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ある日の夕方。多分時刻は5時頃だろう。
いつものように茶色いドアが、
汚いアパートの壁にくっつくように存在していた。
ここは俺の家じゃない、俺の恋人の家。
明日には“元”恋人になる、人の、家。
俺はドアノブに手を引っかける。
がちゃりと音がした瞬間、彼女は俺の所へと飛び込んできた。
不審者だったらどうするんだ?という俺の疑問をよそに、
彼女はすぐに俺をグチと笑い話の中に引き込んでくる。
…最近は、がちゃり、と言うドアの開け方で俺だと分かる。
なんか、そんなことを言っていたので、俺はあえて何も言わず、
流されるがまま、彼女の話を聞いてあげることにした。
彼女の名前は薫と言った。最初その名前故に、男か女かさえも知らなかったが、
今は正真正銘の女だと言うことを知っている。…当たり前か。
彼女は、俺が言うのも何だが、かわいい奴だった。すごくモテた。
どうしてこんなロン毛で顔が見えない俺に惹かれたのかが未だによく分からなかった。
彼女は俺に抱きついたままソファーまで移動させる。
今から、ソファーで隣同士でグチを言い合う(いつも聞くだけだけど、)
そんな時間を過ごすこととなっていた。
「ねぇ、聞いてよ本ちゃん、…。」
彼女の開口一番はいつもそのフレーズだった。
彼女の話は面白い要素がぎっしり詰まった話ばっかりだった。
それが例えグチだったとしても、
俺にはその内容がツボにはまって何度も笑っていた。
薫もそんな態度にぼやきつつも、つられて笑い返していた。
ホント、面白いことばかり考えているようなヤツだった。
その一方で、俺はちょくちょく、“今日する大切な話”の内容を頭で巡らせていた。
そして、それを考えるたび、無意識のうちに、
俺は向こうにあるマイクスタンドに目が付いていたのだ。
「ねぇ、聞いてよ本ちゃん、…。」
またいつものフレーズ。
話題がどうやら変わったらしい。
…でも、その話題は俺の頭を駆け抜けて通り過ぎ去るだけだった。
俺の焦点は、確実にマイクスタンドの方へと当てられていたからである。
そして、耳からは一つの雑音もかき消えた。
…
この部屋でバンドの練習をし始めたのは5年前だった。
彼女はまだ高校生だった。俺もまだ大学生の最初だった。
たまたま知り合って、意気投合して、いつからか知らないけれども、
二人でバンドをしようと言うことになっていた。
俺はギター。彼女はボーカル。
5年間、色々なところで演奏をしていった。
…でも、ほとんどがダメだった。
路上ライブ…、立ち止まった人は大きくため息をついて、
まるで時間のムダと言うかのようにその場を立ち去っていった。
前座ライブ、ケータイをいじる。化粧をする。座り込む。雑談する。
ブーイングさえもない。誰も聞いていない。…。
さすがにその時は俺は彼女をフォローすることも忘れてへこんでいて、
先に気を取り直した彼女になぐさめられる始末だった。
それでも、俺と彼女は離れなかった。
いつから二人が恋人同士という扱いになったのかは知らないけれども、
そういう何か証拠が無くても、俺と彼女は恋人であって、
「売れないバンド」のパートナーであった。
…でも、「売れないバンド」というレッテルは、
ある日の夕方、急にはがされることとなった。
いつものようにわずかな人の数の変動で俺たちは一喜一憂し、
ちょうど自分たちのそれぞれの器具を片づけているところだった。
『今日はお客さん何人いた?あたし、歌うのに夢中でさ。』
『んー…6人だったっけな。』
『わぁ、すごーい!前は0人だったのにね!』
『あぁ、そだな。…。…ごめんな。』
『え?どうして、謝るの?』『俺ミスしてばっかりでさ…。』
『そ、そんな、私もそうなんだよ!
仕方ないよ、本ちゃんは大学行っていて忙しいんだから。
バイトしないと、お金はいってこないし、
私みたいに暇人なニートじゃ無いんだから!』
『…。』
俺たちはしばらくの沈黙を続けていた、その時、
空気を読んでか読まないでか、1人の太った男が俺たちに近づいてきた。
見た目では誰だかさっぱり分からなかったけれども、
名刺を出した瞬間、あぁ、そうだなと思った。
その名刺の会社名は、某有名音楽事務所だったからである。
もちろん内容は、来ないか?と言う話だった。
そう、あれだけ売れなかった俺たちが、急に誘われたのである。
周りで冷めた目をしていた人間が俺たちを見だした。
さっきまであんなに冷たかったのに…俺は少しイライラを感じていた。
しかし、そんなイライラも、先ほどの言葉も、
全部帳消しにしてしまうような言葉が俺の耳に届いてきた。
『ギターの人は抜きにして、君だけでうちに来ないかい?』
…俺たちが誘われたのではない、薫だけが、誘われた。
俺はそれで愕然としたと言うよりも、
さっきまで客にイライラを感じていたことが恥ずかしくなっていた。
なんだ、結局本当に売れないヤツは売れないヤツなんだな、
と心で感じた。
一方で彼女はずっと首を振っていた。
理由は分かっている。聞こえなくても分かっている。
俺が上手いから?そんなこと有るはずがない。
彼女が下手だから?いや、そんな謙虚になることはあり得ない。
俺が、そこに、いるからだ。
自意識過剰でも何でもなく、俺はそれしか理由が思いつかなかった。
良い意味で、…悪い意味で。
そうして、プロデューサーらしき人は、俺を恨むかのように一瞥すると、
その場をスタスタと歩き去っていった。
俺はその顔に憎しみを覚えるよりも、申し訳ない気持ちが強く響いた。
だってそうだろう?
俺が居なければ、彼は「こんなにも素敵な才能」を拾って、
彼の威信にかけて最高の歌手に育てることができるんだから。
彼女の唄は確かに人を引きつけていた。
引きつけられない原因はどう考えても俺の曲と歌詞にあった。
単に、俺が彼女の才能を見せる能力が無かったからなのだ。
…あの日の夕方から、俺は下手な曲を必死にアレンジした。
でも、うまくいかない。むしろ、うまくいくはずがない。
スランプじゃないと言うことには薄々気付いていた。
よしんば、スランプと言えるならば、それはもうあり地獄のようなスランプなのだ。
一度入ったら、もう“二度と”抜け出せない。
そして、そのあり地獄に、俺は“才能”という名のロープが無かった故に、
引きずられ、そしてもう、登る術もない。
こんな汗が流れても何にも結びつかない生活の中で、
いつしか、俺は山積みになった汚い推敲だらけの楽譜に囲まれながら、
有る一つのこと考えるようになっていた。
俺があり地獄にいる…。
…それならば、ロープがあるのに登れない、
1人の可愛い天使の足を掴むのはもう止めよう。
解き放ってやろう、手を離してやろう、
…そして、…。
…
「…本ちゃん!聞いてるの!ねー!」
「…!あぁ、悪い…。」
「元気ないよ最近。何かあったの?」
「…マイクスタンド、まだ俺の買った安物使っているのか…?」
「…うん。だって大切だもん。」
「そっか。…。」
明日にでも話せばいいかと一瞬思った。
今のような質問、しなければ良かった。
…でも、もう、俺の行く道は決まっていた。
もう、アクセルを踏んで、
俺はこの坂道を走り抜けていかないといけないのだ。
「ねぇ!練習しようよ!…あれ?ギターは?」
「…あぁ、それは…。」
「…?もう、忘れたの?今日は、いつも練習する日なのに!
じゃあ、一緒に取りに行こうよ!
近くだったでしょ、あたし、コンビニで欲しい物が…。」
「…なぁ、その前にさ、一つ面白い話があるんだ。」
「…え!面白い話!?本ちゃんがそんな話するんだ!
で、何なに!何の話!?」
彼女、薫は俺の目をまっすぐに見て、かすかな笑みを浮かべていた。
そこには俺に対しての何の恨みも見えない。
だから、どんどん心が痛む。
心は痛むが、もうこれからどう止めようともできない。
胸が痛い。
ずきずきする。告白した時よりも、痛くて、苦しい。
「俺さ、」
でももう…口を開いた。
唖夢のその目線を少し逸らして、俺は、
適当な口調で、言った。
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