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まだ形を持っていない魔法の中を、チャオだけが漂う。
この星に満ちている魔法の源、人間がマナと呼んでいるそれをチャオは感じ取ることができる。
人間にはできない。他の生き物もおそらく。
チャオだけが感じられる。
そんなものがあることに、人類はずっと気付いていなかった。
チャオのおかげでようやく知ったのだ。
知ることはできたが、俺の体はまだそれを感じられてはいない。
マナを利用して魔法を使うようになってから五年は経つが、世界の中のマナを感じたことはない。
「お前は魔法を使う時、魔法のことを考えてないな」
俺の肩に乗っている俺のチャオ、クリックが言った。
小さな男児のような声をしている。
「いつもは集中してるよ」と俺は返す。
「確かにいつもはそうだな。だがさっきはしてなかった。それに前にも何回かあった。こういうことが」
魔法を使う時には俺とクリックは繋がっている。
だからクリックには俺のことがよくわかるのだ。
そして人間と繋がるために強化された頭脳が、こんなふうに偉そうな口を叩けるようにしているのだった。
可愛げがないのがいい、とイナナはクリックについて言っていた。
俺もそう思う。
クリックのことはかなり気に入っていて、相棒で親友だと俺は思っている。
「それで。何を考えていたんだ?」
クリックはニュートラルヒコウチャオの大きな羽で俺の頭をぺしりと叩いた。
こうやって羽をもう一対の手のように扱う癖があった。
足を機械化したことがこの癖を生んだのかもしれない。
マナを効率よくチャオの体内に集めるため足を改造するから、魔法使いのチャオの足は金属の硬さがある。
それがチャオらしくなくて、クリックは気に入っていないらしい。
「何をって、お前わかってるんじゃないのか」
聞くまでもなく俺の考えていることを読んでいるものと思って、クリックにそう言う。
「残念なことに、そこまではわからんのだよなあ」
「へえ。そういうものなのか」
「それで、何を考えてたんだよ。話してみろよ」
俺は素直に、クリックに話した。
俺がまだマナを感じたことがないこと。チャオたちにはそれがどのように感じられているのか気になったということ。
するとクリックは、そんな面白いもんでもないぞ、と笑った。
「空気みたいなもんだ。いや、それはちょっと違うか。明るい部屋の中で目を凝らすと見える、部屋の中を漂っている小さな埃って方が近いな。そういう、気にしなければ気にならないものだよ」
「そういうものなのか」
繋がっていないのに俺の考えを察してクリックは、信じていないな、と笑った。
マナを感じられるようになったら、今よりも世界が輝いて見えるに違いないと俺は思っているのだった。
「まあいいや。次の仕事はちゃんとしてくれよ」
クリックは羽で、今度は俺の首のすぐ下の背骨の辺りを叩いた。
「さっきの仕事だってちゃんとやったろ」と俺は言う。
「あれがちゃんとだとお?」
「ちゃんと治した」
さっきまでしていた仕事は、チャオガーデンでのチャオの治療である。
改造されなくてもチャオはマナを体内に取り入れることで生きている。
体を自在に変化させられることや転生能力など、チャオに備わった特別な能力はマナの支えがあってこそのものと考えられているのだ。
そのマナを体内に取り入れ過ぎてしまったり、あるいは出し過ぎてしまったチャオの体内のマナの量を調整することは魔法使いの仕事である。
調整と言ったって、大雑把に減らしたり増やしたりするだけでいいから、考え事をしていたって上手くいく。
「治ったって、職人技とは言えないんだよ」とクリックは言う。
「知るか。次の仕事は気を抜かないから任せておけよ」
「それはマジで頼むぜ」
次の仕事は、魔獣退治であった。
マナには生き物の害となる種類のものもある。
精神に影響を与えたり、体を変形させてしまうものなどもあるのだ。
そうしてマナによって怪物となった獣を撃退するのは、魔法使いの仕事だ。
今日の仕事は、その悪性のマナが観測されたために魔獣が出てこないか警戒するというものだ。
もし魔獣が見つかれば、戦い殺す必要がある。
華やかな仕事だ。
肉体を改造することへの抵抗感が薄れるくらいに。
もうすぐで魔法を使えるようになってから五年と一ヶ月になる。
そんな時期に、俺は魔法局に呼び出された。
魔法を使う者、魔法使いたちを管理している場所だ。
お叱りを受ける覚えはない。
頻繁に幼馴染のイナナに仕事の手伝いをさせているが、それがひょっとしたらまずいのかもしらんと心配していたのは、仕事を初めてから三ヶ月くらいの間だ。
魔法局では魔法使いにそれ専用の仕事を紹介している。
普通はこちらから仕事を求めに行くのだが、向こうから呼び出してくるということは、何か特別な仕事をさせられるということなのだろう。
とうとう俺もそういう魔法使いになったということらしい。
喜びで緊張しながら魔法局の高いビルを見上げ、開く自動ドアの真ん中を通って中に入る。
見知った受付の女性が、
「マキハルさん、こちらにどうぞ」と軽く手を挙げて言うので、そちらに行く。
彼女から、来客用のカードキーを受け取る。
「七階の奥の会議室弐です」と彼女は言った。
エレベーターのドアの近くにある挿入口にカードキーを挿し込むと、エレベーターが一階に降りてくる。
カードキーの情報を読み込んだエレベーターは俺を乗せると七階に上がる。
そして奥の方を目指して廊下を歩いていって、会議室弐を見つけるとそこでまたカードキーを挿し込んで開錠する。
見たことのある顔の男が一人、既に部屋の中にいて椅子に座っていた。
彼は立ち上がって、
「本日はお忙しいところわざわざお越しくださり、ありがとうございます」と頭を下げながら、低い声で言った。
ああ、この声、テレビで聞いたことがある。
俺はそう思いながら、恐縮してしどろもどろに何かを喋りながら何度も頭を下げた。
男は魔法局の局長だった。
既に髪は白くなっているのに、体は引き締まっている。
そういった見た目のために一層威厳があるように見える男だ。
「まあ、座ってください」
男は笑み、そう言った。
言われるままに俺は近くの椅子に座る。
それから俺は男と三十分ほど話していた。
俺は酷く緊張していたから、話をするという感じではなく、ただ聞いているだけだった。
彼の話すことに、ええだのはいだの相槌を打ちながら頷いていた記憶しかない。
部屋から出る際に、男に言われた。
「ところで、チャオは連れていないのか?」
魔法使いはチャオなしでは成り立たない。
だから魔法使いは常にチャオを連れているものである。
「メンテナンス中なんです」と俺は苦笑いした。
「ああ、そうなのか。わかった。ありがとう」
俺は一度会釈してドアを閉めると、早足でエレベーターに向かった。
仕事の依頼だった。
悪性のマナの発生源を調査する、という仕事だ。
これまで、悪性のマナの濃度が高くなった地域がいくつも捨てられてきた。
それらの地域を取り戻すために、たとえ危険でも誰かがしなくてはならない仕事だった。
幸い俺以外にも多くの魔法使いが調査員として派遣されるらしい。
身を危険に晒し続けなくてもいいということだ。
しかし、悪しきものに立ち向かう魔法使いという英雄の物語のようなこの仕事を、歓迎しないまでも喜ぶ気持ちが俺の中にあって、死なない程度に頑張って何らかの情報を掴んでやるつもりになっていた。
できればその原因を絶ってほしい、とは男からも言われていたことだ。
その後に、無謀に突っ込んで死ぬくらいなら安全な所で調査していてもらいたいものだが、と男は言っていたが、どう振る舞おうが俺の勝手だ。
考えなくてはならないこと。
それはイナナを連れていくべきだろうかということだ。
俺は自分の暮らすマンションの部屋でこれからの旅に必要な荷物を思いついた物からメモに書き留めつつ、そのメモ用紙の隅に書いたイナナという文字を見て考える。
イナナはよく働くから役に立つ。
あいつがいるとクリックも機嫌がよくなるし、俺も楽しい。
長い旅になるなら、あいつにはいてほしい。
しかし危険なことをしようという気でいるのに、彼女を巻き込むのはよくないことだ。
「うっす。いる?」
イナナが合鍵を使って部屋に入ってきた。
俺を見つけて、いるなら返事しなよ、と不満そうに言う。
「で、何か仕事ある?」
「しばらく旅に出ることになった」と俺は答える。
「え、どういうこと?」
「魔王を倒す冒険の旅だよ。リュックサック買わないと駄目だろうなあ」
メモ用紙に、リュックサックと書く。その後ろに小さく登山用と付け足して。
「わかるようにちゃんと話して」とイナナが言った。
「ちょっと待ってくれ」
俺は山や森で数日過ごすことを考えていた。
そうできるように装備を整えるなら、キャンプ用品なども調べて準備をしたい。
メモ用紙には、登山とかキャンプとか、思いつく限りの検索用のキーワードを書き込んで、それから俺はイナナに今回の仕事のことを話した。
元凶を見つけたら、それを排除しに行くつもりでいることも話すとイナナは、
「それで魔王を倒す旅ってわけ」と嘲笑うような顔をして面白がった。
「そういうわけ」
「ふうん。私も付いていっていい?」
「正気か?」と俺は驚いた。
「マキのこともクーのことも心配だし。長い仕事になるんでしょ」
期間のことは知らされていなかった。
長いどころか、一生やり続けるかもしれない。報酬はよかったし。
「じゃあ私も行くよ。あと結婚しよう」
そう言うとイナナは、得意そうな顔をした。
これ以上ないプロポーズをしてやったぜ、と言いたそうだ。
その顔のおかげで俺はあまり動揺しなかった。
「ああ、わかった」と俺は頷く。
「やった」
イナナは破顔すると俺の握っていたペンを奪った。
リュックサックの横に二人分と書き足し、それからその下に婚姻届と書き入れた。
「クーに証人になってもらおうか」とイナナは言った。
「あいつチャオだから無理だろ」
「なんだ、つまんない」
クリックのメンテナンスが終わるのは明後日だ。
俺たちは早速買い物に出かける。
ホームセンターに向かう途中で、イナナは証人になってくれそうな人間に手当たり次第電話をかけていた。
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