入っていなかった。でも、赤黒い煙を避けるのには成功する。
「まだ動けたのか。人間のくせにタフなやつだ」
「俺は」
 段々と体に力が入る。
 ――三回。
 あと三回。
 まだ三回、チャンスがあるんだ。
「俺は、お前が、間違ってると思わない」
 走る。
「だけど、お前が、正しいとも思わない!」
 一回だけだ。
 一回だけ避ければ、カオスエメラルドに手が届く。
 それで、どこか遠く、どこかとても遠いところにワープすれば。
 一回。
「減らず口を!」
 赤黒い煙。
 絶対に自分を狙って来る。
 ドッヂボールと一緒だ。
 当たる前に避ければいい。
 それだけなんだ。
 ボールが来る。
 右側に避ける。
 近づく。
 手を伸ばす。
 光が包む。
 頼む、カオスエメラルド。
 どこか、ずっと、遠い場所に。
「く、ふざけるな、僕にはまだ、やることが」
 まとめて、飛んで行け――
「ふざけ、るな!」
 カオスエメラルドが光る。
「俺は、お前みたいにはならない!」
 視界が歪む。
 しかし、それは再び失敗に終わった。
 体が地面に落ちる。
 指先一つ、動かすことが出来なかった。
「そんなに遠い場所に行きたければ、自分だけで行けばいい」
 ジュエルピュアが遠くから見つめる。
「浅羽くん!」
 あと、二回。
 まだ、残っているんだ。
 残っているのに。
「では、天国にご案内しよう。君の頑張りは認めてあげるよ、人間」
 天国。
 天国か。
 行けたらいいな、そんな場所に。
 視界を光が包む。
 暗転する。
 和利は消える。
「浅羽、くん……和利くん」
 愛莉が力なく項垂れた。ジュエルピュアは笑うことも、泣くこともせず、背を向ける。
「そこで大人しくしていろ、制御AI。今から僕が、世界を変える」
「そこで大人しくしていろ、ジュエルピュア」
 背を向けたジュエルピュアが、寸でのところでその赤黒い煙を避ける。チャオの仮面をつけたその奥に、驚きが見えた。
 甲高い音がして、それが靴の音だと分かる。
 薄汚れたブラウンカラーの外套が風に揺れる。
 帽子を押さえながら、彼は言った。
「時間稼ぎをさせてもらうよ」
 口元は笑っていた。それを見て、浩二も立ち上がる。まだ終わりではないとばかりに、歩き出す。
「では私もお手伝いしましょう」
「AIが、大人しくしていろと!」
 浩二がフィールの隣に立つ。
 ジュエルピュアの持つカオスエメラルドの光が増す。
 それはカオスエメラルドに内蔵された無限のエネルギーがジュエルピュアの情に反応していたのだが、もはやそんなことを気にかける余裕はなかった。
「良いだろう。カオスエメラルドの真の力、とくと見せてやる!」
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9 天国はまだ遠く
 DoorAurar  - 10/12/23(木) 0:11 -
  
 今まで、とても長い夢を見ていたのだろうか。いや、そうではない。
 今まで、ずっと嫌な事ばかりだったのだろうか。いや、そうではない。
 エモがいる。
 エモがいて、他には何もいらない。
 その生活がずっと続く。
 永遠。
 自分はエモと一緒に生きていけばいい。これをジュエルピュアは偽りの愛だといった。単なる依存。
 そうかもしれない。
 チャオは『九割』ではないと無意識に思っていた。だから自分の依り代としていた。間違いではない。
 自分はエモを愛してはいなかった。
 好きではなかった。
 逃避先として。
 嫌なものから目を逸らした、その先に。
 それがあっただけだ。
 ジュエルピュアの言っていることは間違いではない。
 では自分は一体何を愛していたのだろうか。何を求めていたのだろうか。
 分からない。
 ただ嫌だった。
 目の前の現実を見るのが嫌だった。
 それは自分とは無関係に起動し、無関係に消失され、無関係に再起動する。
 だからこれはきっと、俺のせいなんかじゃない。
 俺は何も出来なかった。
 間違ってなんかいなかった。
 他に方法はなかった。
 自分のことしか考えていない『九割』に対して、自分が出来ることは、何一つなかったのだ。
 それはいい。
 でも、それとこれとは別の問題だ。
 確かに『九割』は平気な顔をして他人を貶め、自分の利益の為だけに行動して、困れば他人に助けを求める。矛盾している。納得が出来ない。そして、その中に自分もいる。
 その『九割』は『一割』を貶す。あたかも『一割』に原因があるかのように見せかけて、自分の欲望を満たしているに過ぎない。
 でも、それとこれとは別の問題だ。
 何がしたいのか。
 何をしたかったのか。
 何が欲しかったのか。
 何をして欲しかったのか。
 嫌なことはいい。現実が納得できなくても、自分が無力で、それを変えることさえ出来なくても、そうして行き着いた先が自分の望むものでなくとも。誰かを傷つける結果になってさえ。
 自分のしたことは間違っていなかったと思えることさえ出来れば、たぶん、いいはずだ。 
 俺が求めているのは、辛い思いから努力によって脱却する感動の物語ではない。天才が勝利を収めていくだけの、エンターテイメントでもない。
 どこまでも自分の正しいと思っていることが成る、ご都合主義の結末だ。

 視界が移り変わる。
 意識が蘇る。
 死んだと思ったが、それは間違いだった。地面に足がついている。暗い空が見える。風が冷たい。体中に錘がつけてあるみたいに、立っているのが辛かった。
 だが、まだ歩ける。多分、生きていて、どうにか出来る。
 目の前に岩があった。岩の柱である。目を凝らすと、あたりに同じような岩の柱が立っていた。
 六つ。
 どこかで見た光景だった。神聖な空気。六つの柱は、中央の高台を囲っている。
 人工衛星。
 カオスエメラルドがあった場所。
 同じような。
「カオスエメラルドはチャオを守る為に生まれ、誰かの欲望によって奪われた」
 懐かしい声を、風が運んで来る。
「エメラルドは願いを叶える石じゃなくて、願いに反応して力を与える装置ってわけだ」
 思わず眼鏡をかけ直して、歩いて来た男の姿を確認してしまう。
「どうやら、俺には触らせてもくれないみたいだぜ、後輩」
 どうしてここに、と聞く前に、和利は気が付いた。人工衛星にあった六つの柱とその中央に座した高台と、カオスエメラルド。
 今、目の前にあるのも、恐らくは。
 高台の中央。淀んだ思いを、抱いた不安を全てかき消すような光を放つ、宝石。
「カオスエメラルド、ですか?」
「いいや、違う。マスターエメラルドだよ」
 煤けたジャケットの中から小さな宝石のかけらを取り出して見せる。
「この島の守り神さんが言ってた。もう消えちまったけどな」
 島。その言葉を聞いて、和利は自分がどこにいるのかを確信した。カオスエメラルドなんてものが本当にあった今、実在しても不思議ではない。
 浮遊する大陸、エンジェルアイランド。巨大な柱を内包する遺跡。
「マスターエメラルドはカオスエメラルドの力を抑えることが出来る。しかも七つのカオスエメラルドの力を、だ」
 ぶんと、耳にノイズが響いた。
「え?」
「だから、マスターエメラルドは」
「いや、そうじゃなくて」
 和利は戸惑った。
 名前を呼ばれている。先輩の声に重なるようにして、何度も呼んで来る。声が響いている。先輩には聞こえないのか。聞こえないみたいだった。
 どうして呼ばれているのか。考えるだけ無駄だろう。体は重たかったが、不思議と足取りは軽かった。
「おい、浅羽?」
 高台の階段を上る。一段、一段、ゆっくりと。
 誰が、呼んでいるのか。
 その声に聞き覚えはない。だが、どこか聞いたような、記憶の隅に引っかかっているような。記憶になくとも、耳が憶えている。そんな声色が響く。
「君が呼んでるのか」
 光の波が、景色を染める。燃え盛る何か。見たことも無い武装した生物。倒れ伏せるチャオたち。その中で一人、立ちはだかる姿。
 その中央には緑色に光を放つ石が安置されていた。
 声は聞こえない。何が起こっているのかも分からない。しかし、不思議と伝わって来る。憎悪だ。怒り。誰のものかは分からない。
 景色が渦に飲み込まれ、元に戻る。
 目の前にある緑色の石。マスターエメラルド。
 光の波が再び景色を染めた。水の怪物が光に貫かれる。チャオたちが喜んで小さくなったその怪物を迎える。憎悪はなかった。安心に満たされている。
 これは記憶だ。
 誰のだろう。
 エメラルドの?
 光が収束する。元の景色。一体何を伝えようとしているんだろう。水の怪物。憎悪。燃え盛った景色。チャオ。そして、安心。
「青いハリネズミは、優しさによってエメラルドの力を引き出した」
 自分の口が、自分の意識とは無関係に言葉をつむぐ。
「水の怪物は憎悪によってエメラルドの力を引き出した」
 分かって来た、気がする。
 きっとエメラルドの使い方を教えてくれているのだ。
 間違った道を選ばないように。
 ちゃんと正しい方向へ導いてくれているのだ。
「大丈夫だよ」
 記憶が走馬灯のように駆けて、消えて行く。ながれゆくもの。エメラルドの記憶。二度と繰り返してはならない歴史。
「分かってる」
 和利はエメラルドを手にする。
 偶然だろうか。ここで和利が呼ばれたことは、果たして偶然か。誰かが仕組んだことなのか。それは分からない。考えようも無いことだ。
 でも、偶然にも空はまだ暗い。
 そして、偶然にも自分はまだ生きていて、走る事だって出来る。
 手の内には偶然にも絶対的な力。無償の暴力。世界すら滅ぼすことだって出来る、そんな力の塊がある。
 何をしたいか。
 何を望むのか。
 それに応じて、エメラルドは力を与えてくれる。
「先輩は間違っていましたよ」
 あれだけ重かった体が、雲のように軽い。
 苦笑して待ち構える男に、和利は面と向かって言い放った。
「いくら人が適応力に優れているとはいえ、変わることは出来ます」
 求めるものは、ただひとつ。
 自分の思ったことが、全て実現する、そんなご都合主義の結末だ。


 9 天国はまだ遠く


「大丈夫ですか、フィールさん」
 ブラウンカラーの外套をはらって、フィールが立ち上がる。既にジュエルピュアの繰り出す攻撃は赤黒い煙などというレベルではない。
 単なるエネルギーの放射である。
 それが形となって、衝撃波となって、牙をむく。
「データベースに存在しないのは何故だ?」
 ジュエルピュアがマザー・コンピューターを指して言った。
 宝石のかけらを手に、フィールは眼鏡をついと上げる。その背後には愛莉が息苦しそうに蹲っていた。
「そうだな、恐らく今の俺は救世主といったところか。元の世界へと繋がる列車の車掌ともいえるかな。なんてポエマーなんだろう、俺」
「余裕そうじゃないか」
 エメラルドが光を放射する。とっさに浩二が動いて、その光を鉄塊で物理的に防ぐ。
「そろそろ止めたらどうだ?」
 フィールが尋ねる。ジュエルピュアは表情のない顔を歪ませて、怒りを露にした。
「そろそろ止めろと、一体なぜ今になって言うのか」
 ぴたりと動きが止まる。
「ジュエルピュアの実験を、チャオをおもちゃのように扱う実験を止めるものは一人もいなかった! 人の利益のために! 人の都合で! 僕の話が聞き入れられることはなかった!」
 誰も、何も言わなかった。反論が出来なかった。間違ってはいない。ジュエルピュアはそもそも間違っていないのだ。
 こうして世界を元に戻そうというのも、人の身勝手な都合だといえる。
「でも」
 愛莉が言う。
「だからって同じ事をやり返して良いって理由にはならないよ」
「AIの分際で人のようなことを言う!」
 ジュエルピュアが吐いて捨てるように言った。
 フィールの表情が苦悶に歪む。カオスエメラルドは無限のエネルギーである。ジュエルピュアはそれを七つ手にしているのだ。元が機械知性である浩二と愛莉はともかく、フィールは疲れを隠せない。
「もう止めないか、ジュエルピュア。俺はお前が嫌いじゃない。お前が正しいとも思ってる。確かに人は身勝手だ。だけど、それとこれとは別の問題なんだ」
「どこが別の問題なんだ? それを決めるのはお前たちじゃない、僕だ!」
 光が放射する。赤い光。全てを破壊するエネルギー波。同等のエネルギーをぶつけてフィールが応戦する。しかしカケラとエメラルド七つでは勝負にならない。あがくのが精一杯だった。
「お前たちはいつもそうだ。被害者面して、自分がいつも上の立場にいるつもりになっている。他人を平気で否定しておきながら、その他人と同じことをする!」
 反論は無い。
「間違っているか? 間違っているなら言ってみるといい」
 反論は無い。
「お前たちは疑問さえ抱かない。抱いたとしても、正そうとすら思わない」
 反論は無い。
「そんなお前たちだからこそ、永遠にそのまま変わりはしない。ならば、僕が正してやろう。身勝手には身勝手をもって制する他ないのだから」
 反論は無かった。
 ――代わりに、まばゆいほどの日差しに陰りがさす。太陽が雲に隠れてしまったような、巨大な影が崩壊した会場の一面に投影される。
 不思議に思ったのは愛莉だけだった。
 愛莉は空を見上げる。
 影が浮かんでいる。
 影ではない。
 影ではない何かが空に浮かんでいる。
「浅羽くん?」
 フィールが驚きのまなざしで振り向いた。
 ジュエルピュアが異変に気が付くことなく、カオスエメラルドの力を凝縮させて行く。
 『とどめの一撃』。
 呼称するならば、そのような名前になるだろう。
「お前たちが身勝手でないというなら、どうして」
 エネルギーが渦を為し、渦が渦を纏い、巨大な渦を形成する。
「僕が何の為につくられたのか――答えてくれる人は、誰もいなかったんだ」
 エネルギーの渦が放出と同時に、消滅する。能面のようなジュエルピュアの表情が、もし変わるなら、驚きに変わったことだろう。
 それほど唐突に消えてしまった。
 何の脈絡もなく。
 何の介在もなく。
 消滅した。
 同時にカオスエメラルドの光も途絶える。
「なんだ、何をした!?」
 答えは、なかった。


「たまには役に立つじゃないか、先輩!」
 マスターエメラルドの輝きが増す。和利の手の内で、それは光り輝く。浮遊する大陸を、自分が願う場所へ導いていく。
 和利は先輩の乗るバイクの荷台に飛び乗った。
「衝撃に備えて置けよ。この高さから飛び降りたら普通死ぬからな」
「恐らく大丈夫です。俺がなんとかしますよ」
「調子にのんな。行くぞ」
 エンジンが高鳴る。風を切って、バイクは大陸の坂を上る。空へと飛び立つ。
 浮遊感が体を包んで、必死でバイクに掴まる。一気に会場まで駆け降りる。
「大丈夫か! 浅羽!」
 着地寸前でエネルギーを殺すことを和利は考えたが、このままだと会場ではなく、会場よりも北側へと落ちてしまいそうだった。
 舌打ちして、和利は叫ぶ。
「先輩、考えたことはありませんか!?」
「なんだ!」
「カオスエメラルドの力を封じることが出来るマスターエメラルドには、カオスエメラルド七つ分の力が宿っているんですよ!」
「そんな馬鹿な話があってたまるか!」
「それじゃあ出来たら、俺は天才ですね!」
 落下感のなかで、和利は思い出す。一瞬で視界が移り変わる、あの感覚を。あの奇妙な感覚を。
 一瞬でワープしてしまう、あの魔法みたいな仮想現実システム。
 それを、エメラルドの力で再現するだけだ。
 自信満々に言ってのけたが、心の中では不安でいっぱいだった。だけど、何かが自分の背中を押している。それはエメラルドの記憶であって、自分が目指したあの小さな背中のせいでもあった。
「出来るか、俺に……」
 ずっと成功していると、こんなに成功するのはおかしいと思ってしまうことがある。
 その感覚に近かった。
 偶然がこんなにも続くのはおかしい。こんなにうまく行っているのは変だ。今度こそ失敗する。失敗すれば一瞬で終わってしまう。
 だけど、そんなまやかしに惑わされている場合ではない。
 あと二回。
 二回も残っているのだ。
 エメラルドが輝く。
 輝きの中に二人を取り込んで、消える。
 和利が光から帰ったとき、目の前にはジュエルピュアがいた。
「エメラルドだと? なんだ、それは!? 八つ目のエメラルドが存在したのか!?」
「ジュエルピュア、お前と話がしたいんだ」
 ジュエルピュアが右手を振り上げて、赤黒い煙を放つ。それを消滅させて、和利はジュエルピュアに近づいた。
「お前と話をさせてくれ」
「来るな!」
「話だけでいいんだ!」
 全員が和利を見た。
 そういえば、と今更ながらに和利は思う。自分は何もして来なかった。ただ起きた出来事を受け止めて、受け流していっただけで、自分は何もしていなかった。
 何かしたいとはっきり思ったことなんて一度もなかった。
「くそ、くそおおおおおお!!」
 ジュエルピュアが巨大な赤黒い煙を放出させる。しかし無意味だった。和利は思うだけで、それを消滅させた。
 勝敗は既に決している。誰の目から見ても明らかである。マスターエメラルドの強大な力の前に、ジュエルピュアは手も足も出なかった。
 そして、彼はそれを自覚している。
「……お前の勝ちだ、人間。僕にエメラルドに抵抗できるだけの力は無い」
 七つのカオスエメラルドは力なく地面に落ちている。光を失ったままだ。マスターエメラルドは七つの力を吸収したかのように輝きを増している。
 事実、そうなのかもしれない。マスターエメラルドはカオスエメラルドの力を吸い取っているのだ。
「そうじゃない」
 和利は言い放った。
「お前と話がしたい」
「ふん、エモート君を殺した張本人とか? 言って置くが、エモート君は既に世界から消えている。元の世界に戻したところで、帰っては来ない」
「違う。俺はお前と話がしたいだけだ」
 和利は言う。
「聞いて欲しいんだ。聞かせて欲しいんだ。お前が何を思っていたのか。俺が何を思って生きてきたのか。恐らく俺は、お前が嫌いじゃないみたいだから」
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10 「話がしたいんだ」
 DoorAurar  - 10/12/23(木) 0:12 -
  
 10 「話がしたいんだ」


 検体0012号。それがジュエルピュアに与えられた名前だった。
 実験に苦しみは伴わなかった。そもそもジュエルピュアが意識を持って生み出された時、既に実験は完了していたのだ。
 だが、ジュエルピュアは見た。
 多くのチャオたちが、籠の中で放棄されているのを見た。
 苦しんでいた。声が聞こえた。
 ジュエルピュアは訴えた。しかし誰も彼も、彼を検体0012号以外として見る事はなかった。
 同時期、ジュエルピュアはチャオガーデン・プロジェクトに組み込まれていることを知った。その為の実験であったという。
 チャオガーデン・プロジェクトは仮想現実システムを利用し、チャオにとって住みやすい環境をシステム上に作り出し、現実世界とリンクさせることでチャオを一つのガーデンで管理するというものだった。
 その本質は、実験素材の確保と管理費用の削減。
 ただそれだけだった。
 人はチャオのことを見ることはなかった。
 チャオを通して何かを見ることもなかった。
 チャオは単なる材料だった。
 検体0012号の誕生祭が決定された。
 ジュエルピュアは仮想現実システムに細工を施した。
 制御AIを休眠状態にし、自らが制御体となるように設定した。
 目的はただひとつ。
 愚かな人類に復讐し、チャオだけの神聖なる世界を構築すること。
 それがジュエルピュアの望んだことだった。

「今更何を話すことがある?」
 ジュエルピュアは自嘲気味に言う。既に勝敗は決していた。カオスエメラルドを失った今、そして、マザー・コンピューターの力をもってさえマスターエメラルドの超常的な力には対抗できないだろう。
 だが、和利にとって勝敗はどうでもよかった。世界がどうなろうとも知ったことではない。
「俺はお前に共感していたんだ」
 少しずつ、和利は心を開く。
 心の開き方は愛莉から教わったはずだ。愛莉が教えてくれたのは何も自分の目指すべき道だけではない。
「どいつもこいつも仲良しごっこばかりで、まるで宗教みたいなんだよ。そのくせ誰か一人敵を見つけたら徒党を組んで否定し始める。その一人の気持ちなんて、誰も考えさえしない」
 自分はあいつらとは違う、と思っていた。
「みんな仲良し教に入らない人は排除される。罪悪感もない。自分の嫌いを正当化して、自分さえ良ければそれでよくて、人間の九割はそんなゴミとクズしかいない現実に嫌気が差してたんだ」
 でも結局、自分はあいつらとそんなに変わらないと気づいた。
「なんなんだろうな、あいつら。自分と他人が同じじゃないと気がすまないんだよ。同じじゃないやつなんてきっとどうでもいいんだ。身勝手だよ、本当に」
 そうだ。何が自分と違うんだろう。客観的に見てみれば、自分もあいつらも、そう変わりはしない。方向性が違うだけだ。
「俺はゴミとクズしかいない九割を正してくれるなら、そんな世界もいいかなって、考えてた」
 その考えは今も変わっていない。そこに自分がカテゴライズされようと、自分が正される対象にあったとしても、自分がきっとあいつらに納得することは未来永劫ありえないことなのだろう。
「俺はさ、エモさえいればそれでいいと思ってた。エモと一緒に生きていこうって。エモはすごく無邪気で、思いやりもあって、良い子なんだ。九割なんかとは全然違う」
 きっと仮想現実システムを使えば、エモを取り戻すことが出来るのだろう。
 でもそれは仮想現実であって、現実ではない。
 エメラルドの力だってそうだ。こんなものは、自分の現実じゃない。
「でも、エモを守ることが出来なかった。それなのに、もう立ち直ってる。本当のところじゃ、そんなに好きじゃなかったのかもしれない」
 どんなに自分が愛していると思っていても、本当のところではそうじゃないかもしれない。
「だけど、俺はエモと一緒に生きたいって思ったのは絶対に、間違ってなんかいないんだ」
 『一割』になるための通過儀礼のようなものだ、と和利は思った。
 自分は今から『九割』を卒業する。
 誰もみとめてくれないかもしれない。みんなが自分を嗤うかもしれない。けれど、自分で自分を信じられる『一割』になるのはそう難しいことじゃない。
「俺は、自分が間違ってるなんてつゆほども思っちゃいなかった。でも、誰か一人を犠牲にして、自分たちが楽しければそれでいいような奴らだけは間違ってるって思う」
 本当にそうだろうか、とは考えない。
 自分にも他人にも疑問を持ってはならないのだ。
「だから、一緒に」
 エモはいない。二度と帰らない。そのエモを失わせた張本人。それでも。
「一緒に戻ろう」
 ジュエルピュアの表情には何も浮かんでいなかった。
 そうして造り出されたのだ。
 ジュエルピュアに表情が無いのは、ジュエルピュアに感情がないからではない。人の身勝手な都合のせいで、ジュエルピュアは表情を与えられずに生み出された。
 笑うこと、泣くこと、そんな表情変化の機能はない。
 チャオとしての形だけ。
 けれど和利は形だけなんかじゃないと思った。
「全部が元に戻ったら、みんな忘れてるとしても、俺だけは憶えてるから。忘れても思い出すから。一緒に、元の世界に帰ろう」
 言い切った。
 全部が自分の言いたいことだ。一言も欠けてはならない。したいこと。望んだこと。身勝手な行為だと和利は思ったが、どちらにしろ人は身勝手になるしかないのだ。
 自分がしたいことを、するためには。
「今度はお前の番だよ、ジュエルピュア。お前がしたいこと、なんでもいってくれ」
「憎いだろう」
 ジュエルピュアの小さな口を突いて出た言葉は、それだった。
「僕が。エモート君を消した僕が。憎いはずだ。君の愛が偽りだったとしても、それが愛であることに変わりなんてない」
 和利はぽかんと口をあけて目を丸くする。
「君の、たった一人の家族なんだろう」
 ジュエルピュアは罪悪感を覚えているのだ。
 そして、後悔もしている。
 他に方法があったのではないか。
 自分も人とそう変わらないのではないか。
 同じ事をしていては、意味が無い。
 恐らく、と和利は思ったが、なぜだか間違っている気はしなかった。
「エモは大切な家族だったよ。大切な家族だった。今でもそう思ってる」
 でも、と和利は続ける。
「だけど、でも」
 それを認めることは、自分の今までを否定することに等しかった。
 自分の家族はエモ一人だけで、他にはいない。ずっとそうやって生きて来た。
 あいつらは家族じゃない。
 『九割』だ。
 だけど、自分が望むものは。
 自分はただ、みんなで笑いあうことが出来る、そんな場所が。
 そして、それを造るものが自分しかいないのだとしたら。
 最初からそうだったのなら、最初から歪んでいたのならまだしも、どこかで歪んでしまっただけなら。まだ間に合うはずだ。きっと、間に合っていいはずだ。
 だって、自分が欲しいものは、結局のところ。自分が嫌だと思ったことは、結局、最後まで。
 それが本当に欲しいものなら、自分の力で手に入れなければ、その気持ちが嘘になってしまうから。
 だから。
「それでも、俺にはまだ――家族がいるんだ」
 自分が無力だとしても、まだ家族がいる。家族と話すことが出来る。まだやれることはある。
 その言葉を最後に、和利は黙した。
 既に話したい事は終えた。
 あとはジュエルピュア次第だ。
 ジュエルピュアが選ばなければ、自分は前に進むことは出来ない。ジュエルピュアを見捨て、切り捨てた先など、そんな未来に希望は持てない。
 ふっと、ジュエルピュアがマザー・コンピューターに近づいた。
「何を!」
 浩二が叫ぶ。それを先輩が手で制す。
 ジュエルピュアはコンピューターを操作して行く。疎い和利には何をしているのか分からなかった。
 だけど、ジュエルピュアが納得しないまま強制的にリセットしても、意味が無いのだ。それじゃあ、『九割』と変わらない。
 みんなで笑いあうことが出来る世界が欲しい。
 それだけなのだ。
「リセットシステムは」
 ジュエルピュアがキーを指し示す。
「発動した人間以外の記憶はシステム起動時までリターンする。つまり、僕がこれを押せば、僕以外は全てを忘れるということだ。最も制御AIはコンピューターとリンクしている。そこの二人は問題ないだろう」
 発動した人間以外の記憶がリセットされるということは、この期間の出来事を自分しか憶えていない状況になるという意味である。
 つまり。
 制御AIである浩二と、愛莉には二度と会うことは出来ないだろう。よくは分からないが、システムの影響で体を現実化させているに過ぎないのだ。和利が仮想現実システムに関わる機会も、ありそうにない。そもそも関わりがなかったフィールにも会うことは出来ない。
 先輩に会うことはできても、この出来事は一切憶えていないのだ。
「予定通り誕生祭が行われるが、僕が同じことを繰り返すことはないと思う。そもそも制御AIにそんなことをさせてもらえないはずだけどね」
 だけど、自分が押すしかないと和利は思った。
「僕にも分からないよ。記憶を失ったら、心はどうなるのか。変わった人格は記憶がなくてもそのままなのか」
「和利くん!」
 愛莉が叫ぶ。
 平和な世界を取り戻したことで、あと二回のうち一回はパスだろう。
 最後の一回。
「あと一回。今度、何かの形で返すよ。もう会えないかも知れないけど、絶対」
「そうじゃないの、そうじゃ……」
「ジュエルピュア、俺がやる」
 自分が忘れる事は無い。忘れたくはなかった。全部憶えていたかった。フィールが愛莉を止める。先輩は既に別の方を向いていた。浩二が俯いている。
「あなたには、感謝してもしきれません。私がすべきだったことを、」
「こっちこそ、助けてくれてありがとう。それから、フィール」
 挑戦的な視線をフィールへと向ける。フィールは分かっていたように笑って、腕を組んだ。
「俺はお前みたいにはならない」
「分かっているよ。君は俺『みたい』にはならない。恐らくね」
 コンピューターへ向けて歩き出す。マスターエメラルドを置くと、石は光を失った。和利は深呼吸する。
 何か言い忘れた事はないか。
 まだ話す事が残っているんじゃないのか。
 柊たちは大丈夫だろうか。別れの挨拶も出来なかった。
 和利は振り返って、愛莉を見る。心配げなまなざし。制御AIである彼女とは、たぶん、全てを記憶していながら会うことは出来ない。
 仮想現実システムそのものが遠すぎる。
「もう大丈夫だ」
 まだ話したい事はたくさんあるはずなのに、言葉がうまく出てこなかった。
「うん」
「ゆっくり休まないとダメだぞ」
「うん」
「色々とごめん」
「うん」
「じゃあ、じゃあな」
「うん」
 和利は涙が出そうなのを堪えて、ジュエルピュアと目を合わせる。
 できれば、みんなで一緒に戻れたらよかった。
 エモや愛莉と、永遠に、ずっと一緒にいられたらどんなによかったことか。
 ジュエルピュアとだって、きっと気が合うと思うのに。
 でも、決めたことだ。
 まだ自分には家族が残されている。
 二人。
 ずっと喧嘩ばかりで、子供のことなんて全く考えてくれない親がいる。
「じゃあ、な」
 キーを押す。
 光の波。
 景色が消える。
 人が消える。
 暗闇に取り残される。
 自分の感覚がなくなる。
 意識がぼやける。
 七つの光が見える。
 七色に輝く、七つの光だ。
 その光は何かを形作る。
 何かを。
 失ったはずの何かを。
 ぼんやりとしか理解できない。
 何か伝えようとしているのかもしれない。
 導いてくれているのかもしれない。
 お礼を言っているのかもしれない。
 分からない。
 でも、悪い気はしなかった。
 意識が薄れる。
 光が消える。
 そして。


 そして。
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11 偶然にも最悪な少年
 DoorAurar  - 10/12/23(木) 0:13 -
  
 いつも、あの声で目を覚ます。
 一月八日。七時六分。
 父親の怒声と、母親の怒声。家の隅々まで届くその声が、自分を雁字搦めにする。
 隣にあるはずの姿は無い。
 失ってしまったもの。
 しかし誰のせいでもない。何かに責任を押し付けることは出来ない。かと言って自分で背負うわけでもない。最初からいなかったことと何ら変わりは無いのだ。
 現実を疑うほどの危機は去った。
 聞こえるのは声だけだ。
 銃声も、奇妙な声も、なんだかよく分からない現象さえも、自分の前から消滅してしまった。
 その体験を共有しているはずの仲間には、二度と会うことができない。
 全てを忘れてしまう道を選ぶことも出来た。だが、自分が選んだのは今だった。
 恐らく、あのとき手にしていた力を使えば世界を変える事だって出来ただろう。
 それこそ、自分の思うとおりに。
 でも、それはしなかった。
 誰も望んでいなかった。
 いや。
 自分が望んで選んだのだ。
 かけがえのない、けれど無価値な現実を。
 『九割』の支配する世界を。
 エモのいない世界に。
 戻ってきた。
 自分にかかっている布団を剥いで、立ち上がる。カーテンを開けて眩しさに瞼を閉じる。
 きっともう二度とあの力を手にすることは無いのだろう。世界を変えることの出来る機会にも恵まれないのだろう。
 眼鏡をかける。
 世界が美しく見えたりなどしなかった。
 何一つ変わっていない。
「    」
 あの声が聞こえて来る。
 もう目は瞑らない。この耳が声を聞き逃すこともない。
 そして、あの声が聞こえるのも。
 恐らくそう長くは無い。
 着替えを済ませて、登校する仕度を終わらせてから、大きく深呼吸する。
 エモはいない。
 たった一人の家族は消えた。
 跡形もなく。
 それは記憶になった。
 だけど、自分は欲しいのだ。どれほど手に入れ難いものでも、欲しい。あたたかな家。どこにでもある家庭。家族。
 そして、まだ手に入れることが出来る。
 ドアを開けた。
 さらにドアを開ける。
 視線が集まる。
 声が止まる。
「父さん、母さん。話があるんだ」


 11 偶然にも最悪な少年


 車通りの多い道を自転車で駆ける。
 頬が強烈に痛んだ。
 道行く人が自分を奇妙な視線で見る。殴られたとはいえ、そこまで酷い顔にはなっていないはずだ。だとしたらなぜか。ああ、なるほど、一人で笑っているからだ。
 今からどれだけ急いでもどうせ遅刻である。
 けれど急ぎたい気分ではあった。
 学校に到着した。
 二年二組を目指す。遅れて来た和利を訝しげな視線で見る。構わない。
「遅れました」
 無言で席を示される。
 窓際から二列目の後ろから三番目、それが和利の席である。教室に設置されたテレビに注目が集まっていた。
 ジュエルピュア誕生祭。
 チャオ・フェスタ。
 そう表示されている。
 愕然としかけて、なんとか持ち直す。
 アナウンサーが歴史的な日がどうの、チャオの革新がどうのと言っているが、和利の目はテレビの中央を捉えていた。
 誕生祭がなぜ一月八日になったのか。
 そもそもどうして一月八日になっているのか。
 なんてことは些細な問題である。考えたところで凡人である自分には分かるはずも無いし、分かろうとするつもりもない。
 問題なのは、ジュエルピュアだ。
 ちゃんと生きてくれているのか。
 どうしているのか。
 元気なのか。
『それではご覧いただきましょう! 世界初、ジュエルピュアの――』
 どよめきがテレビ越しに聞こえた。
 クラスにもそれが伝染する。
 いないのか?
『えー、ただいま入った情報によりますと、ジュエルピュアが、え? 脱走、したそうです。関係者はただちに捜索するとのことで』
 驚きの声が周りから上がる。
 和利は思わず笑いそうになって、辛うじてポーカーフェイスを保った。あれだけ怖かったはずのジュエルピュアが、ただのチャオに思える。どうしてだろう。
 もしかすると、記憶がなくても心はそのままなのかもしれない。
 それか、今の今まで体験してきたことは全て夢だったのかもしれない。
 そんな馬鹿な話があるか、とは言いたくなったが、そんな馬鹿な話を体験して来たのだから手に負えない。
 何が起こっているのだろう。
 ジュエルピュアがどうして脱走したのか。誕生祭が一月八日になったのはなぜか。
 それを知る由はないし、もう自分には何の関係もないところで進行していることだ。
「そりゃあ脱走するよなあ」
 誰かが言った言葉が、いやに耳に残った。


「おーい、浅羽! 大ニュースだ、大ニュース!」
 放課後、図書室に向かった和利を止めたのは先輩だ。
 受験生として忙しいはずの先輩はやけに陽気な表情で和利の背中をばしんと叩いた。
「ジュエルピュアが脱走したんだってよ! いやー、フェスタに行ったやつは残念だったな!」
「チケットが獲得できなかったからって僻まないでくださいよ」
「ははは。あれ? そういやー、お前のところ、チャオいなかったっけ?」
 驚きそうになったが、それを溜息に変えて、和利はなんとか誤魔化す。
「いないですよ。気でも狂ったんですか」
「いや、そうだよなあ。チケットを手に入れたって話を聞いた気がするんだけど、あれ?」
 どうなっているのか、自分にはさっぱりだった。だが、今更である。仮想現実システムと関わり合いになる機会は二度とない。
 今、世界に何が起こっているのかなんてことは、自分が考えることではないのだ。
 自分が考えるべき事は自分のことで、それでいい。
「浅羽?」
「なんですか?」
「お前、なんか変じゃないか?」
 ふっと吹き出して、和利は笑った。
「先輩こそ、エンジェルアイランドを探す旅はどうしたんです?」
「なんだそりゃ? エンジェルアイランドなんてあるわけねーだろ。気でも狂ったか?」
 そうだよな、と和利は思って、首を横に振る。
 エンジェルアイランドなんてあるわけがない。そのエンジェルアイランドの中に六本の柱なんてあるわけないし、緑色の宝石なんてあるわけないのだ。
 人工衛星の奥深くにカオスエメラルドが存在している、なんてのは夢の中の話で、現実にそんなものがあるはずもない。
 きっとそれが現実で、あれは結局、仮想現実だったのだろう。バーチャルリアリティ。リアリティの高い体験だったというだけで、それ以上の意味は無い。
「あー、でも、エンジェルアイランドかあ。あったら面白そうだな」
「そうですね。バイクに乗って探せば、先輩ならきっと見つかりますよ」
 じゃあ、俺はこれで、と背を向ける。
 手を振り上げる先輩に、和利は少しイタズラを思いついた。
「先輩」
「あ?」
「これから離すのは独り言です。独り言なので、返事はしないで下さい」
 ぽかんと口を開けている先輩に、そっくりそのままあの言葉を返す。
「人の持つ最大の武器はその適応力です。自分に疑問を持ったり、他人に疑問を持ったり、そういう自分に慣れすぎると、二度と元には戻れないそうですよ」
「なんだそりゃ? 格言か?」
「俺の知ってる人が言ってました。それじゃ」
 まるであのときの先輩はなかったことのようになっている。
 本当に夢だった。そう考えた方がわりと現実的かもしれないなと、和利は思った。


 『九割』の談笑が放課後の学校のあちこちで聞こえる。
 その中に――――の姿があった。
 違う標的を見つけたのだろう。――――は和利に目もくれず、談笑を続けた。
 おかしな奴らだ、と思った。
 でも、自分が彼らと関わることは恐らく永遠にない。
 自分は自分のことで精一杯なのだ。
 だからこれが多分、一番の正解で、誰もが望んだ道だったのだろう。
 ――――の後姿から目を離して、和利は背を向けた。


 帰り道。
 自転車を押して歩く。
 たそがれたい気分だった。
 頬の痛みが大分収まってきたのを感じとる。
 家族を取り戻す旅は長そうだ。
 先輩ももうじき卒業する。
 だけど、自分で選んだことだから。
 孤独だとしても諦めるわけにはいかない。
 雪の降りそうな天気なのに、雪は少しも降らなかった。ムードもへったくれもないなと笑う。
 午後からは大雨だそうである。
 雪じゃねーのかよ、と和利は一人ごちる。
 自分が望んだものはなんだったのだろうか。
 無力な自分を変える事だったか。『一割』になることだったか。エモを取り戻すことだったか。家族と笑いあうことだったか。その全てである。
 何か一つを諦めることはない。
 それが自分のしたいことなのだ。だから仕方ない。誰が傷つこうと、誰が犠牲になっても、自分を止めることは出来ない。
 強いて言うなら、もう一度。せめて、別れの挨拶だけでも。
 エモに会えたらなあ。
 そう思った。
「え?」
 声が聞こえる。
 いつの間にか周りには誰もいない。
 自分を呼んでいる。
 この感覚には覚えがあった。マスターエメラルドに呼ばれたあのときと一緒だ。いや、違う。気のせいだ。和利は戸惑って、後ろを振り向く。
 チャオが浮かんでいた。水色に光る体は、確かにジュエルチャオのものだ。手の先、頭の先、足の先が有色半透明に変色している。他のチャオとは体の形が大きく違っていた。
 天使のわっか、燃え盛る炎を模したポヨ。
 表情のない表情。
 ジュエルピュアである。
 彼は背を向けて、空を駆け始めた。
 来いってことだろうか。
 和利は自転車に飛び乗ってジュエルピュアを追いかけた。
 ぽつりと雨が顔に当たる。
 今日はついていない。
 いや、ついているのか。
 どちらにしろ色々起こる日だ。
 そう思って、ペダルを漕ぐ。
 懸命に漕ぎ続ける。
 景色が変わって、雨が強まる。
 風が出てくる。
 ジュエルピュアの背中を追いかけ続ける。
 珍しいチャオの姿に注目が集まる。
 なんだろう、あれ。
 なにかな、なにかな。
 もしかしたらジュエルピュア?
 そんな声を飛び越えて、走る。
「つーか、自転車よりはやいってどういうことだよ」
 ジュエルピュアに向かって言ってみる。
 返事は無い。
 走り続ける。
 電車と並走する。
 雨がさらに強まる。
 記憶はないはずだ。何にも憶えてないはずだ。思ったが、どうでもよかった。確かめるすべがなかったのもそうだし、確かめたところであまり意味は無い。
 次第に日が暮れて来る。
 足が鉛のようだった。
「お前は飛べるからいいよな」
 ジュエルピュアに向かって言ってみる。
 目的地は見えない。
 霧がかかっている。
 どこかで見た景色になって行く。
 段々と向かっている場所がはっきりして来る。
 チャオフェスタの会場。
 人ごみが見えてきた。
 ごくりと生唾を飲み込む。
 ジュエルピュアが止まって、そのジュエルピュアに気づいた人がちらちらと盗み見る。
 自転車を止めてジュエルピュアに駆け寄ると、彼は無言で歩き始めた。
 そのあとに続く。
 ジュエルピュアの異様な空気に圧倒された人たちが、道をあける。
「ジュエルピュア?」
「ジュエルピュアだよね?」
「今、ジュエルピュアが、ジュエルピュアが戻って来ました! え? 後ろから誰か、人です! 男の子を連れてきています!」
 居心地の悪さを感じつつも、和利はジュエルピュアの後に続く。
 舞台の裏側に入って、白衣を着た男たちの罵声をくぐって、奥へと進む。
「君、関係者以外は立ち入り禁止だよ!」
 そう叫んだ男が、帽子を被った男に止められるのを見て、和利は何が起こっているのかいよいよ分からなくなって来た。
 ジュエルピュアは、何をしようとしているんだろう。
 階段を下りて、地下へと進む。
 この光景には見覚えがあった。
 マザー・コンピューターである。
 仮想現実システム。
 それが目の前にある。
「君の愛が本物かどうか、確かめたくなったんだ」
 ジュエルピュアが初めて口を開いた。
 その口ぶりはまるで、全てを憶えている様で、和利は思わず身を引いてしまう。
「君の望むものがなんなのか――見てみたくなったんだ」
 ジュエルピュアの目が、和利を試すように見る。
「そうか」
 独りでに納得して、ジュエルピュアが目を閉じた。
 マザー・コンピューターのモニターに表示された図形が変化して、人の形をかたどる。
 光。
 あたたかな光だ。
 部屋中に溢れる光が躍るように舞って、一点に集中して行く。
 和利は自分がここにはいないような、そんな錯覚を覚えた。
 これは夢なんじゃないか。
 これは仮想現実なんじゃないか。
 でも、頬の痛みがその疑問を忘れさせる。
 これは現実だ。
「あとは君の好きにするといい。元々これは、君の望んだことなんだから」
「どういう?」
 光が形をつくる。
 和利は目を見開いた。
 意識は確かにある。
 殴られた頬がやけに痛む。
 それが自分に現実感を与えてくれる。
 声が聞こえる。
 あたたかな声だ。
 自分がずっと欲しかった声。
 本当の、本物。
 たった一人の家族がいた。ずっと一緒で、ずっと一緒だと思っていた。
 たった一人、自分を助けてくれた人がいた。自分が目指す場所に立っている人がいた。
 そうして今、たった一人だけではなくなる。
 たった一人で生きていくことは、なくなる。
 なくなるんだ。
 だから、これを俺が忘れることは、恐らくきっと永遠にないだろう。
 和利は笑って迎える。
「    」


 浅羽和利、十六歳。
 一月八日の出来事である。
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後書き 君が思い出になる前に
 DoorAurar  - 10/12/23(木) 0:14 -
  
・アイリガ
悩みを解決させる魔法
用例:愛莉が云々

・0って……
最初に読むのはダメな回。自己責任自己責任

・11要らない
蛇足

・1と他で文体が違う
仕様

・話が分かりにくい
仕様

・読みにくい
実力不足

・どうしてこうなった
タイトル

読んでくれてありがとうございます。読まない方が良かった。それもそれで面白い感想だと思います。
何か伝わったか何も伝わってないか、駄作かそうでないか、感じることはそれぞれあるとは思いますが、ここまで読んでくださったということはそれなりに楽しんでくださったようで何よりです。
人は感じたことに理由を付けたがります。不快な思いや愉快な思いに理由を付けます。
僕はそれがどうしてなのか分かりません。
しかし分からないままでいようと思います。
理由を付けるのは楽しいのです。
ところで楽しければ何をしてもいいのかと言えば、僕はそう思いません。何かが嫌いだからといって、それが正当性のあるものだとして、それを表面化させるのは良くない。
ですがそれは僕の意見です。
他の人は違います。
だからこそ都合の良い悪役を作ることが、人類にとって最も単純で簡単な救済方法なのです。
相反する属性を持つものがいなければ、人類の意志が一つになることは永劫ありえません。
なぜ思いの相違が行われてしまうのか。それは自分たちという一個集団と比較する存在がいないからです。
それらすべてを救済するには超常的な力が必要でありますが、現実にはマスターエメラルドもカオスエメラルドもありません。
ならば都合の良い悪役の確立という方法でしか救済はない。
どうか理解して下さり、共感してくださった人が同じ行為を繰り返させぬようお願い申し上げます。
もしかすると僕の結論は愚かな考えで、他に方法があるのかもしれません。その時はあなたなりの手段で為して下さい。
僕から伝えたいことは以上であります。
どうかみなさま方に僕の気持ちが少しでも伝わってくれたのならこれに勝る幸運は云々。
それでは僕は僕のやりたいことをやって来ます。
最も、現実はこれほど大層な思いばかり溢れているわけではありませんね。ただ漠然とした何かがあるだけなのでしょう。恐らく。
あるいは僕自身が為したことに意味はなく、それは僕自身の欲求を解決させるものでしかなかった。
それが一番分かりやすい結論で、真実なのだろうと僕は思っています。
あ、聖誕祭おめでとうございます。
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0 そして誰もいなくなった
 DoorAurar  - 10/12/23(木) 19:06 -
  
「澤田!」
 友達がいた。
 よく遊んでいた。
 かけがえのない友達だった。
「どうしたんだ?」
 いつの間にか疎遠になっていた。
 気づけば会うことはなくなっていた。
 その理由には気が付かなかった。
「光義、おい、光義!!」
 ある日、別れを告げられた。
 それだけの話で、それだけの話なのである。
 ただ、彼が自分によく言っていた台詞を、自分は今でもよく憶えている。

「――君って、あせると名前で呼ぶ癖があるよね」

 今思えば、彼は年甲斐にもなく大人びた性格をしていたと思う。


 0 そして誰もいなくなった


 黒縁の眼鏡を机の上に置く。
 思い出にふけるのは楽しいものだと一人ごちる。彼の葬式が行われたのはつい先日。親しい人が次々とこの世を去っていくのを見て、寂寥の念を感じてしまう。
 後悔は先に立たない。
 どのようなきっかけがあったのか、あるいは何もきっかけなどなかったのかは分からないが、再び彼と会ったのはいつの日だったろうか。
「ちゃうー」
 寂しそうな声である。抱えて、頭を撫ぜる。その瞳に皺一つない自分の姿がうつっていた。
 最期の最期まで、どうにかして自分を『治そう』としてくれた彼は、医者の鑑であったと思う。
 そもそも自分ですら気づくまでに六年を要したというのに、彼は一度で自分の問題を見抜いた。元から才能があったとしか思えない。
「ちゃっちゃ!」
 使い古した眼鏡を変える必要がないのも、恐らくはそのせいなのだろう。
 光沢のあるピュアチャオが気遣うようにはしゃいでいる。転生を繰り返しているだけはあって、言わずとも心が通じ合っているのだ。
 机に飾られた写真の中に生きる、自分ともう一人。
 ずっと一緒にいられるのは、片方だけになってしまった――悔やんで、しかしどうしようもなかった。
 この子さえいればいい。
 そう思っていたはずだが、やはり、難しいものである。
 二度と会えない、というのは辛い。
 どこかで生きていてさえくれれば、とは思っても、既にどこにもいないのだから。
「ちゃお……」
 頭を撫ぜる。
 システムを使えば、すぐに会えるのだろう。人格を構築するのはそう難しいことじゃない。けれどもそれは、自分の中にいる彼女たちであって、彼女ではないのだ。
 虚しいと思う。
 飾られた写真の中に生きる、自分ともう一人。
 寿命、というのは哀しいものだと思う。
 この子もいつしか自分を置いて行ってしまうのだろうか。それは寂しいと思った。
 自分の姿も、心も、あの頃とわずかだって変わってはいない。
 変わり行くのは現実と、そして。
 かたりと、何かが動く。
 机の上に、ないはずのものがある。
 小さな、丁寧な文字で、自分の名前が記されている。
 誕生日プレゼント。
「今更誕生日と言われてもな……」
 何が起こっているのか分からない。こんな気分になったのは久しい。不思議な、自分は不思議に直面している。
 綺麗に包装された箱。
 恐らく今日、この日にこの場所へ届けるようにプログラムされていたのだろうが、なぜこの日だったのだろう。
 生唾を飲み込んで、包装を丁寧に剥がしていく。
 それを見て、目を見開いた。
「ちゃ?」
 ポヨを「はてなマーク」にして、自分を見上げているピュアチャオ。
 同時に、携帯電話が鳴った。慌ててそれを手にとって、通話ボタンを押す。
『浅羽さん――ついに完成しましたよ!』
 繋がった。自分の頭の中で、全てが繋がった気がした。
 ブラウンカラーの外套と帽子を見る。見れば、薄汚れた革靴まで綺麗に包装されている。誰の仕業か。こんなことが出来たのは、彼女しかいないだろう。
 黒縁の眼鏡を見る。
 包装の中にある、縁の無い眼鏡を見る。
 違和感の正体。
 いくら探しても見つからなかった彼の正体。
 まるで台本を読んでいるようだった、彼は。
『浅羽さん! 浅羽さん? 聞こえてます? おーい』


「時が経つのは早いな」
 気が付けば既に六十年。思い出にふけるだけの思い出がたくさん蓄積され、自分の記憶容量を圧迫する。
 恐らくはこの時の為に生きてきたのだ。生かされてきたのだろう。何かの手によって。それが代償なのか、あるいは法則なのかは分からない。
 だが、これから行うべき事は自分の未来を守ることなのだ。
 ひいては、彼女の未来を守ることにも繋がる。
 自分がすべきなのだ。
「浅羽さんのお陰ですよ。理論上可能とはされていましたが、まさか実現するなんて」
「俺は、いや、私は助力をしたに過ぎないよ」
「どうしたんですか、急に」
 訓練さ、と答えて、黙り込む。
 システムの進化に携わったのも彼女。それを指示したのも彼女ならば、全てを分かっていたはずだ。自分がどうなってしまうのかも。
 けれど、彼女は人として終わることを望んだ。それは人ではない彼女の、唯一のわがままだったのではないだろうか。
「ちゃお!」
 元気のいい声が聞こえる。ピュアチャオは美しく光る体を惜しげもなく晒し、研究員たちの感嘆を受けていた。
「元気にしてるんだぞ」
 頭を撫ぜる。
 彼女のわがままならば。仕方の無いことだった。きっと辛かったろう。誰よりも優しかった彼女のことだから、ずっと辛かったはずだ。
 決別すべきときなのかもしれない。
 過去の幸福に縋る自分と。かつての幸福に寄りかかる自分と。自分が今から演じるのは、単なる冷酷非道の現実主義者なのだ。
「ところで、本当に良いのですか」
「うん。大丈夫だ」
「過去にシステムは存在しません。あなたの力、あるいは別の方法で戻って来てもらうことになりますが」
 大丈夫だ、と答える。
 自分の予想が正しいのなら、自分の内側の『願い』が切れるまでもって数日というところだろう。そうすれば理から外れていた自分は元の歯車に戻り、今までの修正を受けることになる。
 あるいは、待つのは死なのかもしれない。
 だが、やるべきだった。
「この子をよろしくおねがいします」
 思い残すことはない。外套の内側のポケットに宝石のかけらを確認して、頷く。
 自分のすべきことは決まっているのだ。
 システムが起動する。
 光の波が景色を変える。
 久しぶりの感覚だった。
 気分はすこぶる良い。
 巨大なモニターが目の前に出現する。鋼鉄の部屋。機械だらけの部屋に辿り着く。機械を操作して、制御AIの休眠状態を元に戻した。
『動作確認――システムに異常発生。原因不明。捜索を開始する為、意識を素体に移行します』
 背後のカプセル・ポッドの扉が開く。いつか見た、いつも見ていた姿が目の前にある。まだ無機質で、何の感情もない状態だ。
 いつ感情がプログラムされたのだろう。
 そう思った途端、目の前の少女が口を開く。
「感情パターンを確認。トレースを開始します」
 無機質だった彼女の瞳に、意志が宿る。
 きょとんとしていた。
 あの日から自分自身を造り上げてきた少女ではなく、まだ生まれたての少女である。
 しかし、感傷に浸っている場合ではない。
 男の方は既に感情がプログラムされているのか、冷静な表情で自分を見ていた。
「話があるんだ。聞いてくれ」
 そして、自分は話し始める。
 これから起こるべきことを。起こってしまうことを。未来そのものを。
 自分たちが、どうすべきなのかを。


 がたん、がたん。
 電車が規則的なリズムを奏で、進む。自分は道端に落ちていた新聞紙――この時代にはまだ存在しているらしい――を持って、『彼』の正面の席に座った。
 ピュアチャオが『彼』の隣に座っている。
 頭を撫ぜていた。
 恐らく、『彼』は今、あのときの自分と同じように考えていることだろう。
 意味もなく他者を拒絶し、恨み、見下している。
 そして、自分の未来を知らず、ただ漠然と生きている。
 自分のことながら、少し哀れに思った。
 だが、必要なことだ。
 それに、悪いことばかりではない。
 考えることは不要だろう。
 あとはレールの上にそって歩き続けるだけだ。
 ゴールはきっと、すぐそこにある。
 立ち上がる。
 少しずつ近付く。
 さあ、君は自分のしたいことをやってくるといい。
 それが、恐らくは。
「君のチャオ、名前はなんていうんだい?」


 fin


 明日へと繋がる道は無い。
 自分の役割は終わったのだ。
 あとはただ、自らがいるべき場所へと戻るだけ。
 天国があれば、もしかしたら、そんな場所に。
 行けると、いいかもしれない。
引用なし
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1833 / 1972 ツリー ←次へ | 前へ→
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